隣の歩幅を確認する話

※曲と短編企画2、参考BGM「10番道路」

「それじゃあ今までのボクは間違っていたというのかい?」

私は疲労と絶望が含まれた溜め息をなんとか呑み込み、この大きな箱入りの王様に向き直った。
Nが怒鳴っている。
いつだって穏やかな微笑みを絶やさず、その表情のバライティの少なさは寧ろ空恐ろしくもあった。
けれどその表情が他でもない「安堵」を表すような微笑みだったから、私は気にしないようにしていたのだ。
喜怒哀楽を示すための表情が、Nには極端に欠落している。それは解っていた。
けれどそんなこと、ありがとうの意味を知らないことや洗顔の仕方を知らないことに比べれば、取るに足らないことだと思っていたのだ。

そんなNが、怒鳴っている。
カノコに吹く冬の風に負けないくらいそれは荒んでいて、それでいて大きな声音は私の心臓を正確に抉り取った。
ああ、Nはそんな声も出せるんだ。そんな泣きそうな表情をすることもできるんだ。
あんたに涙腺なんてもの、ないと思っていたわ。だってあんたが泣いているところを見たことがないんだもの。あんたは何があっても泣かないのだと思っていたのに。
けれどその言葉には語弊がある。Nはまだ、泣いてはいない。それも時間の問題だと思わせるような、泣き出しそうな表情をしていたことは確かだけれど。

彼が示した激しい感情に私は一瞬、狼狽えた。けれど直ぐにいつもの笑顔をとりなした。
私はいつだって気丈でなければならないのだ。
時にこの王様の心の揺らぎに合わせて、一緒に揺れてあげることが時に必要であることは解っていた。
けれどそれ以上に、私が彼の荒んだ心に引きずり込まれてはいけないと強く感じていた。
だって、ねえ。私が彼と同じように揺らぎ、悲しみ、憤ったとして、それで何が解決すると言うの。私がそうなってしまったら、一体誰がこの箱入りの王様を支えるというの。
ねえ、誰が私達を助けてくれるというの。

「間違っているのはあんたじゃないわ。あんたに間違ったことを教えたのは、ゲーチスでしょう。
人間としての生活を悉く奪い取り、傷付いたポケモンの心に共鳴し続けるように仕向けたのは他でもないあいつなのよ。あんたが悪いわけじゃないわ」

「けれどそれは、ボクの過ごしてきたあの時間は、紛れもないボクの真実だった!」

喉の奥から絞り出すようなその声音に、私の鼓膜は今までにない温度をもってして震えた。
ああ、彼はこの葛藤と自責を抱えて過ごしてきたのだと、私はようやく、知る。知って、そして悲しくなる。
残念なことに、私は彼のこの絶望を奪い取れる言葉を持たない。
今の彼に相応しい、彼の絶望に寄り添い、そのどす黒い感情を消し去れるような最も適切な言葉を即座に選び取り、紡げる程に賢い人間ではない。
だからこそ、困っている。彼の絶望を超越するような素晴らしい理論があればいいのに、と、絵空事に縋ってみたりもした。

「ボクのあの世界にはポケモンしかいなかった!ポケモンと一緒に寝食を共にすることが当然だと、ずっと信じていた!
彼等のように生活することしかボクは知らなかった。それがボクにとっての真実だった!」

彼の心境を解ってあげられない程、私は薄情な人間ではないつもりだ。
いや、寧ろ痛い程に解っているつもりだった。
例えば、今まで顔を水で洗っていた人間が、「これからはオリーブオイルで顔を洗いなさい」と、ボトルを手渡されたらどう思うだろうか。
ナイフとフォークで食事をしていた人間に「手で掴んで食べるのが正しいのよ」と教えればどう感じるだろうか。
今までの生活が悉く否定され、その当たり前を剥奪されていくことへの絶望を、私は想像することしかできない。
けれどそれに限りなく近いものは理解できているつもりだった。彼は今まで生きてきた自らを否定され、覆されることが耐えきれなくて、喚いているのだ。
自分の生きてきたあの世界の常識は間違っていたのだと、どうしても認めることができないのだ。

「けれどトウコ、キミの家ではその常識が一切、通用しないんだ。ボクの生きてきた世界はキミとの時間にどうしても重ならない。ボクとキミはやはり相容れない!」

「……」

彼は泣き出しそうな顔でそう叫び、しかし決して涙は零さない。
いっそ泣きじゃくってくれた方がよかった。そうすれば私はこの長身の王様をあやすように抱き締めて、しばらくはその状態に留まることができただろうから。
けれど彼はそうしない。涙を零すことは決してしない。そもそも彼は泣き方を知っているのだろうか。解らない。彼のことは悉く解らない。

私は間違っていたのではないか?ポケモンと共に生きてきた彼に、今更人間としての生活を教えようだなんて、傲慢も甚だしいところだったのではないか?
そんな思いが頭をもたげた。彼が悲痛な声音で叫ぶ度に、私は今までの行いを少しずつ悔い始めていた。

「ごめんね、N。私が悪かったのかもしれない」

その言葉にNは目を見開いた。
こんなことを言うなんてどうかしていると私は思った。けれど、これはいつか言わなければならないことのような気がした。

私は、私とNは同じ人間だと思っていた。
Nはポケモンの声が聞こえ、未来を見ることができる奇妙な力を持っているけれど、それでも私と同じ人の形をしていた。
私と同じような四肢や顔が付いていて、その微笑みは紛れもなく人間の様相を呈していた。
だからこそ、私は旅先でのNとの出会いの中で、何度もあの言葉を紡いだのだ。『同じでしょう?』と。
私と彼とは同じだ。彼が少し奇妙な力を持っているからと言って、何も変わらない。そう信じていたかった。
けれどそれは、紛れもない私のエゴだったのかもしれない。Nと同じでありたいと、Nと一緒に生きていたいという私のエゴが、彼をここまで苦しめているのかもしれない。

けれど、もういい。私はもう欲張らない。
私はNが生きていてくれさえすればそれでいい。

「Nが、人の生活にどうしても馴染めないのなら、どうしても受け入れられないのなら、無理をする必要はないわ」

「……」

「間違っているものなんて、きっと一つもないのよ。あんたの生活も、私の生活も、あんたも私も、何も間違ってなんかない。……だから、」

トウコ!」

Nはその華奢な長い腕を伸ばして私の両肩をがっしりと付かんだ。あまりのことに私は息を飲む。
何だ、何が起きた?私は鈍った頭でこの状況を理解しようとしたが、できなかった。
何故なら彼は先程までの表情から一転して、明らかな憤りを私に向けていたからだ。そしてそれでいて、その目からはぽろぽろと透明な血が滴り落ちているからだ。

「キミはそれでいいのかい?ボクがキミの元から永遠にいなくなってしまってもいいというのかい!」

「!」

「お願いだからボクを許さないでくれ。また我が儘を言ってぐずっているのだと笑ってくれ。キミの強情さでボクを導いていてくれ。
キミまで揺らいでしまったら、ボクは今度こそ何が正しいのか解らなくなってしまう……!」

雷に打たれたような衝撃が走った。私の透明な血は彼の涙に共鳴するかのように頬を伝った。
それは紛れもない安堵だった。ああ、なんだ、そうだったのか。私は心から安心した。安心して、そして涙が止まらなくなった。

この人と一緒に生きていたい。それは紛れもない私の、一方通行のエゴに過ぎないと思っていた。
Nはかつて、私のことを好きだと言ったけれど、それが私の思いと同じ質量を持ちあわせているとは到底、思えなかったのだ。
けれどそれは私の思い違いだった。私達は同じところにいた。
Nもまた、相容れない私達の生活に苦しみながら、受け入れたくなくて喚きながら、それでも相容れない筈の私と生きることを望んでくれていたのだ。
ああ、なんて、なんて我が儘な王様なのだろう。けれども愛しい、愛しくて堪らない。

私達が揃えたはじめの一歩は、今も尚、隣を歩き続けていたのだ。

ごめんね、と私は小さく呟き、Nの背中に腕を回して縋るように抱き締めた。
この人が愛しい。相容れない世界に生きる彼がどうしようもなく愛しい。私はこの人と生きていたい。それがどんなに苦しく難しいことであったとしても。
そして彼は、そんな私の我が儘を我が儘だとしない。だってそれは同時に、彼が私に思っていたことだったのだから。

「それじゃあ、N。もう一人で顔を洗えるわね?」

つい、いつもの癖でからかうようにそんな言葉を投げて顔を上げれば、彼はとても苦そうな顔をして私を見下ろす。
それがおかしくて私は声をあげて笑った。泣きながらの笑い声は震えていたけれど知ったことではなかった。それすらも愛しいと微笑む覚悟ができていた。
私と生きていたいのなら、自分の顔くらいは自分で洗えるようになってもらわないと困るのよ。ねえ、そうでしょう?


2015.3.19
すえさん、素敵なBGMのご紹介、ありがとうございました!

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