※曲と短編企画、参考BGM「もう一度」(2012年度NHK合唱曲)
片翼前編「積み重ねた嘘の在処の話」10話と11話の間にあったであろう話
花が、咲いていた。
「……」
いつものようにゲーチスさんのところへ向かおうとしたけれど、その足は鉛のように重かった。
彼が、死んでしまう。その迫り来る未来は私の心を締め上げていた。
このまま彼を死なせる訳にはいかない。死なせたくない。けれど、どうすればいいのだろう。何の力も持たない私が、できることはあるのだろうか。
そんな風に思い、私は家を出てから一歩も動けずにいた。そんな時に、その花を見つけたのだ。
白い、綺麗な花だった。ベルのような形をした小さな花が、お辞儀をするように曲がった茎に吊られるようにして咲いている。
前日に降った雨が、その白い花に大きな水滴を落としていた。
一陣の風が吹き、その花が小さく震える。雨の名残は地面に落ちていった。
泣いているみたいだ。私はそんなことを思った。思わず鞄からスケッチブックを取り出していた。
鉛筆でおおよその輪郭を付けていく。まだ残っている水滴は、大きな丸い形で花の上に乗っていた。
こんなに小さな花なのに、どうしてこんなにも美しいのだろう。
鈴蘭だろうか、と思った。けれど私が知っている鈴蘭は、もっと大きく茎を曲げ、もっと多くの小さな花を付けている。
葉も、こんな風に細いものではなく、その細い茎と小さな花を風から守るように大きい筈だ。
どちらかというと、この葉の形は水仙に似ているような気がした。冬に咲く、白い花。私はあの花が好きだった。
冬に咲く花なんて、キャベツに似た「葉牡丹」くらいしかないと思っていた私は、その寒い中で屹然と真っ直ぐに茎を伸ばし、咲く姿に憧れていた。
「シア、何をしているの?」
母が窓から顔を出した。自宅の庭をうろうろとしている私のことを、訝しんでいるのだろう。
私はその花の入った鉢を指差した。
「この花が綺麗だから、絵に描いておこうと思って」
「あらあら、いつも走り回っていたシアが、そんな小さな花に目を留めるなんて珍しいわね」
母は少しだけ驚いたように笑って、窓を閉めた。
しばらくして、ドアの開く音が聞こえ、足音が少しずつ大きくなった。私の隣にやって来た母は、私と同じように屈んでその花を見つめた。
「鈴蘭水仙っていうのよ。この間、トウコさんのお母さんに譲ってもらったの」
「え、トウコ先輩の?」
「そうよ。本当は春の初めに咲く花なんだけど、今年の冬は温かいから、少し早く咲いちゃったみたいね」
今年の冬が、温かい?
私は青ざめた。そんな風に思ったことは一度もなかったからだ。寧ろ、今まで私が生きてきた中で、この年の冬の寒さは最も厳しいと思っていたのだ。
恐怖を覚える程の寒さだと思っていた。しばらくして、その恐怖が何に誘発されているものかに気付いた私は苦笑した。
殺されかけたあの日の冷たい記憶は、まだ和らいでくれない。キュレムの氷が私を殺しかけた記憶は、まだ鮮明に私の中に残っている。
温かい冬は恐ろしい程に寒くて、私はいつだって、時には部屋の中でさえも、青いダッフルコートを身に纏っていた。
「……そっか」
そんな動揺を母に悟られないように私は小さく笑って、その鈴蘭水仙に目を移した。
その純白の花弁と細い葉に、水仙を連想した私はあながち間違ってはいなかったらしい。
「で、こんな可愛らしい花をじっと見ていた私の可愛い娘には、何か大きな悩み事があるのかな?」
息を飲んだ。母は変わらない笑顔でその花を見つめていた。
どうして、分かったのだろう。私は自分の中に抱えていた悩みを、母に相談したことはなかった筈なのに。
「ふふ、だっておかしいもの。私の娘は、家の庭に咲いた花を、憂いを帯びた表情で見たりしないわ。
シアはいつだって忙しなく、イッシュを走り回っていたじゃない。いつも何かに悩んでいるみたいだったけれど、それでもシアの足は止まらなかった。
きっと、シアを見守って、支えてくれる素敵な人がいたのね」
「……」
「でも、冬に入ってからのシアは少し、疲れているような気がするわ。冬が大好きな子だったのに、今年は全く嬉しそうじゃないんだもの。
シアの好きな水仙だって、こんなに綺麗に咲いているのに」
母はその白い花に指を伸べ、そっとつついた。花の上に乗っていた雨が、ぽろりと零れ落ちる。鉢の地面はその雨を吸い、僅かに色を変えた。
泣いているみたいだ。そう思ったと同時だった。糸が切れたようにわっと泣き出してしまったのは。
「あらあら……」
困ったように笑いながら、母は嗚咽を零し始めた私の肩をそっと抱いた。
シアの泣き虫は変わっていないのね、と少しだけ呆れたように、けれどとても優しい声音でそう紡ぐ。
母の前で泣いたのは久し振りだった。私が大人への嫌悪感を覚え始めたのと同時期に、私はそんな大人の前で弱い自分を見せることを禁じてしまっていた。
子供に見られたくない。庇護するべき対象だと思われたくない。私はずっとそう思っていた。私はそんな、捻くれた子供だった。
けれど母は、こんな捻くれた私でさえも愛してくれる。
「シアは昔からよく泣く子だったわ」
母は私の背中をそっと撫でながら、懐かしそうにそんなことを言った。
「自分が怪我をしたり、怖くなったりしても絶対に泣かないのに、本を持っている時には途端に涙脆くなった。
物語の中に生きている人を、シアは大切にしていたのね。貴方は他人の心を拾って、自分に響かせることがとても得意な子だった」
その言葉は、旅に出る前の私を思い起こさせた。確かに私は、色んな物語の本を読んでは泣いていた。
誰かが死んでしまった時、誰かの努力が報われなかった時、誰かが誰かを傷付けてしまった時、私は彼等を想い、悔しさや悲しさに泣いていた。
私はそうした、涙脆い人間だった。
だから、この綺麗な花に釣られるように泣き出したとして、それは別段、不自然なことではなかったのだ。泣き虫な私が、久し振りに声をあげて泣いただけのことだったのだ。
それならもう、いいんじゃないかな。思いっきり、泣いたっていいんじゃないかな。
「だから、きっと今のシアも、大切な人が苦しんでいることが悲しくて泣いているのね」
こんなにも私を見抜いてくれる人の前だ、きっと私の涙は咎められない。
私はその涙を、鉢の中の土に落とし続けた。土は私の涙を吸い続けた。私の塩辛い雨は、果たしてこの花を咲かせることができるだろうか。
*
「そんな泣き腫らした目で遊びに入ったら、相手もさぞかしびっくりするでしょうね」
泣き止んだ私に、母はからかうようにそう紡いで笑った。私は少し気恥ずかしくなって肩を竦める。
「……大丈夫、わたしがみっともないことなんて、きっとあの人は知っているから」
私は踵を返して数歩、駆け出してから、クロバットの入ったボールを宙に投げる。現れた身体に飛び乗ると、背中に「いってらっしゃい」の声が掛かった。
私は振り返らずに、空に向かって「いってきます」と声を投げた。クロバットは私を乗せて高く舞い上がった。
大丈夫、大丈夫だ。私はまだ頑張れる。だって私には、私を理解し私を支えてくれる人がいる。
母の背中を撫でる手の温もりを思い出し、私はようやく笑うことができた。
もう一度、諦めることを止めてみよう。
2015.2.26
翠子さん、素敵な曲のご紹介、ありがとうございました!
※スノーフレーク……鈴蘭水仙の別名