※曲と短編企画、参考BGM「雫」
サイコロ中編26話の後にあったであろう話
「アクロマさん」
少女はアクロマの名を呼ぶ。澄んだメゾソプラノが彼の鼓膜を揺らす。
それはほんの少し前なら当たり前のことである筈だった。少女が彼の名を呼び、彼がその呼び掛けに答える。
けれどその尊さを、今の二人はこれ以上ない程に理解していたのだ。
自分の声が大切な人の名前を紡ぎ、大切な人が自分の名前を紡ぐ。その当たり前だった事実を少女も彼も同じように抱きかかえていたのだ。
その喜びを二人は忘れていない。忘れられる筈がない。
『ゲーチスさん。』
つい先日まで、少女がアクロマを呼ぶその名前は全く別のものだったのだ。
それは誠実な彼が少女を想うあまりに吐いてしまった、あまりにも大きすぎる嘘の産物だった。
全てを忘れた少女にとって、その嘘は真実となり、再び彼女が本当の真実を取り戻すまで、その嘘は確固たる輝きをもってして二人の間に厚い壁を敷いていた。
「私、びっくりしたんですよ」
夜の海を歩きながら、少女は徐に口を開いた。
寄せては返す波の音を聞きながら、二人はその手を優しく繋いでいた。
異なる二人の温度は、長く繋ぎ過ぎたせいでどちらの方が温かいのかを忘れてしまう程に溶け合っていた。
最早、他者の手を握っているという感覚さえなかった。肌を伝う共鳴は、二人に一人を錯覚させた。
少女が時折、思い出したようにその手を強く握り直せば、アクロマは微笑んで更に強く握り返した。
「ゲーチスさんの名前をアクロマさんの口から聞いた時、真っ先に思い浮かんだのが、彼の首を絞めた記憶だったんです」
「首を……?」
彼は暗闇の中でも解る程の驚きをもってしてその言葉を繰り返した。
『私は貴方の首を絞めたんでしょう、ゲーチスさん!』
少女は確かに錯乱状態の中でアクロマにそう叫んだが、それは少女のあやふやな記憶が生み出した偽の情報だとばかり思っていた。
まさかこの、純粋で誠実な少女が、他者の首に手を掛けるなどということをしていたなんて。
アクロマは素直に驚いた。少女はきまり悪そうに声を続けた。
「私は確かに「ゲーチスさん」の首を絞めたんです」
けれど、それは目の前の太陽の目をした男ではなかった。
その事実を忘れていた少女は、彼の「ゲーチスです」という自己紹介をそのまま真実として飲み下し、目の前の男の首を絞めたのだと思い込み、悩んでいた。
どうして私は、こんなにも優しい人の首を絞めようと思ったのかしら。
少女はずっと悩んでいた。彼が「ゲーチス」であることに、彼が「アクロマ」ではないことに、苦しんでいた。
けれど少女の元へと戻ってきた真実も、決して少女を安心させるものではなかったのだ。
少女は確かに「ゲーチス」の首を絞めていた。この事実は、動かない。
「生きることが屈辱だと言っていたゲーチスさんの首に、私は手を伸ばしました。あの人の首を締められる筈もなかったのに、私は少しだけ力を込めました」
「……」
「貴方は思い上がっている。貴方には死ぬなんて楽な選択をする権利なんかない。
私は首を絞めながら、あの人に酷い言葉ばかりを投げたんです。丁度、今日の私が貴方に投げたものと同じくらい、もしかしたらもっと酷いかもしれない言葉を」
少女はアクロマにそう告げながら、今日の昼、彼に投げた言葉を思い出していた。
全てを思い出した少女は、目の前の男が自分の大切な存在を殺していたことに気付いて驚愕し、そして憤りを露わにしたのだ。
『貴方はゲーチスさんじゃない。』
『あの人は、両腕で私のことを抱き締めたりしない!』
『どうしてゲーチスさんになれると思ったんですか?誠実な貴方が、辻褄の合った嘘を吐き続けられる筈がないのに、どうしてそんなことをしたんですか?』
『私にとって、ゲーチスさんが貴方よりも大切な存在だと、本気で思っていたんですか、アクロマさん!』
少女は憤りを隠すことができなかった。それと同時に、ひどく狼狽してもいたのだ。
この人はどうして、そんなことを思ったのだろう。その疑念が解決されないまま、今も少女の脳裏にくすぶり続けていた。
少女の「かけがえのない存在」は、目の前で悲しそうに微笑む彼だ。それ以外に、あり得ない筈だった。
彼女は自分の思いを隠すことも誤魔化すこともせず、全てを正直に伝えていたのだから。
彼のことを好きだと告げた記憶は、一つや二つではなかった。少女にとって彼との時間が一番楽しかったし、彼との時間を象徴する苺の紅茶の香りで彼女は全てを思い出した。
全ての言葉と事実がそれを立証しているような気がしていた。しかし彼にとってはそうではなかった。そのことに少女は驚き、狼狽している。
何が彼をそんな誤解へと導いたのか、まだ少女には察することができずにいる。
「……シアさん、貴方はわたしの首を絞めたことがありませんよね」
アクロマは少しだけ考え込む時間を作ってから、いつものように微笑んでそう尋ねた。
その言葉に少女はくらりと眩暈がした。当たり前だ。そんなこと、ある筈がない。
彼の首を絞めたという記憶は、「ゲーチス」という名前に引きずられて出てきたものだ。それは、彼の記憶ではない。
「当たり前です!そんなこと、できる筈がありません」
少女は即答した。それはアクロマを安心させる言葉である筈だった。
けれど彼は益々悲しそうに笑って、少女にとって信じられないような言葉を紡いだのだ。
「わたしは、貴方に首を絞めてほしかったのかもしれません」
少女は息を飲んだ。あまりにも衝撃的なその一言は、彼女の脳裏で幾重にも反響してぐるぐると回り続けていた。
どうして、と思った。首を絞めるなんてことを、私が貴方にする筈がないのに。できる筈がないのに。
少女の不安気な表情を見たアクロマは、困ったように微笑んでその頭を優しく撫でた。
「私はゲーチスに酷い劣等感を抱いていました。彼はおそらく、私の知らない貴方の様々な激情を知っている」
「……でも、それは、」
「ええ、解っています。私は貴方に大切に思われていたからこそ、その感情を見ることができないのですよね。
私もそう思うことで、何とかその劣等感をやり過ごしてきました。けれどシアさん、貴方はあの日、その身を呈して彼を庇った」
彼の紡ぐあの日、が、いつのことを指しているのかを少女は直ぐに理解した。
少女の幼馴染の連れていたポケモンが放っためざめるパワーは、ゲーチスの元へと真っ直ぐに向かっていた。
誰よりも彼の近くにいた少女は、迷うことなく一歩を踏み出して左腕に大きすぎる怪我を負ったのだ。
『だから私は貴方の傍にいます。貴方が私を大切だと言ってくれたから、私は貴方を守ります。誰に何を言われようと、傍にいます。ずっと!』
「あの瞬間、貴方の中で「かけがえのない存在」は、彼へとすり替わったのだとわたしは確信しました」
夜の闇がぱちん、と弾けるような音が少女の脳裏で聞こえた気がした。この人は、とても聡明で誠実なのに、とても大きなことを見落としているのだ。
だから少女は、必死にそれを否定しなければならなかった。二人の間に、こうした男女にありがちな駆け引きは無縁だった。
ただ、真実だけを語り合える尊さを、少女も彼も理解していた。その尊さを愛していたのだ。
「アクロマさん、違う、違います。これは貴方が教えてくれた感情なんですよ。覚えていませんか?」
「わたしが……?」
「私はゲーチスさんのことが大切です。彼を死なせたくなかった。彼に生きてほしかった。でも、私は彼のことが好きな訳じゃありません。
だって、その人が「かけがえのない存在」じゃなかったとしても、その人に手を貸したい、その人を支えたいって、そうした思いがあっても不思議なことじゃありませんよね」
彼がはっと息を飲む音が聞こえた。
『世の中には、その人に「かけがえのない存在」を見出している訳ではないにもかかわらず、その人に手を貸したい、その人を支えたいとする複雑な思いが確かにあるのですよ。』
少女の旅の途中、彼が少女に教えてくれたその感情を、少女は覚えている。忘れられる筈がない。
「ねえ、私の心はいつだって貴方の言葉に根付いていたのに、どうしてその存在が他の誰かにすり替わったりするんですか?」
少女は笑った。その笑顔の裏で懇願していた。
お願いします。どうかもう、そんなことを言わないで。私は貴方が大切だ。きっと誰よりも、何よりも。
だからどうか、信じてほしい。私が貴方を信じられたように、貴方にも私を信じてほしい。
そしてそのためなら、夜が弾けて日が昇るまで言葉を重ねることだって厭わない。
「……ああ、そうでしたね。それはわたしの言葉です。わたしが、貴方に教えた感情です。覚えていてくれたのですね」
はい、と少女は頷いた。忘れない。もう二度と、忘れられる筈がない。
彼等の手は繋がれたままに、二人は二人であることを証明するように言葉を重ね続ける。波が深い夜を連れて来る。
2015.2.26
風見楓凛さん、素敵な曲のご紹介、ありがとうございました!
※チューニング……調律