※雨企画
ぽたぽたと空が泣いている。目を瞑ればその楽しそうな音が鼓膜をくすぐる。湿度の高い、不快な気候にもかかわらず、その音はとても涼しそうだった。
ふいに、泳ぎたいなあと思った。カノコタウンの南には広すぎる海が広がっているけれど、あの崖から飛び込むのは流石に恐ろしすぎる。
1番道路から西に出れば、適度な深さの海で泳ぐことができるけれど、そこまで歩いている間にこの「泳ぎたい」という衝動は消え失せてしまいそうだった。
つまるところ、私は何処までも刹那的な人間だったのだろう。この気紛れなスコールのように、嵐のように過ぎ去る分厚い雨雲のように。
それを咎める人間など此処にはいないけれど。私は長い長い時間を経て、ようやく私であることができたのだけれど。
「……きっと海はこうして出来たのね」
2階の窓に貼り付いてそう呟けば、隣に緑の髪を持つ青年が並んだ。
女の子の自室にノックもせずに入って来るなんてマナーがなっていないと思ったけれど、それを叱るのも面倒だった。
代わりにその華奢な肩に凭れ掛かってみる。彼はクスクスと笑いながら窓ガラスに長い指を押し付ける。
「雨が海を創るのかい?」
「そうよ。降って来た雨が川を流れて、広い場所に溜まって海になるの。海の水は少しずつ空に還って、そしてまた降って来るのよ。知らなかったの?」
すると彼は首を捻り、考え込んでしまった。
男性にしてはあまりにも柔らかで美しい髪が、私の頬をふわりと掠める。私が使っているものと同じシャンプーの香りがする。
そうした距離に私達はいて、そうした時間を私達は過ごしていたのだ。
この部屋にNがいることに、もう私は驚かない。ノックくらいしてくれたっていいじゃないかとは思うけれど、もうそれを大声で咎めることはしない。
「この世界の水はそうして巡っているんだね」
「そうよ」
「それじゃあ、キミの涙もいつか海になるのかい?」
歌うようにそう尋ねた彼に、私は思わず吹き出しそうになった。
成る程、確かに全ての水がこの世界を巡っているという道理に従えば、そういうことになるのかもしれない。
けれどそうした、頬を赤くしてしまうようなロマンスめいた言葉の並びが面映ゆくて、私は肩を竦めて言い返してやった。
「失礼なことを言わないで、私は海を創れる程に泣いたことなんかないわ」
まるで私が泣き虫みたいじゃない、と、自分のことを棚に上げて笑ってみせる。けれどそんな強がりも、きっとこの青年には見抜かれている。
だって人の心を読む方法を教えたのは私だったのだから。彼はそうして私の表情や声音から、私の心を推測することができるようになっていたのだから。
自分の涙腺がひどく脆いことに気付いたのは、あの春の日のことだ。
こいつと一緒に観覧車に乗ったあの日。ポケモンの声が聞こえるという圧倒的なイニシアティブを振りかざされ、悔しさと悲しさにぼろぼろと涙を流した日。
『ば、馬鹿にしないで!あんたに頼まれなくたって、私はあんたを止めるわ。
私はあんたの考えに欠片の興味もないけれど、でも私はこの子達と一緒にいたいんだから!ポケモンが大好きなんだから!』
私の、嗚咽混じりの心からの叫びを、今でも覚えている。
少し恥ずかしさの残るその訴えは、真っ直ぐにNに届いた。彼は私を嗤わなかった。豪胆で粗暴な物言いをする私を嫌わなかった。
あんたのことなんか嫌いだと豪語する私にすら、好きだと紡いで笑った。……そして、それは今でも続いている。
「そういえば、ポケモンは泣くの?」
「……ああ、キミは見たことがないのか」
それはとても羨ましいことだね、と、言外に彼は集約して困ったように微笑む。
時折、私達の会話の内容はあの日に還って来る。ポケモンと人間との在り方を模索していた、イッシュを旅していたあの頃に戻って来る。
難しい話を「面倒だ」と言って受け付けない私と、私が到底理解できない、難しすぎる理論をまくし立てるNはどこまでも対照的だった。
私達の会話は、想いは、価値観は一向に交わる気配を見せなくて、けれど唯一、対等に話し合える内容がこれだったのだ。
ポケモンのことを話すとき、彼は難解な数式や理論を用いずにただ真実だけを語る。私も、彼の持つ力のイニシアティブに屈することなく、自分の思いを語ることができる。
私達の紡いだ言葉はこうして互いの心を行き交い続けている。
「勿論、ポケモンだって涙を流すよ」
「……それは、人間に付けられた傷が痛くて泣いていたの?それとも、人間に傷付けられたことが悲しくて泣いていたの?」
「さあ、どうだろうね。カレ等の声は痛みと苦しみ、どちらも訴えていたから」
こうした話をする時、彼の記憶はあの城の中に戻ってしまう。けれど彼はその壮絶な過去のことを、驚く程に穏やかに語った。
あの日々と今の暮らしの齟齬に驚き、悩み、苦しんでいた時期も確かにあった。けれど彼は長い時間を掛けて、あの日々を肯定できるようになっていた。
そうして飽きる程に言葉を重ねた私達は、過去の思い出を語るように、ポケモンのことについて話せるようになっていったのだ。これは私と彼だけが持ち得る特権だった。
私達が共に過ごした時間はあまりにも長く、その時間はこの青年に世間のことを知り、常識を学ぶ猶予を与えた。だからこそ、今、こうして穏やかに微笑むことができたのだ。
「ポケモンは本当に優しいのね」
「どういうことだい?」
「……だって、私がポケモンだったら、わざわざ泣いたりしないわ。ただ諦めればいいだけのことじゃない。
人間という生き物が私達を傷付けることしかしないんだと学べば、もう近付かなくなる筈でしょう?誰だって、傷付きたくないものね」
窓ガラスに手を掛け、勢いよく開ければ、ざあっと大きな粒が手の甲に落ちてくる。
どうやら雨だけでなく、風も強くなってきているらしい。私は大きく息を吸い込んだ。雨の、匂いがした。
「……それなのに、彼等はNの、人間の傍を望んだ。ポケモンは人間に愛されたかったのね。愛されることを、諦められなかったのね」
ああ、なんて健気なのだろう。なんて一途に人を想う生き物なのだろう。
だからこそ、私達がその思いに背くようなことをしてはいけないのだと心得ていた。人はその思いに応えなければならないのだと知っていた。
Nは驚いたように私を見ていたけれど、やがて困ったように肩を竦めて笑った。
「……ボクは時折、本当はキミにもポケモンの声が聞こえているんじゃないかと思うことがあるよ」
「そんな訳ないじゃない。私はそんな便利な力なんか持っていないわ」
「だってキミはいとも容易くカレ等の心を読み解くじゃないか」
読み解いている訳では決してなかった。それはポケモンの声が聞こえない私が組み立てた、ただの推測に過ぎない筈だった。
けれど、ポケモンの声が聞こえるという稀有な力を持ったNが、その推測を「心を読み解く」と称した瞬間、その推測は推測の域を脱し、真実へとなるのだ。
彼は私の推測や想像に確信をくれる。間違っている時は「そうじゃないよ」と訂正してくれる。あまりにも心地良い時間だった。
この、私とNとの間にのみ成立する不思議な関係に、この唯一無二の言葉のやり取りに、愛しさに似た感情を抱くのは当然のことであるような気がした。
だって私はポケモンが大好きなのだから。この青年のことも、それなりに愛しているのだから。
「聞こえなくたって、解るわ。だってポケモンが好きなんだもの。
Nだって、私が泣き虫なことを知っているでしょう?私が、自分のことを泣き虫だなんて言ったこと、ただの一度もないのに」
「あはは、そうか、それじゃあボクもキミの心を読めているんだね」
彼はとても嬉しそうに笑ってみせた。ふわりと眉を少しだけ下げて微笑むその顔はあまりにも穏やかで、けれど私はもう、彼のそんな表情に驚くことはなくなっていた。
ふと、開けた窓から身を乗り出して下を見れば、降り続いた雨が地面に小さな川を作っていた。きっと海はこうして世界を巡るのだろう。
私はそれを見ながら、飽きずに次の話題を連ねる。私達の紡いだ言葉はこうして互いの心を行き交うのだろう。
2015.7.13
素敵なタイトルのご紹介、ありがとうございました!