三十の詩

23:Looking for emotions to play the ”Q"uintet

 戻りの洞窟へと続く坂道を駆け上がり、オオニューラの力を借りて崖を飛び越えた。「うみ いずみ にほんのき」とのメモの通り、崖の向こうに広がる泉の傍、二本生える木の一方にQのアンノーンは張り付いている。彼女の投げるボールの軌道には一切の狂いがない。ウォロの鼻を潰す勢いで投げつけられたあの雪玉と同じく、そのモンスターボールもアンノーンの瞳の中央へと真っ直ぐに向かい、そして当たった。

「ギラティナはこの洞窟の中にいたんですよ。あんなに強いんだから、こんな暗いところへ隠れてしまわなくたってよかったのにね」
「では、アナタは此処でギラティナの捕獲を……」
「そうですよ。でもどうして此処だったんでしょうね。ギラティナに縁のある土地なんでしょうか? それとも、姿を見せて外を飛び回って、他のポケモンに怖がられることが怖かっただけ?」

 怖がられることが怖かった、なんて、世界の裏側を管理するポケモンにはおおよそ不釣り合いな言葉のように思える。あのギラティナがそのような優しさ故の臆病を発揮するはずがない、とウォロなどは考えてしまう。だがここ数日、彼女と行動を共にすることで、ウォロ自身に「不釣り合いな」「らしくない」変化が次々に起こり始めていることを踏まえると、孤独に慣れ、孤高を貫き通してきたあのギラティナにも、彼女に敗北したことで何らかの変化が起こったとして、それもまた無理のない話であるのかもしれない、と少し思えてしまったのだった。

「群青の海岸に隠れていそうなアンノーンは残り二匹ですか」
「そうですね。紅蓮の湿地、天冠の山麓、純白の凍土にそれぞれ五匹ずついたので、きっとあと二匹は此処に隠れているはずです」
「ええ。……ですが少し休憩しませんか? アナタに付き合って飛び込みなぞさせられたせいでこのままでは日暮れまで気力が持ちそうにありません」
「あはは、ウォロさんの方からそんなことを言うなんて珍しいですね。それじゃあ此処で休んでいきましょうか。野生ポケモンもいないから、もし二人揃ってうたた寝してしまってもきっと大丈夫ですよ」

 二本生える木のうち、アンノーンが隠れていた方に凭れかかるようにして彼女は腰を下ろし、両足を地面へぽいと投げ出した。ウォロはもう一本の木に視線を遣りつつも、僅かな逡巡の後に彼女と同じ木の、幹を挟んで反対側へと座った。
 葉の擦れるさわさわという音が鼓膜をくすぐる。日はもう傾き始めているため、崖に囲まれたこの場所には木漏れ日など降らず、ただ濃い色の影が二人の目蓋にそっと落ちるばかりだった。

「凍土に比べて地形も気候も穏やかなので、此処の探索自体は楽に進みそうですね」
「ええ、あと二匹なら今日中にどうにか見つけられるのでは? アナタがまた変な遊びを思い付いたりしなければ、の話ですが」
「ふふっ、でも何だかんだいってウォロさん、文句を言いながら私に付いてきてくれるんでしょう?」

 ウォロは振り返り、彼女の小さな頭をじっと睨みつけた。ウォロの気配が動いたことに気付いたのか、彼女も振り返ってウォロを見上げ、いつものようにへらっと笑ってみせる。
 もう少し早くその確信に至ってほしかった。そんな意味を言外に込めてウォロは大きな溜め息を吐く。あの時既にそう思ってくれていたなら、彼女の方から手を離すことも、一人だけで崖から飛ぶこともなかっただろうに。ウォロの心臓があそこまで暴れることだってなかったはずだ。まったく、どこまでも厄介な子供である。

「貴方に空中で手を取られた時、本当にびっくりしました。貴方は一人になるのも一人にするのも、平気な人だと思っていたから」
「寂しがりのようにワタクシを形容するのは止してくれませんか」
「あっはは! そうでしたね、貴方に限ってそんなことあるはずなかった!」

 軽快な音で一頻り笑ってから、彼女は息を長く吐き、急に静かになった。言葉で時間を埋めていなければ気まずくなるような間柄でもなかったし、ウォロの方で特に彼女へと掛けたいちょっかいも思い付かなかったため、彼もまた木の幹に凭れ直し、彼女と同じく沈黙することを選んだ。風が葉を揺らす音を聞きながら、ウォロは徐に目を閉じて、少し前の会話……イダイトウの背に乗った彼女が語ったあの言葉たちを思い出そうと努めてみる。

『中途半端に捨て置くのかって責めるんです』
『だから私はまだ、帰れない』
 彼女は「まだ」帰れない、といった。それはすなわち「図鑑を完成させるまでは」帰れない、ということではないだろうか。ギンガ団への貢献、ラベン博士への恩返し、アルセウスから受けた使命。それらを「中途半端に」したまま帰ることはできない、とは、すなわち「それらが完璧に果たされさえすれば彼女の未練は完全になくなる」と、いうことではないだろうか。彼女は自らをこちらの世界に留め置かせている彼女自身の悔恨を、未練を、このアンノーン集めにおいて消化しているに過ぎず、全てが終わり、世話になった人達への恩義を果たし尽くせたと確信できれば、すぐにでもアルセウスに会い、元の世界へ帰ろうとするのではなかろうか。

「……」

 そうだとして、ウォロに彼女を責める権利はない。この子供はウォロの策謀により元いた世界での全てを奪われ、此処へ来たのだ。その状況にアルセウスが与えた慈悲。それがアルセウスフォン、および「すべてのポケモンにであえ」という使命だった。彼女はその使命を果たし、ポケモン図鑑を埋め、この世界の変革に寄与することで……ウォロやギラティナに取り上げられた全てを、取り戻そうとしているだけなのだ。
 そんな彼女の前に近いうち、姿を現すことになるであろうアルセウス。その全なる神に「元の世界に戻して」と願ったとして、何の不自然もない。そしてあのアルセウスであれば、そのようなこと、きっと造作もなくできてしまうはずだ。ウォロとギラティナが共謀して作った、世界の瑕疵を、綺麗に直して、磨き上げて、なかったことにすることなど、簡単に。「貴方のせいで帰れない」と歌うように告げて微笑んだ彼女から「貴方のせい」を取り上げて、なかったことにすることなど、簡単に。

 ウォロが彼女に付けた傷の落とし前を、あろうことかあの神に付けさせるのか。
 冗談じゃないとウォロは思ったが、彼が「思った」として、その流れを変えることは最早できないだろうな、とも感じてしまった。神の加護とやらできっと彼女の傷は全て癒える。時間は全て巻き戻り、空間は全て消え失せ、何もかもがなかったことになる。それこそ、新しい世界が創造される時のように、全てが一瞬にして無になり、存在しなかったことになるのだ。
 そう、このウォロをして「死んでも手放せない」と思わしめた記憶たち……彼女と紡ぎ交わしてきた、忌々しくおぞましい、かけがえのない思い出の全てさえ。

「嫌いだなんて言ってごめんなさい。気分を悪くしたでしょう?」
「!」

 彼女の方でも先程の言葉を思い出していたらしく、そんな謝罪が木の幹の向こうから飛んでくる。思わず振り返ったウォロの視線と、ずっと前からこちらを向いていたのかもしれない彼女の視線とがまたしてもぶつかった。何のことですと惚けてやり過ごすこともできたのかもしれないが、そのような不義理をこれまで彼女と重ねてきた時間が許さなかった。正確には、その時間を「死んでも手放せない」と思ってしまったウォロの心が、許さなかったのだ。

「今更何を言っているのですか? アナタに気分を害された記憶など枚挙にいとまがない。一つや二つ増えたところで痛くも痒くもありませんね」

 意地の悪い笑みを作ってそう言い放てば、彼女は「それならよかった」といつものようにへらっと笑いながら口にした。再び沈黙を選んだ彼女にまだ何か言ってやれることがある気がして、ウォロは目を強く閉じ、記憶の海を掻き分ける。さて彼女はこれまで、どのような言葉でウォロを呼んだのだったか。どのようにウォロを責め、どのようにウォロを許し、どのようにウォロへと笑い掛けてきたのだったか。

「いいんですよ」
「……」
「アナタはワタクシを嫌ったままでいい」

 しばらくの沈黙を挟んでから、ウォロが記憶の海から引っ張り出したのはカミナギ寺院跡で彼女がウォロに告げたあの言葉だった。それに酷似した許しを、仕返しとばかりに彼女へ向けてやることを選んでみたくなったのだ。

『貴方は私を憎んだままでいい』
 彼女もウォロの口ぶりに思うところがあったのだろう。自らがかつて告げた言葉をなぞってきているのだとすぐに察したらしく、再度こちらに向けた顔を僅かに赤くしてふわりと笑った。困っているのでも悲しんでいるのでも、ただ安堵しているのでも、喜んでいるだけというのでもない、複雑で新しい、ウォロの知らないかたちで笑う彼女がそこに在った。
 二人して同じところへ降りている。彼女がウォロのところまで堕ちる必要などないし、ウォロとて彼女の傷に自らの心地を揃える義理などないというのに、互いにそうした不毛な選択を為し、互いに不要な傷を負い、互いにこうして苦しみ合っている。「一人」で苦しむよりも「二人」で傷を共有した方が、痛みがずっとマシになることを彼女はよく分かっているのだ。ウォロもまた、彼女との旅でそれを知り始めていた。だから今更、傷付きたいならアナタ一人でどうぞ、と嘲笑い、彼女を突き放す気にはどうしてもなれなかったのだ。

「ありがとうウォロさん。貴方がそれくらい強く在ってくれるおかげで私、貴方に言いたいことを何でも言える」
「……それはどうも」
「ね、そっちへ行ってもいいですか?」
「好きになさっては?」

 彼女は泣きそうな顔で「ありがとう」と笑い、ウォロのすぐ隣へ腰を下ろした。左肩に掛かる彼女の確かな質量が、今のウォロにはただ喜ばしく、ただ恐ろしい。
 この肩に掛かる重みは果たしてあとどれくらい、この世界を選び続けるのだろう。

2022.2.21
【五重奏の奏で手となる心を探して】

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