溺れている、溺れていく。ゴボ、ゴボ、と鼓膜を抉る音がする。くすぐったい。心地がいい。ずっと聞いていたい。見渡す限り、聞き渡す限りの砂の中、己の心臓さえ熱い煙まみれにしてしまえたらどんなに楽しかろうとさえ思う。
それが幻想であることを知っているから、いつもいつでも「其処」にいられる訳ではないと心得ているから、彼はゆっくりと夢から浮上していく。砂煙ではなく、血と肉と骨に覆われた心臓の拍動を意識しながら、大きく息を吸い、目を開く。
彼がいるのはシュートシティのホテルに大きく構えられたパーティ会場であって、スタジアムのバトルコートではない。彼の身を包むのは香水と料理とアルコールと花束の香りがめいめいに混ざり合っためでたい空気であって、己が心臓の表面を這い踊るあの砂煙ではない。彼の大きな手に握られているのはシャンパンの注がれた細長いグラスであって、砂を吐くサダイジャの控えるハイパーボールではない。故にこの時この場所において、トップジムリーダーたるキバナが取れる行動、その選択肢はあまり多くない。ふわふわとした笑顔のままにパーティ会場を練り歩いては、見知った顔を見つけてちょっかいをかけ、欠いた砂の分を埋めるべく楽しい思いを補充していくのが関の山である。
「Champion time is over.」
一人と話して別れ、また一人と話して手を振りさよならをする。飛び石をその長い脚で踏み歩くような、そうした飄々とした饒舌さで声を掛けて回る彼は、けれどもその合間でさえ静かにしてはいられないらしい。要するに口寂しいのだ。けれども手元のシャンパンには口を付けず、代わりにそんな言葉を飲み干してみる。奇妙な魅力を持つ響きであった。メロディを付けることさえ容易であるように思われた。
Champion time is over. チャンピオンタイムイズオーバー。あいつのものではなくなったガラルの重く眩しい冠、チャンピオンという名前のそれを愛でるように歌っていく。
立ち止まり、目を閉じて、人々が為すざわめきを聞けば、その声の波を砂嵐の轟音と聞き紛うことは実に容易い。心臓にざらざらと張り付くその砂はキバナの心の底に溜まる「何か」を忘却させるに十分な熱量を孕んでいる。強者との戦い、相手ごと己が執心を飲み込んでいく砂の嵐。愛していた。あの最高の舞台での砂嵐はいつだってかけがえがなかった。
ああでも、もうあの場所であいつと相まみえる機会は得難くなってしまったのか。そう認識してまた呟く。Champion time is over. Champion time is over. キバナは「それ」を少し、ほんの少しだけ寂しく思う。
「おいおいどうした、今夜の主役がこんなところで壁の花か?」
7回それを口ずさんだところでキバナは次の標的を見つけた。ガラルの冠を受け継いだ若干14歳の新星だ。豪奢なカーテンの影に隠れるようにして、窓の外、シュートスタジアムを眺めていたところを見つかってしまったのが運の尽きである。キバナは笑いながらその花に向けて一発打ち込んだ。隠しきれていないその肩が諦めたようにすっと下がった。
降参、を示すように小さな手を掲げて振り返り、見逃してくれと乞うように首を傾げて微笑む。冠の代わりに頭上へ置かれたニットベレーは少し、ズレている。
「まさか貴方に見つけていただけるとは思っていなかったよ、キバナさん」
「何だって? オレ様の目がそんな節穴だってのか?」
「違うよ、そういう意味じゃない。今日という日に貴方が一緒にいたいと思う相手はダンデさんであるに違いないと考えていたから。私を見つけたところで声なんか、掛けないだろうと」
「……へえ」
左手でカーテンをぐいと開き、窓との隙間に滑り込んで己が存在を見せつけるように笑う。彼女はその茶色い目を大きく見開いたが、キバナを拒んだりはしなかった。
カチャカチャ、と陶器の音がその背中から聞こえる。身を乗り出してそちらを見遣れば、ぐるぐるの黄色い瞳がキバナを捕らえた。彼女の手持ちの中では所謂「箱入り」と言ってもいいポケモン、ゴーストタイプのポットデスだ。彼女とのバトルをこれまで二度体験していたキバナだが、どちらにおいてもこのポケモンは登場しなかった。ダンデとの最終決戦においてもティーパーティーは開催されずじまいだった。この小さなティーポットの幻影が戦う姿を、誰か、見たことがあるのだろうか?
「貴方の体格で此処へ隠れるのは無理があると思うけれど? 折角見つけた隠れ場所を台無しにされるのは私としても本意ではないんだよ」
「誰も気付きやしねえよ。どうせ皆、冠を盗られたダンデに夢中だ。あいつがこれからどんな風に変わっていくのか、誰もが楽しみで仕方ないのさ」
手持ちの全てを明かすことなくあいつにさえ勝利してしまった、その化け物じみた強さに得も言われぬ戦慄と興奮を改めて覚えつつ、そんなことを言い出した彼女へと視線を移す。何か言いたげな顔をしていたので、にっと歯を見せて続きを促した。発言の許可を貰えたと確信したらしく、彼女はその小さな口で随分と大きな言葉を紡いでいく。
「その、彼の変化を楽しみにしている人物の中に、貴方は貴方を数えないの? もっと言えば、ダンデさんは貴方にこそ、楽しみにしてもらいたがっているのだとは考えない?」
「ふうん?」
「彼は多くの人に望まれているけれど、彼の方から望みを抱く人物はきっとそう多くないと、……いや、そうじゃないな。彼はガラルに住む全てのトレーナーのことを思っているけれど、貴方との対峙を望む心地はその中でも飛び抜けているはずだ、と言った方が正しいかもしれないね」
その流暢な語り口も、地味ながら力強い慧眼も、14歳には十分な、いや十分すぎるが故に不釣り合いだと感じる程の凄まじさだ。ダンデにせよ、この化け物にせよ、人様の冠を奪い取るようなことを実際にやってのける奴というのは、やはり総じてまともではない。そうした気配を肌で感じるのもまた、やはりいっとう心地がいい。砂嵐の疑似体験のようなものだ。キバナはいよいよ楽しくなって、負けじと大きな口で大きな言葉を紡いだ。
「へえ! これはこれは、随分と人のことをよく見ているんだな。そうだよ概ねその通り。でもちょいと惜しい。オレ様はあいつのライバルだから、後であいつと喋り明かす時間なんか山程あるんだよ。だからこんなところであいつの時間を占有しようとは思わねえの」
「……そう、皆さんに対話の権利と時間をお譲りしているんだね。貴方の何かが抑圧されているという訳じゃないんだ。よかった」
「よかった?」
キバナは首を捻る。文句や不満を述べる意味ではなく、純粋に、疑問を呈する意味での仕草だ。一回りも年下の相手に案じられていたという事実への可愛らしい屈辱は、そんなものとは比べ物にならない程に肥大した関心が押し潰していった。
チャンピオンになったばかりで、自身のことで精いっぱいといった心地でも何らおかしくない立場にある彼女が、自身ではなく周囲の「何か」を案じている。その正体を暴きたくなった。だから食らい付くようにオウム返しにした。一方の彼女は、別段それを隠すつもりもなかったらしく、いっそ清々しいと思わせる呆気なさで己が心地を開示してきた。
「この変化が大きすぎるものであることは分かっているつもりだったからね。私が勝ってしまったことで、いろんな人に嫌な思いをさせてしまっていないか、不安だったんだ。変わること、少なからず愛着を抱いた世界が変革されるということは、少し寂しいことでもあるはずで、……だから、皆さんのそうした寂しさから今だけでも隠れてしまいたくなったんだ」
Champion time is over.
8回目のそれをキバナは口ずさみたくなった。そうした衝動を、シャンパンを持ったグラスを強く摘まみ直すことにより押し殺して、砂の届かない心臓のずっと奥で囁くのみに留め置いた。よりにもよってこいつの前で呟きたくなるなんてどうかしている。彼女のチャンピオンタイムはつい数時間前に始まったばかりだというのに。
オーバーしたのはダンデの時間であって、彼女のそれではない。そのような名残惜しさを身勝手に歌う訳にはいかない。冠を受け継いだこの少女が、これから茨の道を歩くことになるであろうこの少女が、先代の理解者であったこのキバナに傷付けられることなどあってはならない。
「オマエは?」
「私?」
「ダンデがチャンピオンでなくなった世界を寂しいと思うのか、オマエも?」
……しまった。
失態を誤魔化すより先に彼女が動いた。といっても、その目を大きく見開いただけだ。随分と濃く煮出された、渋くて苦い紅茶が確かそんな色をしていたような気がする。あるいは蜂蜜をたっぷりと注げば、適正な時間と温度で淹れられた紅茶であってもこのような色になるのかもしれない。
無言のそれは彼女が差し出してきた猶予であったはずなのに、そのようなことを考えていたせいで対処が更に遅れた。彼女は二つの眼窩に注がれた濃い紅茶をすっとすぼめて笑った。時間切れ、を告げるような、私の勝ちだ、と宣言するような、ひどく楽しそうな笑みであった。
「キバナさん、今の失敗はわざとかな?」
キョダイマックスしたダンデのリザードンが力強く咆哮したその瞬間に、中継カメラが捉えた挑戦者の表情、あれと同じものが、画面を挟まぬ形でキバナの目の前に在った。カーテンと窓の隙間、光の届かないこの場所で見るその笑顔はいっとう不気味で不可思議で、美しかった。ああやはりまともではないのだ。こいつも、ダンデと同じように。
「……まさか! オレの寂しさをオマエに知られたところで、そんなもの、弱みにも何にもなりゃしねえよ。それにこんなもん、オマエ如きにどうにかできるはずもねえ」
「ふふ、それもそうだね。これは失礼!」
苦し紛れの誤魔化しに一切の拘泥を見せず、彼女はあっさりと追究を諦めた。満面の笑みで為された同意に、キバナの方が拍子抜けた程であった。
頬に擦り寄ってきたポットデスをゆるりと撫でて、ヒビの入ったティーポットに紅茶色の視線を注ぐ彼女は、「オマエも」としたキバナの言葉の真意がどうであろうと本当に、心から「どうでもいい」のかもしれない。あの瞬間、ただの会話が「闘い」の形を取ったことに高揚してあの表情を示しただけのことであって、本気でこちらを暴こうとは考えていなかったのかもしれない。
他者の冠を奪い取り、チャンピオンに成り代わる程度の力を持て余す、狂った化け物めいた身を知らしめておきながら、それでも彼女の本質はそうした、控え目で慎重で従順なところにあるようだった。興味本位で他者の本音を食い尽くすような野蛮性、それが彼女の紅茶の瞳に溶けていないことをキバナは好ましく思った。ただの少女、に戻ったその凡庸な横顔さえ、それなりに綺麗に見えた。ならばそれで、それだけでいいのだろう、今は。
「キバナさん、どう? そういう理由でダンデさんとの時間を皆さんにお譲りした、健気で紳士的なドラゴンストーム様の『暇潰し』程度には、なれたかな?」
「ああ、最高だった。今のチャンピオンも『とんでもねえ奴』だって実感をこの肌で感じられた。独り占めできていい気分だったぜ、ありがとよ!」
高らかにそう告げてヒラヒラと手を振り、もうすっかり温くなったシャンパンを一気に飲み干す。彼女を隠すカーテンを一気に捲り上げようと伸ばした腕が、けれども彼女の小さな手によりぐいと掴まれた。指の先が白くなる程に力を込められる。短い爪だが、キバナの腕に食い込ませんとする勢いである。この時間を終わらせまいと必死になっていることは明らかであった。どうした、と尋ねるより先に、彼女はその凡庸な笑顔のまま口を開いた。
「変化による喪失が耐えがたい苦痛と孤独と不満を伴うものであると、私はこれからこの目で幾度となく見ることになる。そうだよね? 私はしばらく、それらの感情を、貴方が私の前で上手に隠してくださった感情を、この身に山ほど受けなければいけなくなる。その上で、この冠を奪ったことを悔い続けなければいけなくなる。そして、できることなら私は、同じことを次の代に運命付けてしまいたくない」
「……」
「キバナさん。貴方は世間の中で生きることがとても上手に見えるよ。私の我が儘を叶えるために有益となり得るような知恵を、もしお持ちならご教授いただけないかな。私はガラルの未来のために、なるべく『期待されないチャンピオン』でいたいんだ」
これは、……これは、とんだお笑い種だ。
こいつは、その冠を頭に乗せて数時間しか経っていないうちから、もうそれを外すことを考えているのか!
ふざけたことを、と笑い飛ばすことは簡単にできる。面倒事は御免だ、と軽くあしらうことも、オレ様はトップジムリーダーであってチャンピオンのお世話係じゃない、と突き放すことも、今ならできる。さあどれでもいいから言ってしまえ。そしてこの手を振り払ってしまえ、早く、早く。
彼女の懇願を拒絶する行為、それはきっと「今」しかできなかった。今夜の、カーテンの裏で彼女に覚えた愛着。これ限りであれば、キバナは明日からこの少女を他人に戻せた。厄介事から逃れるチャンスは今しかなかった。間違える訳にはいかなかった。
「いい選択だぜユウリ。それにタイミングもいい。トップジムリーダーが直々にレクチャーしてやろうなんて、こんな気紛れを起こすことなんざ滅多にないぞ。オレの機嫌がいい時で、よかったなあ」
……しまった。
本日二度目の失敗。こちらの方が余程致命的な失敗。少女はやはりその目を大きく見開き、渋くて苦い紅茶の色をキバナの眼前に晒すばかり。やってしまった。なんてことだ。どうしてオレはこんなことを!
もう戻れない。もうキバナはこの化け物を、赤の他人に置き直すことなどできやしない。その機会を捨ておいたのは他でもないキバナ自身だ。どうしようもなかった。
ああでも、彼女の言う「有益な知恵」を教えてやれる気はまるでしないが、その狂った性根を叩き直すくらいのことならあるいは、できるかもしれないな。そんな風に思いながら、キバナは脳内で軌道修正を図りつつ、腹を括る。踏み外した道であったとしても、奈落に彼女を導きたくはなかった。どうせ道連れとするならば、彼女の進む場所は明るいところである方がいいに決まっている。やれるだけやってしまおう。
「ほら、喜べよチャンピオン」
負けたのは、失敗したのはキバナの方である癖に、そうした揶揄めいた口ぶりを敢えて作り、強引にイニシアティブを取っていく。苦し紛れの虚勢に満ちた言葉と共に、ややズレたニットベレーへと手を伸ばして撫でてみる。そんなキバナの狡い振る舞いをこの少女は瞬時に見抜くだろう。見抜いて先程の、勝利宣言にも似た、ひどく楽しそうな笑みを浮かべるのだろうと容易に想像できる。しかし身構えたキバナの警戒を裏切る形で、彼女はこれまで見せたことのない表情を浮かべてみせる。
それは、冠を奪い取りさえした化け物に当てる形容として許されるなら、「泣き出しそうな笑顔」とでも呼べそうな、弱々しく、脆く、情けないものであった。そんな形容を為してさえその紅茶色の目はやはり綺麗であった。そうした全てに、キバナはどうにも困惑せずにはいられなかった。
Champion time is over. 9回目のそれをキバナは無言のうちに瞳で歌う。
なんだよ、やっぱりお前だって寂しいんじゃねえか。
2020.7.22