床とテーブルを片付けた。用意していた料理をこんなにもぞんざいに扱ったのは初めてだった。
迅速にそれらをこなすズミを、少女はただ見つめて立ち竦んでいた。その少女を呼び、椅子に座らせた。
その隣に屈み、少女を見上げた。下からだと、更に骸骨のような輪郭が浮き彫りになる。
あまりの痛々しさに目を逸らしそうになり、しかし自分が目を背ける訳にはいかないと思い直した。
激しく咳き込んでいたことを思い出し、ズミは少女に質問を投げた。
「息は苦しくありませんか?」
その問いに少女は小さく頷いた。
「何処か痛いところは?」
それも同様に、何気無く紡がれたいつもの質問である筈だった。
少女が「はい」か「いいえ」そして「ごめんなさい」の3つの意思しか提示しないことをズミは熟知していた。
だからその問いに対する答えは、その骸骨のような頭を僅かに横へと動かすことである筈だった。
しかし少女は沈黙し、その手を宙に浮かせた。
針金細工のような手は、少女の胸にそっと添えられた。
それは先程の「怒って下さい」と同様の、少女が見せた珍しい意思表示だった。
その手はまるで、憎らしいものを扱うかのように強く握り締められた。
「……」
その仕草が示すものをズミは理解していた。だから投じる手段が見つからないことに困り果てるしかなかった。
「貴方のその痛みを取り除いてあげたいのですが、生憎私は貴方のことを何も知らないのですよ」
この少女が何に苦しんでいるのかをズミは知らない。
当たり前だ。少女は何も話さない。彼女が積み重ねた拒絶は、彼が少女の情報を集めることを妨げ続けていた。
それでも、ズミの少女に対する考えは、初対面の時から随分と変わってしまった。
その目に否定の色を見出しては激昂し、拒絶の色を見出しては好奇心を湧かせた。
プラターヌの言葉を笑って一掃しながらも、少女が何かに苦しんでいると知り、漠然とだが心配になった。
拒絶を全面に押し出しながら、それでもここに来ることを止めない少女の態度に救われた。
食べ物を、自分を、生きることを拒絶しながら、それでも少女はここに来た。そのことに一先ずは安堵していた。
日を増すごとに細くなっていく彼女に焦りながら、彼は時間を重ねてきた。
そしてやっと、やっと声を聞けたのだ。それを取り零すことだけはしたくなかった。
「……どうして?」
消え入るように細い声でそう尋ねられた。その答えを探す為にズミは沈黙する。
それが「どうして貴方は私のことを知らないの」という意味ではないことくらい解っていた。
少女のその疑問は、先程の自分の発言の前半に当てがわれたものだ。長い時間をかけてズミはそう確信し、口を開いた。
「貴方に死んで欲しくないからです」
少女の目が驚きに見開かれた。
「私は貴方のことを何も知らない。しかし、私は貴方のことをずっと見てきました。
貴方はそれを許してくれた。だからここに来て下さったのでしょう?」
「……」
「全てを受け入れろなどと言うつもりはありません。ただ一つでいい。妥協出来るものはありませんか?
食べること、生きること、何でもいい。何か、許してあげて下さい」
そしてズミは気付いた。少女が自分を見ていることに。
だから彼は断言しなければいけなかったのだ。
自分が迷っていてはいけない。例えその思いが確信出来るものでなかったとしても、今だけはそれを断言しなければならない。
少しでも揺らぐ言葉を投げてはいけない。彼女を不安にさせてはいけない。その思いは紛れもなく真実だった。
「何か一つ、それがあれば、後は私が貴方を引っ張り上げてみせます」
その目は、今まで見てきたどんな色とも違うものを帯びていた。
怯えでも拒絶でも驚きでもない。少女はただじっとこちらを見つめていた。その深いグレーの目をズミは見つめ返した。
目を逸らすな。訴えろ。何か一つでいい。彼女を生かす手段が欲しい。
程なくしてそれは与えられた。針金細工のように細いその指先で、徐に差し出されたその言葉で。
「?」
その指はズミを示していた。
「貴方を」
その時は唐突に訪れていた。ズミは言葉を失い呆然とした。
それは、と紡いだ自分の声は掠れていた。心臓が煩く鼓動を刻んでいた。
つまりそれは、自分を認めてくれたということなのだろうか。
自分の信条を侮辱した少女が、料理に一口も手を付けようとしなかった少女が、あろうことか自分を認めてくれたということなのか。
しかしそんな混沌とした頭の中を整理するのは後でいい。今は少女が差し出してくれた「それ」を零さず拾い上げなければならない。
やっと、やっとだ。ようやく少女が口を開いた。みすみす逃したりしない。必ず掬い上げてみせる。
「私に話して下さいますか」
「……」
「ゆっくりでいい。急かしはしません。だから少しずつ、話してくれますか?」
長い時間が過ぎていた。その沈黙をもどかしいとはもう思わなかった。
少女は必ず頷いてくれる。それはズミの確信として抱くことが出来た。
やがて少女はその口を徐に開く。
「はい」
ここが、二人の始まりなのかもしれなかった。
2013.11.16