3分の幸福

シアとアクロマのカロス旅行記その1

ケトルが音を立てて鳴っている。ポケモンセンターの2階に構えられた旅のトレーナーのための宿泊施設には、共同のキッチンも付いているのだ。
しかし、ただでさえ多くの荷物を必要とする旅の途中、食材を持ち歩き、その都度調理するなどということができる筈がない。
故にこのキッチンは殆ど使われることがない。使われない、筈だった。

「……あ、今日の茶葉は林檎の匂いがする」

そんな朝のキッチンで、ぽつりとそんなメゾソプラノが響く。
時刻は7時。旅に慣れていない若者が目覚めるにしては早すぎる時間だった。
特にこのミアレシティは広い。見知らぬ、通路の入り組んだこの町で、旅人は歩き疲れている筈だった。当然、少しばかり寝過ごしたとしても不思議ではない。
その少女は、しかし鼻歌さえ歌いながら茶葉を透明のポットに落としていたのだ。

慣れない旅は少女の体力と精神を疲弊させている筈なのに、何故、この少女はこんなにも朗らかな朝を迎えているのか。
それはこの旅が、少女にとって初めてのものではないからである。
2年前にイッシュという土地で旅をし、また1年前にはホウエンという土地を観光し、更に半年前にはジョウトという土地にも住まわせてもらっていたからである。
少女が住み慣れた町を離れるのは、これが初めてのことではなかったのだ。それ故、緊張感は同じ若者のそれよりも格段に少なかったと言えるだろう。

ただ、少女の鼻歌の理由はそれだけではない。
今までの旅や観光では、少女の隣にいたのは小さなポケモンだった。
共にヒオウギを旅立ったその珍しいポケモンは悪戯が大好きで、今日もキッチンの中にあった電子レンジにそっと潜り込み、姿を変える。
しかしその変化に少女は動じない。これは一人と一匹にとって日常茶飯事なのだ。「ロトム、壊さないように気を付けてね」と念を押し、少女はお湯の沸いたケトルを取る。

透明なガラスのポットにお湯を注ぎ、二つの馴染み深いティーセットをトレイに乗せて少女はキッチンを出る。
勿論、少女のパートナーであるポケモンが紅茶を飲む訳ではない。更に言えば、このティーセットは少女のものではない。
今回の旅、少女の隣にいるのは、そのポケモンだけではなかったのだ。少女の鼻歌の本当の理由はそこにあった。

扉を開けて、部屋に入る。まだその人物は眠っていた。
おそらくはこの土地に生息するポケモンを調べているうちに空が明るみ始め、徹夜だけは逃れようと慌ててベッドに飛び込んだのだろう。
布団を被らずに不自然な体制で眠っている彼を、朝の6時に発見した少女は、小さく笑いながら自分の毛布を隣のベッドから引っ張ってきて、そっとかけた。

ぐっすり眠っているその人物を起こすのは些か酷なような気もした。
しかし「私がどんなに熟睡していようと、朝の7時には起こしてください。わたしの寝坊に貴方を巻き込みたくはありませんので」と念を押されていたことを思い出し、
少女は小さなテーブルにティーセットを置いてから、さて、この人をどうやって起こせばいいものかと腕を組んで考え始めた。

『宿泊施設の共同スペースにある洗濯機、あれにロトムを入れて、ハイドロポンプを顔面に打ってもらっても構いません。』
男はそんなことを言っていたが、それは何をしても起きなかった場合の最終手段だ。仮にそうしたとして、しかし、それはそれで面白いかもしれないと思った。
きっと彼は水にむせながら飛び起き、少女の姿を視界に移すや否や、ぱっと枕元のメガネを掛けて「おはようございます、まさか実行するとは思いませんでしたよ」と笑うのだろう。
少女はそんな彼の姿を連想してまたして小さく笑う。そうだとして、きっと彼は許してくれるだろう。二人はそうした距離にいたのだ。

起きている時は整えられているその青い髪に、少女はそっと触れる。
とても強力なワックスで保たれているのだと思われていた彼の髪型が、ジバコイルの電磁浮遊によるものだと知った時の衝撃は未だに忘れがたいものであった。
その髪が、今は重力に従うように、彼の首元へと流れている。本当に綺麗な髪だ、と少女は思う。

「アクロマさん、朝ですよ」

「……」

「アクロマさーん」

少しだけ大きな声で呼び直せば、彼は僅かに身体を動かし、その金色の目をそっと開ける。
少女はすかさず枕元の眼鏡を取り、彼へと差し出す。彼は薄く見開かれた金色の目でそれを捉え、受け取ろうと手を伸べる。しかしその手は見事に宙を切った。

「……」

「はい、どうぞ」

それは男が起きたばかりだったからだというのもあるが、それ以前に、彼の目はすこぶる悪かったのだ。
その空振りに少女は堪え切れなくなって笑い出しながら、そっと眼鏡を彼にかける。ようやくその金の目ははっきりと見開かれ、真っ直ぐに少女の青い目を見据える。

「……おはようございます、シアさん」

「また朝まで起きていたんですね。せめて毛布くらい被らないと、風邪を引きますよ」

そこで初めて男は、自分に掛けられた毛布の存在に気付いたらしい。
「ありがとうございます」と優しいテノールでお礼を言い、彼は上体を起こす。彼の髪は金髪と青の部分とで長さが大きく異なるため、青い髪は取り残されたように所在無く宙に揺れる。
彼はその青い髪を指に絡めながら、チラリと壁に掛けられた時計を一瞥した。7時を2分過ぎている。
「そろそろ紅茶がいい色になってきた頃だと思いますよ」と、既に旅の格好に着替えていた彼女の手を、彼はそっと引く。少女は振り向き、首を傾げた。
どうしたんですか、と微笑む少女に、ちょっとした悪戯をしてみたくなった男はふわりと微笑む。

シアさん、もう少し毛布の中でまどろんでいませんか?」

「え、」

そして男は強い力で、少女をベッドの中へと引き込んだのだ。
わ、と小さな悲鳴があがり、男は再び身体をベッドに沈める。その腕にしっかりと少女を抱きかかえて。
しかし次の瞬間、少女が発したのは、いきなり抱き締められたことに対する困惑の言葉でも、そんな彼を受け入れる優しい声音でもなかった。

「アクロマさん、3分が過ぎようとしています。いいんですか?」

「……」

「林檎の紅茶を一番美味しく飲める時間が、なくなってしまいますよ」

まるで男を手の平で転がすようなその言葉に思わず彼は笑った。少女は男のことをとてもよく知っていたのだ。
紅茶が好きなことも、最も美味しく飲める3分という時間に拘っていることも、その美味しさを少女と共有するために「7時に起こしてほしい」と頼んだことも、全て。

「ええ、構いません。たまには苦すぎる紅茶でも、楽しいでしょう?」

しかしそれと同時に、男も少女のことをよく知っていたのだ。
そう告げれば、彼女がふわりと笑顔を咲かせて「分かりました」と頷いてくれることも、彼の腕に収まったままでいてくれることも、全て、全て解っていた。
彼女のその心臓は、異性の腕に抱かれているとは思えない程、穏やかに揺れていた。それすらも男は知っていた。しかし今はそれでいいと思えた。
そんな彼はあることに気付いて、少女の華奢な手を取った。

「林檎の匂いがしますね」

すると少女は僅かにその青い目を見開く。男はその目に海を見ていた。そんな彼の太陽の目が僅かに細められた。少女はその色に見入っていた。
優しく漂ってきたその香りは確かに男の心を揺らしたのだ。

シアさん、貴方もこんな気持ちだったのですか?」

手を離さない男の青い髪を、少女はもう片方の指に絡めて笑った。
それは聞くまでもないことだった。男と少女はとてもよく似ていたからだ。
『では、きっとわたし達は似ているのですね。ですからこう考えてください。貴方がわたしを思っているように、わたしも貴方を思っているのだと。』
あの言葉を二人は同じように抱えていて、今だって、その言葉が二人の脳裏を過ぎっているに違いないのだ。
そして案の定、少女は「その通りです」と言わんばかりの笑顔で頷き、紡ぐ。

「今日もきっと素敵な一日になりますね」


2015.1.17
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羽鳥さん、お待たせしました!

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