曖昧に淀む

男は海を見ていた。
もう夜も更けている。寝静まった船内に響く靴音を聞く者はいない。
無人の甲板を踏みしめて、黒ばかりの海を見遣る。半月に照らされて、波が揺れているのが何とか目視できる。
目まぐるしく変わっていく日々の中で、変わらずにそこにある海は男の心を軽くした。
男はその光景に見入っていた。……それこそ、近付く小さな靴音に気付くことができない程に。

「ゲーチスさん、そんなに海を睨まないであげて」

ころころと鈴を鳴らすように笑った少女は、ルームウェアの上からブランケットを羽織っていた。春の訪れを感じさせる、淡い若草色のブランケットだ。
その色に何を重ねているのかが解らない程、男は鈍くはなかった。しかしそこから何かを拾い上げられる程、卓越した心理状態を持ち合わせている訳でもなかった。

「眠れないのですか?」

「いいえ。廊下を歩く音がしたので、追い掛けてきました」

聞かれていないと思っていた足音を、よりにもよってこの子供に拾われていたことに男は眉をひそめた。
しかし少女は自分の安眠が妨げられたことなと、まるで頓着していないかのように、楽しそうに甲板の手すりに両手を載せた。

シアさんは海のようですねって、アクロマさんに言われたんです」

「……ほう」

「どうですか?似ていますか?」

期待と不安が入り混じった、深い海のような目にそう尋ねられ、男はいつもの皮肉を返す余裕を失った。
アクロマめ。余計なことを吹き込んでくれる。そう心の中で悪態をつきながら、男は一思いに吐き出した。

「ええ、そうですね。とても似ている」

「!」

「広い器を持ち合わせているようで、その実どうしようもない程に危険だ。
天気のようにコロコロとその姿を、色を変え、決して同じところに留まらない。
人の命をいとも簡単に奪い去ってしまえる威力を持ちながら、穏やかな顔を波間に貼り付けて私達を呼ぶ」

呆然と立ち竦んでいた少女はしばらくして、はっと我に返ったように男に問い詰める。

「それは、褒めているんですか?それとも、貶しているんですか?」

「何のことです?私は海の話をしているのですよ」

「……あれ?」

な、なんだ、そっかあ。そうですよね。あはは。
そんなことを呟きながら、何処か安心したように笑う。
そんな彼女に嘘を吐くのはとても難しいことだった。誤魔化し通すこともできたが、男はそれをしなかった。
その理由に、思い至れる筈もなかったが。

「似ていますよ。お前は本当に海に似ている」

そうすることで、少女に勘付かせてやるつもりだった。そして少しだけ、安心させてやるつもりだった。
少女は自分が毎晩のように海を見に来ていることを知っている。「ゲーチスさんは海が好きなの」と語る姿を男は何度か見てきた。
眼下に広がるこの海に何を重ねているのか、そろそろ気付くべきだ。彼女が若草色に何を重ねているのかを、何も言わずとも男が察せたように。

しかし、その予想に反して少女は、少しだけ悲しそうに微笑むのだ。


「海は、消えません」


男は言葉を失った。
たった一言、それに含まれた全ての意味を、拾い上げてしまったのだ。男はそれに沈黙を返す他になかったのだ。
この子供は気付いていたのだ。自分が海に彼女を重ねていたこと。
いつか役目を終え、自分の元を離れてしまうであろうこの子供の代わりに、変わらずそこにある、彼女にとてもよく似たものに愛着を見出しつつあること。
そんな傲慢な直感を確信に変えるためには、男の肯定が必要だった。

「……おかしいですね。またいなくなってしまうことに怯えているのは、私の方だと思っていたのに」

縋るような目でそう呟く少女は、しかし、やはり誤解しているらしい。
男は少女がいなくなってしまうことを恐れている訳ではないのだ。
寧ろそのように察した少女が「私は消えない」と訴えることによって、彼女の未来を自身が食い潰してしまうのではないかという、その点に関して懸念している。

この子供は、人の荷物を奪い去る術を身に付けてしまった。
「とても素敵なお手本が近くにいましたから」など語った少女は、決して自分を傷付けない。不安にさせようとしない。
その献身的とも取れる行動に救われたのは他でもない自分ではあったが、全てが終わった今、今度はそれが少女の足枷となっていることに苛立ち、焦っている。

「ゲーチスさん」

少女が自分の名を呼ぶ。

「話をしましょう」

「……しているではないですか」

「もっと、です。もっと聞かせてください。ゲーチスさんが思っていること。
そして聞いてください。私が考えていること。
一人で悲しい結論を出すのは、それからでもいいと思いませんか?」

以前の男なら「無駄なことを」と嘲笑しただろう。
個々の意見をぶつけるだけの会話に意味などなく、有意義な結論は何も見出せない。
それを知っていて拒む男も、それを知っていながら縋り続ける少女も残酷だった。
しかし、そんな戯言に付き合おうと決めたのは他でもない自分だった。
この欲張りな少女の足掻きが男に与えたものを、男は理解しなければならなかった。

そして、柄にもなく委ねてしまうのだ。この子供なら、あるいは、と。
変わる筈のなかった自分を変え、自身が大切だと称する全てを救い、それすらも「貴方に絆されたからだ」と笑う、この海のような引力を持つ少女なら、と。

「でも、毎日忙しいから、きっとゆっくりお話できるのはまだ先の話ですね」

少女は楽しそうにそう紡いだ。

「ええ、何処ぞの子供に押し付けられた業務のせいでね」

男は少女の頭をそっと叩いた。
その後でぎこちなく撫でれば、本当に嬉しそうに微笑んだのだ。


2014.8.8
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