三十の詩

30:YOU ARE NOT ALONE.

 アンノーンたちは、自らが並び作り上げた言葉に対してより良い反応を見せるコギトの傍を好んだため、ウォロは二十八個のポケモンボールを全て彼女へと託した。彼女はその全てを「放し飼い」にしたため、隠れ里にはアンノーンたちが常に溢れ返ることになってしまった。ウォロが時折足を運べば、彼等はわっとウォロの方へと寄ってきて、ウォロの知る言葉ばかりを宙に並べては楽しそうに瞬いてくれる。ウォロはそんな彼等を眺めながら、コギトの出す茶をすすり、他愛もない話をする。彼女との日々、彼女がヒスイの歴史を加速させていく過程、それらを共に懐かしめる相手がいることを、ウォロはこの上なく幸いに思っている。
 隠れ里への土産は専ら、イチョウ商会を通して手に入る物品と、あとはズイの遺跡に出現するようになったアンノーンたちだった。仲間の気配をウォロに感じているのか、あの遺跡にいるアンノーンたちはウォロを見るなりピロピロと鳴いて飛んでくる。一緒に付いて来たがる個体をボールの中に収めては、ウォロは隠れ里に新しく放った。コギトは「また連れて来たのか」と呆れたように笑いながら、けれども一匹たりとも追い返すことなくその文字たちを受け入れ続けた。
 アルファベットで言葉や文章を作るにおいて、特にEやTのアンノーンは欠かすことができず、彼等は常に引っ張りだこだった。逆にZやXやQはなかなか出番を貰うことができず、よく拗ねていた。へそを曲げたアンノーンたちの機嫌を取るのがコギトは実に上手かった。ウォロはそうした技量に乏しかったためか、彼等の八つ当たりである「めざめるパワー」の的には専ら彼が選ばれた。嘆かわしいことだ、おかげで髪が何度焦げたか知れない。

 イチョウ商会の所属からはまだ脱していない。会長であるギンナンが超の付く放任主義であることが幸いして、ウォロの行いが咎められることは一度もなかったのだ。ムラの通りに人のほとんどいない深夜帯に彼を訪ねては物資の補給を言葉少なに済ませていくウォロのことを、彼はただいつもの面倒くさそうな顔でぼんやりと眺めるばかり。そんな状況がこれまでずっと続いている。きっとこれからも彼はそんなウォロを許し続けるだろう。この商会服を身に付けたウォロの姿がまかり通っていること。それが今のところ、ウォロとコトブキムラを繋いでくれる……正確には「ウォロの方から繋いでいてもいいと思える」唯一の縁であった。
 ラベン博士やムベにはあれから何度か声を掛けられ、話をした。そのどれもが、ウォロの行いを糾弾するものではなく、ウォロの今後を案じるような内容であった。おそらくはウォロの与り知らぬところで彼女からの言葉添えがあったのだろう、「君を仲間外れにすると彼女に叱られるから」と寂しそうに笑いながら博士が口にしていたのが印象的だった。深夜帯を選ばずとも堂々とムラを歩いていいのに、とさえ言われたが、ウォロはそれらの誘いを丁寧に断り、今も表向きは「一人」であることを選び続けている。

 ポケモン図鑑やポケモンボールを含め、彼女の荷物はギンガ団に返却した。団長に相撲の投げ技で吹き飛ばされるのは御免被りたかったため、ウォロは彼が外出している昼時を見計らって、一階で執務をしているシマボシに全てを預けたのだ。分かりにくかったが、もしかしたらシマボシにも彼女からの言葉添えがあったのかもしれない。「組織の財産であるため貸し出すことはできないが、この図鑑が見たくなったらいつでも来るといい」と、すぐさま立ち去ろうとしたウォロを呼び止めてまでそう告げてくれたから。その鋭い視線は、ウォロではなく書類の方に落とされたままではあったけれど。
 ムラの「変化」は健在だ。ポケモンと共に暮らすことを受け入れ楽しむ人間も、ポケモンをボールから繰り出して戦わせる人間も、あれからまた少しずつ増え続けている。彼女が起こした変化、彼女が加速させたヒスイの時代は益々賑やかに、輝かしいものになっていくのだろう。

 とまあ、そういう訳で、ウォロはまだアルセウスに会いに行けていない。
 あの全なる神に謁見する時、それはウォロが己の力だけで神を従え、新しい世界を創造できるか試す時であるとウォロは考えている。すなわち「今のヒスイ地方が一瞬にして無になることを心から望めた時」にこそ、あの光の階段を上るべきである、ということだ。そして生憎、そんな「時」が訪れる目途はまだ立っていない。故にウォロは自らの悲願を、自らの心地が追い付かないが故に、まだ達成することができずにいる、という有様なのだった。
 アルセウスはもしかしたら、このことを承知で……今のウォロにはあの階段を上る意義がないこと、今のウォロが神への道に足を掛けることができないこと……を理解し尽くした上で、ウォロに自らの元へ至る道を示したのかもしれなかった。
 この世界を見限りたくなったらいつでも来るといい。そんな「時」など当分あなたには訪れないだろうけれど。そんな風に言われているような気さえして、ウォロはすこぶる腹立たしく憎らしく、いっとう愉快な心地になれてしまったのだった。

「アルセウスへの謁見はお預けにすることにします。世界の再構築を試したくなるその時まで。具体的には……彼女が変えたこのヒスイがその歴史を曇らせ、どうしようもないところへ堕ちてしまうようなことが起こるまで」

 コギトの入れた茶に口を付けつつ、ウォロはそっと告げた。彼女は茶を持つ手をぴたりと止め、驚いた表情のままにしばらく固まっていたのだが、やがてあどけない表情で笑い、「ではそなたも歴史の見守り人となるのだな」と、仲間を見つけて喜ぶ子供のような、明るく弾んだ声音でそう紡いだのだった。
 ああ、でも彼女がいれば、「え、まだ会っていないんですか? 階段が既にあるのに?」などと驚いて、すぐにでもウォロを連れて行こうとこの手を取って強く引いたのかもしれない。「用事がなくても大丈夫ですよ、挨拶だけでもアルセウスはちゃんと歓迎してくれますから」とか言いながら笑ってウォロを誘ってきそうだ。そうして彼女の方から手を取られてしまえば、ウォロにはもう彼女の手を離すことなどできないのだろう。そういう風にかつて決意したから。ワタクシからは決して手を離さないと、けれども手を離す彼女を責めることもしないのだと、あの旅の中でかたく誓ったそれは、今も変わらずウォロの中にあるのだから。

 *

 どれくらいの時間が経っただろう。数週間かあるいは数か月か。神話の探求を続けてヒスイを回りながら、時折コギトの隠れ里へと足を運んで話をする生活にも、すっかり慣れてしまった頃のこと。
 夜でも隠れ里は賑やかで明るい。コギトの家の窓から漏れる明かりの他に、その周囲を楽しげに飛び回るアンノーンの発光がそう見せるのだ。今日も今日とて宵闇に言葉を作って遊んでいるそのアンノーンたちは、けれどもウォロを見つけるや否や、わっと一斉に詰め寄って来た。ピロピロとそれぞれが自己主張するように一斉に鳴く。一匹一匹のそれは小さくとも、何十と集まれば凄まじい音になった。懐かれている、という自覚はあったものの、いつものそれとは勢いがまるで違うような気がして、ウォロは少々狼狽えてしまう。
 騒音と呼んで差し支えないアンノーンたちの鳴き声は、屋内にまで大きく響いたのだろう。ややあって家の扉がそっと開き、眠そうな目を擦りながらコギトが出てきた。ウォロとアンノーンたちを交互に見遣り、いつもの困り眉で苦笑しつつウォロの来訪を歓迎してくれる。

「おや、やっと来たか。待ちくたびれたぞ」
「コギトさん、こんばんは。彼等の様子がおかしいようですが、これは一体?」
「まあ見ていけ。こやつらはそなたに伝えたいことがあるようじゃ」
「伝えたいこと?」

 一体何です、と口にする前に、アンノーンたちは素早く動いた。忙しなく飛び回るアンノーンたちだが、彼等がどんな言葉を作っているのかは実に分かりやすい。綺麗に並び、言葉が出来上がったと思しきタイミングで、彼等はこちらに気付きを乞うようにしてふわっと青白く光るから。言葉を、意味を、この世界にまた一つ作り上げられたことを喜ぶように、それを見てくれる人がいることを歓迎するように、彼等は眩しい輝きを実に優しく放つから。

「SEA」

 一つの言葉を作り、光を放ったところでアンノーンたちはまた動く。

「ANYWHERE?」

 更に動く。

「TOGETHER……」

 そして。

「PROMISE」

『コトブキムラの南、始まりの浜にはいろんな人が船を使ってやって来るんです。その船に乗って、この土地を離れてみるのもいいかなって』
『大丈夫。ポケモンがいてくれるなら、きっと何処に行っても寂しくありません』
 それらの言葉がウォロの脳髄に手を差し入れ、かつての彼女の言葉を引っ張り出す。群青の海岸、廃船に差す月明かり、彼女の覚悟、新しい旅への誘い……。
 ウォロがそれらを思い出した頃を見計らったかのように、アンノーンたちは再び集まり、少し高く浮き上がって夜空にずらりと並んだ。丸い月と無数の星を背景に、これまでウォロが何度も開いてきたメモ帳、そこに記されていた彼女の、あの文章が出来上がる。二十九番目と三十番目の調べが、淡い光で宵闇に瞬く。

『LET’S GO ANYWHERE TOGETHER AGAIN.』
“約束。また一緒に何処へでも行こう”

『YOU ARE NOT ALONE.』
“親愛なる人へ。貴方は一人じゃない”

 その文章がいつもと違う輝き方をする。アンノーンたちが放った水色の、結晶のようにも見えるそれが、奇跡めいた何かを歓迎するようにウォロへと眩しく降り注ぐ。

「……まさか」

 ウォロはアンノーンが作る文字の奇跡を信じていない。全なる神、アルセウスの力でさえ叶うかどうか怪しかった彼女の願いが、たかだか二十八種のアンノーンの力を借りたところでどうなるはずもなかろうと考えていた。文字が作る言葉、言葉が作る意味、意味を見る人々の力、そうした確かなものは、しかし奇跡に変われる程の力を持ってはいない。そんなもので救われてしまえる程、彼女やウォロの願いはやさしくない。

 けれど、もしウォロがアンノーンの力を見誤っていたのだとしたら。文字が生み出す力、アンノーンたちが「彼女」を想う力、そういうものに果てがないのだとしたら。神の力さえ凌駕する何かが、彼女の信じた文字に、言葉に、宿っていたのだとしたら。
 だとしたら、これは。彼女がくれたこの言葉たちが意味するものとは。

「何を呆けておる。この寒空の下で待ち惚けをさせるつもりか?」

 コギトのそんな、微笑み混じりの声が最後の一押しとなった。ウォロは踵を返して隠れ里を飛び出した。コギトのクスクスと笑う声と、アンノーンたちのピロピロと鳴く声とを背後に受け、ウォロはコトブキムラの方角へと一直線に駆けたのだった。
 もし戻れなかったなら、その時には始まりの浜にやってくる船を借りて、ヒスイの外へ繰り出すつもりだと彼女は言った。であるならば彼女の時間、こちらの世界での新しい時間はその場所から始まるべきだ。その確信があったからウォロは最早迷わなかった。調査により鍛えられた脚が疲労により止まることも、またなかった。

 *

 波の音が聞こえる。家屋の明かりはムラの方角にのみ集まっており、始まりの浜には松明の一本もなく、黒曜の原野での野宿を思わせる闇が広がっていた。けれども今宵は満月で、星も見事なまでに空を彩っていて、そうしたものの輝きさえあれば、波打ち際に佇むその人影を捉えることなど造作もなかった。
 ウォロの足が止まる。彼女は背後の来訪者に気付かないまま、その視線を海へと向け続けている。波の音に掻き消されてウォロの足音は届いていないのだろう。こちらから声を掛けなければ、あるいはこちらから彼女に触れなければ、ずっと気付いてもらえなさそうだ。そこまで考えてウォロは思わず笑ってしまう。
 ねえアナタ、しばらく会わないうちに、随分と危機察知の力が鈍ったんじゃないですか。元の世界で随分と平和ボケしてしまったようですね? そう揶揄っていつかのように背面取りをやってのけたい気持ちにも駆られたが、ウォロは思い直してそっと一歩を踏み出す。

「……っ」

 これは、奇跡だろうか。彼女が最後まで信じた文字の力、それに応える形でアンノーンたちが奇跡を起こしたとでもいうのだろうか。あるいは開いたままになっている時空の裂け目が、またしても彼女を彼女自身の意思に反して、こちらへと呼び戻してしまったに過ぎないのだろうか。またはかつてのウォロが提案した「アルセウスにどちらの世界も捨てたくないのだと、全てが欲しいのだと我が儘を言ってやっては?」というそれを彼女は既に実行していて、その願いに長い時間をかけてあの全なる神がとうとう応えてくれたということなのだろうか。もしくは元の世界を見限りたくなるような嫌なことが起こったとか、そういうよからぬ事情で、開いたままの時空の裂け目に、彼女の方から望んで飛び込んできてしまったのだろうか。それとも、ウォロには想像も付かないような、夢と現実、過去と未来、世界と異世界、そうしたものの複雑な事情によって、呼び戻されてしまったのだろうか。
 何故来たのだろう。どうやって来たのだろう。奇跡の力か? 不幸な事故か? 彼女が望んだのか? 神の慈悲か? 彼女を愛したポケモンたちによる計らいか?
 分からない。彼女が此処にいることについて、ウォロには一切の説明が付けられない。

 これ、が彼女にとって不本意な展開であったなら、とウォロは一瞬だけ案じた。ウォロの声に振り返った彼女が、再びこの世界に落とされたことによる絶望の表情をしてはいないか、泣き腫らした目で何もかもを諦めたようにこちらを見上げてきたりはしないか、と恐れたのだ。だが一歩、また一歩と近付くにつれ、彼女が泣いている様子も気落ちしている様子もなく、頭を小さく揺らしながら鼻歌さえ歌っていることに気付いてしまい、ウォロの肩の力は一気に抜けた。ああ全く本当に、末恐ろしい子供だ、アナタは!
 どのような理由であったとしても構いやしない、とその鼻歌を聞きながらウォロはようやく思えた。この奇跡めいた事象をヒスイの謎のひとつに加え、一生を掛けて探求し尽くすのもまた面白そうだ。当然、その探求には彼女を巻き添えにしてやろう。誘えば彼女は必ず来る。手を取りさえしてしまえばこっちのものだ。ウォロからは決して、手を離してやりなどしないのだから。ずっとずっと、そう誓って此処まで生きてきたのだから。

 以前のTシャツに短パン程の奇抜さと頼りなさはないものの、今回の服装もなかなかにおかしなものだった。膝上まで丈を短くした浴衣、という風にも取れるが、こちらの世界では浴衣にブーツを合わせて履いたりはしないし、その下に履いている、敢えて腿の部分だけを出す形で晒された白く長い足袋のセンスも、ウォロには理解し難いものだった。以前より更に伸びた髪は背中へと豊かに流れていて、その隙間からマフラーと思しき白いものが覗いている。随分ともこもこしていそうな生地だ。頼めば触らせてもらえるだろうか。

「相変わらずキテレツな格好ですね。そちらではそんな服が流行っているのですか?」

 鼻歌が止む。肩が跳ねる。振り向いた彼女は、その大きな目にウォロを映して笑う。花のように、雪のように、氷のように、海のように、この奇跡めいた再会を喜ぶように。ウォロもにっと笑って喜び返して、彼女の突進を迎えるように腕を伸ばす。あの再会の日のように一切の手加減なく飛び込んできた彼女を抱き留めながら、ほんの少しだけ、その背が伸びているのを感じてまた笑った。

2022.2.23










 水色の花が揺れている。星が瞬き月が輝いている。波の音が聞こえる。
「貴方が本当に一人じゃなくなるまで……」
 時折強く吹く風が、浜辺に立つ二人の会話を夜の向こうへ運んでいく。
「もう私がいなくても大丈夫だって思えるようになるまで、此処にいたいなあ」
「フッ、あっはは! ああもう、アナタってなんて愚かなんだ。そんな日が来ると本気で思っているのか!」

 いつ消えるとも知れない、不安定で不確実なただ一人の手を取っている。神に、ポケモンに、世界に、時代に愛されすぎた子供とかたく手を結んでいる。夢を手放せず、夢を見ることをやめられない少女の、その小さく温かい手を強く握り続けている。
 こちらからは決して、決して、離してなどやらない。

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