祈りの依代に、虹

※50万ヒット感謝企画、参考曲「打ち寄せられた忘却の残響に」

ホウエン地方のミナモシティには、それなりに縁があった。此処は私の後輩が、「どうしても死なせたくない人」のために通い詰めた場所であったからだ。
私も彼女に同行して、この町にある病院の、とある一室に入り浸ったことが幾度かあった。
彼女は律儀に毎回、森のヨウカンやいかりまんじゅうといった和菓子のお土産を持参していたけれど、
私はあいつに示す礼儀と敬意など持ち合わせていなかったから、逆にその和菓子の幾つかを勝手に奪い取って、Nと一緒に食べていた。
そんな不作法で無遠慮な私を、シアもあの男も、黙って許していた。似なくてもいいのに、彼等は不思議なところで不思議と似ているのだ。

……そう言えば、この海辺で海水浴をしたこともあった。
私は残念なことに泳げないため、ビキニだけはそれなりに着こなして、ビーチパラソルの作った日影で、後輩とNがポケモン達と楽しそうにはしゃぐ様を見ていた。
季節はあの時を思い出させる初夏で、肌を指す日差しはかなり厳しいものだった。
ホウエンの夏はイッシュのそれよりもかなり暑く、故に海はイッシュのそれよりも更に美しいように思われた。

そんな、私にとっても思い出深いこの町で、私は更にひとつの邂逅を経ることとなる。

ふわふわとした栗色の髪を、少しだけ潮の香りが混ざった風に流していた。
あろうことか手すりに腰掛けてその足を外へと投げ出し、脚をふらふらと揺らしながら、眼下に広がるミナモの町、その向こうに広がる海と空、その全てを、目を細めて眺めていた。

ミナモデパートの屋上で、そんな奇行に及ぶ彼女は間違いなく目立っていたのだろう。
けれど私は、たとえ彼女がそのような大胆かつ危険極まりないことをしていなかったとしても、彼女の方へと駆け寄ったのだろうと思えた。
何故ならその、真っ赤な服やバンダナを身に付けた彼女の傍らには、一匹のポケモンがいたからだ。
主の奇行を心配そうに見つめるそのポケモンが、イッシュには馴染みの薄い「サーナイト」であることに気付いた瞬間、私の足は彼女の方へと駆けていた。止まりようがなかった。

「こんにちは」

「あら、ごきげんよう」

その鈍色の目は直ぐに私の方へと向けられ、澄んだソプラノの声音はそんな挨拶の後でクスクスと震えた。
「こちらには観光でいらしたの?」と、話しかけたのはこちらの方であるにもかかわらず、彼女は自分からこちらへの質問を、極自然な調子で切り出した。

「いや、知り合いに会いに来ただけのつもりだったんだけど……。ちょっとこの町には色々と思い出があってね。つい足を伸ばして、今に至るってわけ」

「どちらから?」

「イッシュ地方って、解る?そこの田舎町からポケモンに乗って、飛んできたのよ」

その瞬間、彼女の鈍色の目が興味深そうにぱちぱちと、意図的な瞬きを繰り返した。
「私のお友達もイッシュに住んでいるのよ」と告げて微笑んだ彼女に、私はいよいよ確信に近いものを抱き始めていた。
けれど、それをこの少女の前で話す気にはどうしてもなれなかった。

「ねえ、お名前は?」

「……私に勝ったら教えてあげる!」

そう言って私は踵を返して遠くへと駆け、ポケモンバトルができるくらいの距離を取った。
彼女はその鈍色を見開いてしばらく沈黙していたけれど、やがてクスクスと笑いながら手すりからひょいと飛び降り、隣にいたサーナイトに目配せをした。
勇んで飛び出してきたそのポケモンを相手に私が繰り出すのは勿論、私をこの土地まで運んできてくれた漆黒のポケモンだ。

ボールから現れたゼクロムに驚きながら、彼女が「貴方、お強いの?」と僅かに首を捻る。
「こう見えても、一応、シンオウ地方のチャンピオンに勝ったことがあってね」と返せば、彼女は肩を震わせて笑い始めた。
「イッシュ出身である筈なのに、どうしてシンオウ地方のチャンピオンに挑んだのか?何故、イッシュ地方のポケモンリーグに向かわなかったのか?」
彼女は何も言わなかったが、おそらくそうした疑問を抱えているに違いないと思った。その笑いはそうしたおかしさから来るものだろうと確信していた。

「私、イッシュが嫌いなの!」

だからそれだけ告げれば、通じる筈だと思ったのだ。
案の定、彼女は笑いながら何度も頷き、「私も、私の住んでいた町が大嫌いだったわ!」と言い返してから、その鈍色を一瞬で、バトルに対峙する時の鋭く冷たいものへと変えた。

相手のサーナイトは「ムーンフォース」という見知らぬ技を繰り出してきた。
そういえば「新しいポケモンのタイプが、カロス地方で見つかったそうですよ」とシアが話してくれたことがあった気がする。
私の頭は「サーナイトはエスパータイプ」という風に記憶していたのだけれど、
どうやら私がポケモントレーナーとしての前線から退いている間に、サーナイトはエスパー単体のタイプを持つポケモンではなくなってしまっていたらしい。

大抵の大技を食らっても平然としている筈のゼクロムは、しかし「ムーンフォース」を受けて、その赤い目に苦痛の色をちらりと見せた。
その衝撃と動揺とを表に出さないように努めながら、彼が最も得意とする大技「クロスサンダー」を指示する。
周りの空が一瞬だけ真っ黒になり、鼓膜を切り裂くような雷の音が聞こえて、……呆気なく勝負はついてしまった。
ゼクロムはひどく傷付いていたが、それでも技の威力と耐久力は彼の方が上だったらしい。

少女はその鈍色の目を見開いて呆然と立ち尽くしていた。瞬きすら忘れたかのような表情だった。
私がゼクロムを労ってボールに戻すや否や、はっと我に返ったように駆け出し、倒れたサーナイトへと触れようとして、

私はそのサーナイトが、疲労でも苦痛でもなく、恐怖に顔を強張らせたのを、確かに見た。

けれど少女は構うことなく、サーナイトを抱き起して強く抱き締めた。
ごめんね、頑張ってくれてありがとう。
気にしないで、負けることなんか誰にだってあるんだから。
大丈夫よ、私は貴方を見限ったりしないわ。ずっと、いつまでも貴方のことが大好きよ、本当よ。
そう繰り返す彼女に私は思わず、「そのサーナイト、もしかして貴方のポケモンじゃないの?」と尋ねてしまったのだ。
その質問が、彼女の激情を呼び覚ます鍵になっていたとは知らずに。

「私のポケモンよ!」

「!」

「旅に出た時からずっと一緒だったの。私の、かけがえのないパートナーよ。
私は絶対にこの子を捨てたりしない!この子を拒絶したりしない!この子とずっと一緒にいてあげられる。だって、私は、」

傷付いたいきものの心を癒すのは、とても、とても骨の折れる作業である。
その過程で、寧ろ癒す側が心に深い傷を負い、大きなトラウマを残してしまうことだって確かにある。
私はそれを知っていた。「彼」との日々を通して痛い程によく、解っていた。

だからこそ「でもそのサーナイトの心は貴方のところにないように思える」とは、どうしても言えなかったのだ。

私は沈黙を保っていた。できるだけ、彼女を見る私の目が冷たいものにならないように注意しながら、私が呼び起こしてしまった激情が鎮まってくれるのを、ただ待っていた。
彼女はやがてその白い頬を少しだけ赤らめて「……ごめんなさい」と、あまりにも美しいソプラノで謝罪の音を奏でた。
細い手がポケットからモンスターボールを取り出し、もう十分すぎる程にかけたであろう労りの言葉をもう一度だけ繰り返してから、サーナイトをボールへと戻した。

「負けたこと、今まで一度もなかったから、びっくりしてしまって。しかも初めて会った人に、こんなこと……。本当にごめんなさい、嫌ってくださって構わないわ」

「……どうして?そんなにも大事にポケモンを想うあんたのことを私が嫌う理由なんて、何処にもないわ」

そう告げれば、彼女はひどく安心したような脆い笑みを浮かべた。

おそらくサーナイトは、この少女に見限られることを恐れていたのだろう。だからこそ、とんでもない強さを発揮し続け、今まで無敗を記録していたのだろう。
彼女とサーナイトの間には確かな信頼関係があった筈だ。それは「勝ち続ける」ことでより強固なものへとなっていく筈であった。
私のバトルがそれを邪魔した。彼等の関係にひびを入れたのだ。
……ゼクロムを繰り出したりしなければ、本気になったりしなければ、彼女はサーナイトのことを信じられたのに。サーナイトも、安心することができただろうに。
私というのは悉く、正直に生きることしかできない、ひどく不器用な人間なのだろう。今回のことはそんな不格好な私を知らしめる、一つのエピソードに過ぎなかったのだろう。

「私と戦ってくださって、ありがとう。今、手持ちがこれしかないのだけれど、受け取ってくださる?」

彼女はそんな私にお礼を告げ、小さな袋から宝石のようなものを取り出して、私の手に握らせた。虹色に煌めく、あまりにも眩しい石だった。
こんな高価そうなものを受け取ってもいいのかと不安になったけれど、私が躊躇いの言葉を発するより先に、彼女はポケットから不思議な笛を取り出し、奏でた。

「私、トキっていうのよ。また会いましょうね、伝説のポケモンを連れた不思議なトレーナーさん!」

何処からともなく現れた青いポケモンの背に乗って、彼女の姿はあっという間に空に溶け、見えなくなった。
私の手の中で煌めくそれの正体が、彼女の砕いたメガストーンであること、彼女はもうとっくに「諦めている」のだということ。
それらを、しかし私は察することができない。解る筈がない。

代わりに私はポケットから携帯を取り出して、私の後輩へと電話をかける。3コール目で「もしもし」と、聞き慣れたメゾソプラノが私の鼓膜を震わせる。

「もしもし、シア?今ね、あんたの友達とバトルをしていたのよ」

トキと名乗ったあの少女は、この地で、どのようなことを学び、どのような変化を遂げるのだろう。
その時、あの子のサーナイトは、ちゃんとあの子の隣にいるのだろうか。


2016.3.8
翠子さん、素敵な曲のご紹介、並びに企画へのご参加、ありがとうございました!

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