※シアがカロスに旅立つ前
少女は海を見ていた。プラズマフリゲートの甲板に立ち、身を乗り出して風を一身に受ける。
冬の空気が容赦なく肌を突き刺す。それでも心地良いと感じた。
寒い場所は苦手だった。それは確かなトラウマとして少女の身体に刻み付けられている筈だった。
死を覚悟したあの瞬間は、薄れることなく永遠に少女を苦しめてもおかしくないものであった。
事実として、それに苦しめられた時期もあった、しかし、それはもう全て過去のことなのだ。
「どうやらお前は余程風邪を引きたいらしい」
何故なら少女の命を奪おうとした当人が、今ではこうして、外に出ている彼女に皮肉を交えながらもそっとストールを掛けてくれることを少女は知っていたからだ。
もうあの記憶は少女を脅かさなかった。それに気付いたのはいつからだろう。少なくとも、去年の春はまだ怖かった。あの時と今とでは何が変わったのだろう。
少女は自問し、しかし笑って肩を竦めた。変わったものがあまりにも多すぎたからだ。
彼から貰った言葉も、少女が固めた覚悟も、二人を取り巻く人間の協力も、全て今を形作るのに欠かせないパーツだった。
その副産物として少女はトラウマめいたものを克服したのであり、つまるところ、それは結果として感受すべきものでこそあれど、原因を探る必要性のあるものではなかったのだ。
「寒いですね」
「……言った傍から風邪を引くとは」
「違いますよ。カロス地方には四季がないから寂しいなって、思っていただけです」
カロスには身を切るような冬の風も、照り付ける夏の日差しも存在しないらしい。
緯度の差で多少の気候変動はあるようだが、それは土地に固有のものであって、流れる時間がその景色を変える訳ではない。少女はそれをとてつもなく寂しいと思った。
「お前がそこまで四季に執着していたとは知りませんでした」
「そうですね、四季云々は建前で、ただイッシュから離れたくないだけなのかも」
思わず零れた本音に少女はしまったと思った。
カロスに引っ越すという報告をしてくれた友人の後を追うことは、他の誰に強制された訳でもない、彼女自身が選んで、決めたことだった。
だからこそ、プラズマ団員達の引き留めを彼が咎めてくれたのであり、今更そんな弱音めいたものを零すことは、彼がしてくれた行為への冒涜になり得る筈だった。
しかし彼は小さく溜め息を吐いた後に思わぬことを言う。
「そんなことだろうと思っていましたよ」
「え……」
「『私が寂しいから』だとか何だとか言っておきながら、お前はあれの泣きそうな顔を見ていられなかっただけなのでしょう。
そうやって嘘を積み重ねておきながら、結局はそれすらも真実にしてしまうのでしょう。お前は嘘を生かすのが昔から得意だ。ご苦労なことですね」
少女は沈黙した。今の彼の言葉を咀嚼するにはそれ相応の時間が必要だった。
長い時間をかけてようやくその全てを理解した彼女は、幾つかの仮設を立て、一つずつそれを確認していくことにした。
「ゲーチスさん、怒っていますか?」
「いいえ」
その言葉の抑揚から、私はその返事が真実であることと、若干の気遣いが含まれていることを感じ取る。
たった一言、それが今の一言で解ってしまう。つまりはそうした距離に二人はいたのだ。
続けて、別の仮設を確かめようとした。
「私が一人でカロスに行くことが心配ですか?」
「ええ、だからアクロマを付けたのです」
これも少女が予想していたのと同じ答えが返ってきた。今までの遣り取りは全て、二人が積み重ねてきた2年という時間の上に立っていた。
その2年は揺るぎない土壌である筈だった。3つ目の質問はその揺るぎないものを崩すかもしれない危険なものだった。
しかし誤魔化したままでこの場所を離れ、見知らぬ土地に旅立つことを少女は許さなかった。
「私のことを、嘘だと思っていますか」
ほら、沈黙が返ってきた。
少女は自分の身体を冷たいものが駆け抜けるのを感じていた。それは半ば確信していた反応で、しかしそれでも少女の心を抉るに十分な温度をそれは備えていた。
「今までのことを全部、嘘の積み重ねだって、でもそれが真実になってしまったんだって、思っていますか。
……それを、ゲーチスさんは悲しいことだと思っていますか。愚かなことだと、思いますか」
それは疑問で投げかけられたが、殆ど確信の形をとっていた。
つまりは二人の関係はそうした曖昧模糊なものでしか形容できないのだ。
この2年には、甘酸っぱい思い出も、取り立てて飾れるような美談もない。ただお互いが必死だった。あまりにも多くのものが変わりすぎていた。
それらから一度解放されたのだ。この平穏はそれを意味していた。過去を振り返る余裕が出来て初めて、お互いが歩んできた道のりを思って不安になる。
それは男だけではない。少女も同じことを考えていたのだ。
「ええ、そうですね。愚かなことだ」
少女はぱちぱちと瞬きをした。
彼の口から紡がれた、あまりにも正直な言葉に思わず笑ってしまった。
少なくとも、笑う余裕があったのだ。何故なら少女も全く同じことを考えていたのであり、つまるところ、二人の靴底は揃えられていたのだ。
「更に愚かなことに、私はそれでもいいと思っているのですよ」
彼はぎこちなく少女の頭に手を乗せた。
いつもの沈黙に、少女の視界はぐらりと揺れる。
「美しいものに興味はありません。それは私のものではないからです。我々が手にしていいものではないからです。
お前と私が抱えているのはもっと汚れた、重く醜いものです。それは認めましょう。しかし、だからこそ手放したくない」
「……はい」
「この2年間を綺麗に飾り立てたいと思うのなら、私のところに来るべきではなかった。違いますか」
「その通りです」
彼は意味あり気に笑ってみせた。少女が思わずその顔を凝視すると、居心地の悪さを感じたのか、彼は少女の頭に乗せていた手を強く押して少女を俯かせた。
「私は、お前に嘘を吐いたことは一度もありません」
「!」
「お前だってそうでしょう。今なら」
少女はこくこくと頷いた。ぼろぼろと零れ落ちるものを慌てて拭った。
ああ、それでも良かったのだと。何も不安になることなんかなかったのだと。
張りつめていた少女の糸を、彼は切ることを許さなかった。
ただ、そっと傍で緩めてくれた。それは少女が立てた誓いの筈だった。傍にいたいと懇願した筈の少女が、他でもない彼に寄り添われていた。
確信が与える安堵がようやくもたらされたのだ。どうして不安になることが出来ただろう。
つまり二人は同じ場所にいたのだ。その確信は少女に強さを、男に安定を与えた。
だからこそ「それでもいい」と笑うことが出来たのだ。
それは生きるということに似ていた。
2013.12.19
25万ヒット感謝企画作品。
凛さん、おまたせしました!