恋は歪な形をしている

※アピアチェーレ前編と後編の間くらいの出来事だと思われます。

「ねえ、N」

自宅のソファでオレンジジュースを飲んでいる彼、その隣に私は腰掛けた。
どうしたんだい、とNは首を傾げる。長い髪がサラサラと揺れる。
いつもは背中で一つに纏められているその緑の髪は、風呂上りである今、女性のそれのようにふわふわとした波打ちを見せていた。
私が使っているものと同じシャンプーの香り。少しだけ湿っている緑。眠たげにぼんやりとした瞳。
しかし私はそんな彼に「ちゃんと乾かしたんでしょうね。中途半端な乾かし方で放っておいて、後で風邪を引いても知らないわよ?」と思うことしかできない。
そんな風にしか思えない私は、何処かおかしいのだろうか。

私は少しだけ言葉に詰まった。尋ねたいことは喉元までせり上がって来ていた筈なのに、いざそれを口にしようとすると喉が異様な渇きを訴えるかのように痺れるのだ。
彼はそんな私に少しだけ不安そうな様子を見せた。

馬鹿じゃないの、と私は私に自嘲する。私がこいつを不安にさせてどうするのよ。私は彼を守らなければならないのよ。
この世間知らずで人を疑うことを知らない、箱入りの王様を、私は死ぬまで面倒を見てやると誓ったのよ。
だから私は揺らいではいけない。不安になってはいけない。たとえ不安になったとしてもそれを彼に悟らせてはいけない。

「私にキスをしたいと思ったことがある?」

だからこの質問だって、私が少しだけ気になって彼に投げた、いつものような気紛れな質問であるべきだったのだ。
そこに本音の質量を交えてはいけなかった。本当に彼がそう思ったことがあるのかと、心から知りたがっているという私の本音は隠さなければならなかった。
何故なら私は彼のことを、このどうしようもない人間のことを、私のような人物をあろうことか好きだと言って笑ったこの男のことを。

「キス……?何度かしたことがあるよね。あれのことではないのかい?」

そう、私達は既にキスを交わしていた。最初の頃は恋する乙女のようにその数を数えたりもしたが、10を超えた辺りからカウントを放棄してしまった。
最初はただ、添えるように。時には噛みつくように。勢い余って歯を当ててしまったことだってあった。

きっと始まりは、好奇心だったのだろう。
キスって、どんな風なのかしら。どんな感じがするのかしら。そんなちょっとした好奇心が私とNの背中を押した。
私もNも、この人とならキスしてもいいかと思える人物の枠内にはちゃんと収まっていた。
同時に、ファーストキスとやらを捧げてもいいかと思える程の愛しさでもあった。

最初はよくドラマや映画でするように、目を閉じて。次は少しだけ顔を傾けて。
リップ音はどうやって立てるのかしらと、二人して互いの唇を啄むようにして遊んだり、少し乾燥気味のNの唇を、からかうように少しだけ噛んでみたりもした。
それはじゃれ合いの範疇であり、好奇心故の行動だった。キスという行為が嫌ではなかったけれど、それだけだった。私にもNにも、それ以上の意味などなかったのだ。

「私が聞いているのは経験の有無じゃなくて、あんたが持っている感情よ」

私が続けた言葉にNは苦笑し、「難しい質問だね」と自らの顎に手を当てて考え込んだ。
それを真似るように、私も自分の頬に片手を当てて目を閉じる。

例えば私は、今、直ぐ傍にいるNに対して愛しいと感じた時に、それを表したいが故に彼の口を塞ぐだろうか。
愛しさ故に、キスをしたいと思うだろうか。

……思えなかったのだ。愛しいというその気持ちに嘘はないけれど、その感情をキスで体現するのはどうにも違う気がした。

トウコ、好きだよ」

「!」

「大好きだ。誰よりも、何よりも」

私は驚きに目を見開いた。彼からそんな言葉を聞いたことがない訳ではなかったが、あまりにも唐突なその発言に私は少しだけ狼狽する。
そしてその狼狽を隠すように、彼の少しだけ湿った髪をわしゃわしゃと乱暴に撫でて、笑った。

「いきなり何を言い出すのかと思えば。びっくりするじゃない」

クスクスと肩を震わせながら、私はいつもの感情がふわりと湧き上がることに気付いていた。
この人が愛しい。
私よりも3つも年上のくせに、私よりもずっと純粋で真っ直ぐな心を持った人。私よりもずっと強い力を持っているくせに、驚く程に世間知らずで箱入りなか弱い人。
私よりもずっと傷付きやすいくせに、傷付くことを厭わずに世界へと関わることを止めない健気な人。

そして私の手は、彼の肩へと真っ直ぐに伸びる。
掻き混ぜた彼の緑に顔を埋めるように、ぎゅっと縋るように抱き締める。

「私も好きよ。……あんたなら、口に出さなくても解っていたかしら?」

彼も釣られたようにクスクスと笑いながら、「そうだね」と囁くようにそっと紡ぐのだ。

愛しい。
その感情が胸の中に湧き上がる時、私が取る行動は、キスをすることではなかった。
今のように、手を伸ばし、彼を抱き締めることだった。
だからきっと、私の「愛しい」の表し方は、これで正しいのだろう。

キスが嫌いな訳ではない。けれど愛しさ故に彼の端正な顔に自分の顔を近付けるのは、何かが違っている気がした。
第一に、彼は背が高い。私が背伸びをしても彼の顔には届かないから、キスをする時は大抵、彼が座っている時か、彼が察して身を屈めてくれる時に限られてしまう。
加えて、私はまだそうした行為に慣れていない。愛しいという、最早慣れてしまったその感情を、ぎこちないキスという行為で上塗りすることはしたくなかった。

つまり、きっとそういうことなのだ。
映画やドラマでは、愛しいという思いを示すためにキスをするのかもしれない。好きだと伝える代わりに唇を塞ぎ、愛していると紡ぐ代わりに顔を触れ合わせるのだ。
けれど私は、そうではない。私の「愛しさ」の表し方は、そうした一般的なものよりもずっと幼稚で、単純なものだった。

私はクスクスと笑いながら、彼の大きくて小さな背中をそっと撫でる。
そう、この時だ。彼の顔が目の前にあるキスのような時ではなく、彼の顔が絶対に見えないこの時。
少し湿り気を残した緑の髪から、私と同じシャンプーの匂いを感じる時。私よりも少しだけ高い彼の体温を、手で、腕で感じていられるこの時。
私の愛しさは此処に在るのだ。

「ボクはキミと、キスをしたいと思ったことがあるよ」

私は硬直した。その直後、彼を蹴り飛ばした。
思いもよらない言葉に頭がフリーズしてしまった。私は忙しなく瞬きを繰り返しながら、呆気に取られた顔を直そうと努める。
「いきなり何を言い出すのよ」と怒鳴れば、「キミが聞いてきたんじゃないか」と至極もっともな反論が飛んできた。

トウコ、いくらキミが女性だからといっても、その一蹴りはとても痛いんだ。
キミにも蹴りたい時があるのかもしれないが、それなら前もって心の準備をさせてほしい」

「煩いわね。あんたの心の準備が整った頃にはもう、私はあんたを蹴る必要がなくなっているのよ」

つまりはそうした突発的な怒りの表現なのだと、伝えたところでNは笑いながら肩を竦めるだけなのだけれど。
私は大きな溜め息を吐いてソファに座った。彼もフローリングから立ち上がって隣に腰掛ける。
その動作に少しだけぎこちなさを感じて問いかければ、彼は少しの逡巡の後で口を開いた。

「キスをしてもいいかい?」

私は少しだけ、不安になる。それと同時に、少しだけ安心する。
もしかしたら、そうだったのかもしれない。
この、私よりも3つ年上の箱入りな王様は、もしかしたら私よりも先を歩いているのかもしれない。
私が感じた不安は、彼を守る立場にある私が揺らぐことは許されないのだからという義務感に苛まれたが故の不安ではなく、もっと単純なそれだったのかもしれない。
つまりは私が、彼のそんな言葉にこんなにも心臓を跳ねさせているのは、きっと。

「いいわよ、だって好きだから」

彼がその言葉とほぼ同時に私の頭にそっと手を添え、とても嬉しそうに微笑んだのは、きっと。


2015.2.6
(それでも私達はその歪な形に焦がれていた)

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