片翼はその代償

※リンク作品「ある少女の観察」(モノクロステップ番外)

どうか、彼がいなくなりませんように。

「こんにちは、ゲーチスさん」

私はいつものように彼の部屋に通じる扉を勢いよくスライドさせる。
彼は読んでいた本を閉じて、こちらにその赤い目を向け、小さく頷く。
私は鞄から平たい箱を取り出した。フエンせんべいの入ったその箱を、何処からともなく現れたジュペッタのダークさんに手渡す。

毎日のように私はお土産を持ってくるが、ゲーチスさんはそのうちの一つしか口にしない。
いかりまんじゅうは例外で、二つ取っておき、そのうちの一つは昼食後に残してあるらしい。
その他のお土産は、3人のダークさんと、彼等が連れているポケモンの手に渡る。そして私もすかさず一つだけ食べる。

夏になり、ダークさんが入れてくれる飲み物が、ココアからオレンジジュースへと変化した。カラカラとグラスの中で揺れる氷の音が、心地良い。
ゲーチスさんは相変わらず、コーヒーをブラックで飲んでいる。外はアスファルトの上の空気が揺れる程の暑さだが、彼はそれでも湯気の立つ温かいコーヒーを口に運ぶ。
リンリン、という音を立てて、フエンせんべいの一枚がふわりと浮かぶ。この病室に春頃から出入りしているチリーンだ。

「君も食べる?」

私はそう尋ねて、サイコキネシスで浮かび上がっているフエンせんべいの袋を手に取る。
両手で袋を破き、破片が零れないように手を添えて彼女の口元へと持っていく。
ぱりぱりと少しずつ食べる彼女の姿が、とても可愛くて私は思わず笑う。

「そういえばダークさん、結婚式場でお仕事をするチリーンもいるらしいですよ」

つい先日、トウコ先輩の家で見た大量の結婚式場のカタログを思い出しながら、私はジュペッタのダークさんにそう告げる。
とても綺麗な音を鳴らすこの可愛らしいポケモンは、そうした祝福の場で活躍しているらしい。
ハンドベルの代わりに、チリーンのアカペラを披露するサービスがあるらしいと、Nさんが嬉々として言っていた言葉が印象に残っていた。
もっとも、それらのカタログは、次の週には資源ごみに出されてしまったのだけれど。

現実主義で謙虚な、どこまでも欲張らないトウコ先輩は、結婚という名の儀式を「約束」だとした。
重たいドレスや十字架の下での誓いを嫌った彼女が、その約束なら交わしてもいいと笑ったのだ。
彼女は「神に誓う愛など持ち合わせていない」と言った。しかし彼女はNさんになら愛を誓えるのだ。その約束を交わすとはそういうことだった。
「私の世界は私とNを中心に回っている」と豪語した彼女は、どこまでもその言葉を貫いている。その生き様に私は尊敬と羨望の念を抱いていた。

私はしかし、どちらかと言えばそうした、華やかな舞台への憧れを忘れ去れていない部類の人間だった。

綺麗なものが好きだった。
花壇に並んだチューリップや、お菓子をラッピングしてある鮮やかなリボン、硝子の靴を落とすお姫様、大人にならない不思議の国、そんな幻想的で美しい何もかもが好きだった。
そして、それは今でも続いている。けれどそれらに対する見方は、あの日を境に大きく変わってしまった。
妹のチョロネコが奪われたのだと、突き付けられた理不尽に悔し涙を零す幼馴染を見たあの日から。世界は優しくなどないのだと、知ってしまったあの日から。

「君も、何処かの結婚式場からはぐれてしまった子なのかもしれないね」

「不器用なそのチリーンが、そんな歌を披露できるとは思えないがな」

ジュペッタのダークさんが、厳しくもそう言い放つ。チリーンは拗ねたように口を膨らませた。
しかしそれは一瞬で、瞬きした次の瞬間にはもう、目の前のフエンせんべいを少しずつ食べる作業に専念していた。
私はその可愛い姿に夢中になっていたのだが、ゲーチスさんはそんな私に声を掛ける。

「そんなに高く掲げていたら腕が疲れるでしょう。もっと手を下ろせばいいものを」

「だって、この子の食べている姿を目の前で見たいじゃないですか」

私はそう返しながら、しかし腕が疲れて来たことも事実だったので、右手に構えていたそのせんべいを左手に持ち替える。
そうこうしている内に、箱の中には私の分のフエンせんべいしかなくなっていた。ダークさんやゲーチスさんはもう食べてしまったらしい。
私もそれに手を伸ばし、食べようとしたのだが、如何せん、片手が塞がっている状態ではその袋を開けられそうにない。

ゲーチスさんは普段、どんな風にフエンせんべいや森のヨウカンの袋を開けていたのだろう。確か口にくわえていたような気がする。
私はその真似をしようとして、袋を唇で軽く挟み、右手を駆使して袋を開けようと努めたのだが、……なかなか上手くいかない。
それをじっと見ていたらしい彼は、大きな溜め息を吐いて「寄越しなさい」と言葉を投げた。

私は苦笑して、フエンせんべいを渡す。片手で開けることに関しては、彼の方が慣れているらしい。
しかし彼は左手でフエンせんべいを持ったまま沈黙した。
首を傾げる私に、彼は「何をしている」と怪訝そうな顔でこちらを見る。

「塞がった左手の代わりを、私がしてやろうと言っているのです」

「あ!……ごめんなさい!」

ようやく彼のしようとしていたことに気付いた私は、慌ててそのフエンせんべいの袋を右手で持つ。
左手で袋を持ってくれているゲーチスさんに「ありがとうございます」とお礼を言ってから、私は右手でその袋を強く引っ張る。
バリ、と乾いた音を立てて破けた袋に、しかし私は沈黙した。またしても怪訝そうな顔をしたゲーチスさんは、僅かに首を傾げる。

「食べないのですか」

「いえ、食べます。ありがとうございます」

「二度も礼は要りません」

呆れたようにそう言った彼がおかしくて、私は笑った。フエンせんべいをパキリと歯で割れば、今までに味わったことのない美味しさが舌を転がった。

綺麗なものが好きだった。幻想的で美しい何もかもが好きだった。世界はそうした美しいもので溢れているのだと思っていた。
そうした美しさが何の役にも立たないと気付いたのは、私が随分と幼い日のことだった。
世界は綺麗な優しいものばかりではないのだと、私が知ったあの日から、長い月日が経っていた。

見ない振りをすることだって、できたのかもしれない。
大人が与えてくれる、生易しい箱庭に縋って、そのまま素直に、可愛らしく生きていくことだってできたのかもしれない。
けれど、それを選んでしまえば私は私ではなくなるから。それを過去に選んだのなら、あの旅も、沢山の人との出会いも、きっとなかったから。
彼の傍を選んだ私に、そんな優しい世界は許されないから。

トウコ先輩は、結婚という名の儀式を「約束」だとした。
その約束によって未来が守られるのなら今すぐそうするけれど、そんな約束を交わさずとも、私達は一緒にいられるから、と毅然とした声音で紡ぎ、笑った。
私は彼女のような「かけがえのない存在」を持たないけれど、けれど、交わしたい「約束」は確かにあった。
けれどそれは愛のような、私の知らない神秘的で高尚な感情を約束するものではなかった。

「ゲーチスさん、明日もまた来ますね」

彼はその言葉に、その赤い目を僅かに見開く。
私が今、どうしても守りたい未来があるとするならば、きっとそれは「明日」のことだ。この人がいなくなってしまわない明日のことだ。彼が死を選ばない明日のことだ。
愛がどのようなものなのか解らない私でも、それくらいの約束は交わしてもいい筈だ。明日の約束くらい、守られてもいい筈だ。

「好きにしなさい」

彼はそう紡ぎ、僅かに微笑む。私はその目に懇願する。

「いなくならないでくださいね」

「……は?」

「だって貴方がいなくなったら、誰が私のフエンせんべいを開けてくれるんですか?」

彼を死から遠ざけるためなら、ある筈の両翼の片方を殺いだ振りをすることだって厭わない。
だからどうか、彼がいなくなりませんように。明日も、此処で会えますように。
彼は私の戯言を一笑に付したけれど、その後で徐に手を伸ばし、ぎこちなく私の頭を撫でた。


2012.12.20
2015.1.17(修正)

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