※「焦がれた海の糸」の続き
妊娠していた時期の彼女は、カフェインの入っていない特別なコーヒーを飲んでいた。
コーヒーにはカフェインという、覚醒作用のある成分が当然のように含まれているもので、それを取り除いたコーヒーを作り出すことなど不可能だと思っていたけれど、
どうやら随分前から「ノンカフェイン」のコーヒーは市場に出回っていたらしく、故にクリスさんは特に驚いた風でもなく、その驚くべき飲み物の恩恵にあずかっていた。
けれど彼女は出産を終えた。もう母乳を与える時期でもないため、彼女がカフェイン入りのコーヒーを控えなければならない理由は何処にもない。
だからこそ、彼女はとても楽しそうにキッチンへ向かう。コーヒーを飲むための作業を、彼女はきっと誰よりも楽しんでいる。
コーヒー豆を小さなミルという機械に注いで、ハンドルをゆっくり、くるくると回しながら、豆が中で砕けて粉になっていくカラカラという音を喜ぶように、クスクスと笑う。
そのミルの立てる音は存外大きいもので、おそらくそのミルのすぐ傍で、その音を誰よりも大きく聞いている彼女には、
きっとダイニングのテーブルに座っている、コトネさんと私の会話など、まるで届いていないのだろう。
コトネさんはそう確信しているらしく、私の方へと向き直って得意気に笑う。クリスさんの妹であることを誇るように、彼女を真に理解していることを喜ぶように、笑う。
「きっとお姉ちゃんは、私とシェリーが「出会わない」っていう可能性の方を、ずっと高く計算していたんだよ」
そうして零れ出た不思議で不可解な言葉は、けれどこの、どこまでも人間らしいコトネさんには似合わないものであった。
出会うということ、誰かと誰かが顔を合わせるということ、そうした運命的なことでさえも、
あの不思議で不可解な女性の手にかかれば、簡単に定量化できてしまうような、そうした、とても些末なことでしかないのだ。
そしてそうした不可解なことを、クリスさんの妹である彼女は容易く許している。受け入れている。受け入れられることを、喜んでいる。
私は「出会い」というものを、漠然とした出来事、概念として捉えることしかできない。
きっとそれは私に限ったことではなく、コトネさんや、他の人にだって言えることなのだろうと思う。
誰も、誰と出会えるのかを恣意的に選び取ることなどできない。出会ってしまったら、出会う前には戻りようがない。
出会うことで、誰と誰にどのような影響が及ぶのかなんて誰にも解らない。誰も知らない。
「私とシェリーは出会う筈のないところにいたんだよ。でも、出会ってしまった。だからお姉ちゃん、あんなに喜んでいるんだと思う」
けれどクリスさんにとってはそうではない。ただそれだけのことが私を驚かせ、混乱させる。
邂逅という運命的なものに「確率」という数字が溶けている、などということを、私はこれまでただの一度も考えたことがない。
けれど彼女は考えている。コトネさんも、そのような数字で「邂逅」を計る彼女のことを受け入れている。
その「邂逅」と「確率」を結ぶ糸はまだ私の目に馴染まず、故に今の私はただ、驚くことしかできない。
「何が原因だったんだろうね?シェリーとフラダリさんがコガネシティに来たことかなあ。シアちゃんとシェリーが仲直りできたことかもしれない。
お姉ちゃんのお見舞いに、シアちゃんがシェリーを連れてきたこと?シェリーが泣きながら赤ちゃんを抱き上げたこと?それとも私が少しだけ、勇敢だったこと?
……ううん、その全部が正解なのかもしれない。何もかもが起こったから、私とシェリーは出会えたの。誰の何も、欠けちゃいけなかったんだよ」
……どれか一つでも欠けてしまえば、在り得なかった出会い。
そうした偶然の積み重なりは「奇跡」という煌めく名前へと変わり、クリスさんをあんなにも嬉しそうに微笑ませるに至っている。
その「奇跡」の重さを、シェリーは知らない。私も、コトネさんも、その重さを完全に理解することなどできない。理解できるのはクリスさんだけ。微笑めるのも、彼女だけ。
「でも、私とシルバーが出会ったことには、お姉ちゃん、ちっとも驚かなかったの!」
「!」
「だから私、とっても嬉しいんだ。だってどんな可能性を辿ったとしても、私とシルバーは必ず出会えるってことだから。
お姉ちゃんが驚かないっていうのは、きっとそういうことなんだって、信じているから!」
けれど彼女の傍に在ることを許されているコトネさんは、彼女の導いた確率の一部に触れ、それを受け取り微笑むことができている。
コトネさんとシルバーさんは限りなく高い確率で出会うように「出来ている」ということを、喜ぶ用意が既に彼女にはある。
「私は、そっちの方が嬉しいんだ。どうなっていたとしても出会っていた、っていう、確実でどこまでも安定した運命の方が好き。
でもお姉ちゃんは違うみたい。お姉ちゃんは、世界っていうものが不可解であればある程にいいらしいの。素敵だねって、思えるらしいの」
私は思わず、脳裏に私の大切な人を、かけがえのない相手を思い浮かべた。
あれは、どれくらいの確立だったのだろう。私に傘が差し出された確率は、その相手が「彼」であった確率は、果たしてどれ程のものだったのだろう。
コトネさんとシルバーさんのように、限りなく高い確率での邂逅だった?
それともコトネさんとシェリーのように、数多の偶然により紡がれた、奇跡と呼べそうなそれだった?
「変だよね?私なんか、世界がもっと単純だったらいいのにって、いつも思うのに。複雑に張り巡らされた、いろんな想いや願いや祈りの絡まりを見る度に、うんざりするのに」
「……私も、そう思うことがあります。世界ってとても複雑で、不可解で、不条理です」
その邪悪な理のせいで、大切な人が傷付けられることがどうしようもなく悲しかった。
その不可思議な理のせいで、大切な人を理解できないことがどうしようもなく悔しかった。
「でもそういう不条理がなければ、きっと私はシェリーに会えなかった」
けれどコトネさんは歌うようにそう告げて、その悲しく悔しい理をとても優しく柔らかく許すのだ。
世界にピンと張られた糸、それが邪悪で不可思議であるからこそ、奇跡のような邂逅が為されたのだと彼女は歌う。
糸の全てが見えている筈のクリスさんでさえ、その糸が誰と誰に繋がっているのかというところまでは読めておらず、彼女はその不可解を喜ぶようにいつだって微笑んでいる。
糸の全てを見ることも、その理を許すこともできない私は、ただクリスさんの微笑みに、コトネさんの歌に、洗われるような心地で茫然と、瞬きを繰り返す他にない。
その糸が見えているクリスさんが、その糸を知っているコトネさんが、あまりにも楽しそうに、穏やかに微笑んでいるものだから、
もしかしたらその糸というものは悲しくて悔しいばかりの代物ではないのかもしれないと、そんな風に思って、糸を見ることの叶わない私の目をきつく、閉じるしかない。
「シアちゃんも、そういう風に思うこと、ない?憎むべき不条理が紡いだ縁に、感謝したくなることって、ない?」
目を閉じたまま、乾いた声で「あります」と告げたそれは、敗北の宣言に似ている気がした。
私はたった今、不条理という理に頭を垂れることで、降参の意を示したのではないかとさえ思えたのだ。
私は、屈したのかもしれない。私の大切な人達を苦しめたあの不条理に、私の大切な人達に出会わせてくれたこの糸に、もしかしたら、私は。
「こういうことって、全部を解っているお姉ちゃんが言うべきことなのかもしれないけれど」
そう前置きして、コトネさんは照れたように肩を竦めて笑った。
「シアちゃんが出会えた皆のこと、大事にしてあげてね。大好きになってあげてね」
「……ふふ、貴方のことも?」
「そう、私のことも!これから沢山会って、沢山仲良くなろうよ!ジョウトには楽しいことがいっぱいあるから、きっと二人も気に入ってくれると思うんだ!」
そうして腕の中の赤ちゃんを抱き直したコトネさんは、声のボリュームを上げて「お姉ちゃん、聞こえているんでしょう?」と告げる。
聞こえていないことを前提に繰り広げていた会話の筈だったのに、コトネさんの中では「聞かせるための会話」であったのだという、その事実に私はまたしても驚かされる。
ミルを回す音がピタリと止んで、クリスさんはあらあらと微笑みながら振り返る。悪戯を見つけられてしまった子供のように、眉を楽しそうに下げて、肩を竦めている。
「こんなこと、私に説明させないでよ。お姉ちゃんがするべきことでしょう?」
「あら、そんなことないわ、コトネにしかできないお仕事だったと思う。だって私は貴方のように、勇敢じゃないもの」
誰よりも勇敢であった筈のこの女性から、そのような言葉が出てきたことに私はまたしても驚く。
けれど妹であるコトネさんは驚くことなく、「あのね」と呆れたように笑いながら、勇敢な言葉を勇敢な調子で告げる。
「隠すことが必ずしもいいことだとは限らないんだよ。少なくとも大切なお友達には、ちゃんと自分のこと、話さなきゃ。
お姉ちゃんの大好きなこのお友達は、お姉ちゃんにちょっとおかしなところがあるくらいのことで、友達をやめてしまうような酷い子だったの?」
「……」
「私はそうは思わない。だから私、お姉ちゃんの秘密を話したのよ。でもこれからはお姉ちゃんが自分で話してあげて。だってほら、友達ってそういうものでしょう?」
クリスさんが臆病であるのか否か、私にはまだ判断のしようがない。けれど少なくともコトネさんはとても勇敢だ。
彼女はその陽気な勇気をもって、私とクリスさんの間に張られたぎこちない糸をピンと美しく引っ張ってくれた。
「それ」を引くには、私にもクリスさんにも、きっと何かが足りなかった。コトネさんだけが糸を引くことができた。糸が見えるのは、何も彼女に限ったことではなかったのだ。
シアちゃん、と私の名前が呼ばれる。はい、と上擦った声で返事をする。彼女はクスクスと笑いながら私の髪をそっと撫でる。
彼女に出会った年の秋、他でもない彼女に切ってもらったこの髪を、きっと彼女は覚えている。セミロングがきっと似合うと言ってくれた彼女の言葉を、私も覚えている。
「シアちゃんが出会えた皆のこと、大事にしてあげてね。大好きになってあげてね」
ああ、やはり全部聞こえていたのだ。そう理解して笑いながら「貴方のことも?」と、先程と全く同じ言葉を繰り返してみる。
そうすれば彼女は予定調和のように微笑んで「そう!」と高らかに告げてから、照れたように笑って、私の方へと手を伸べる。
「私とも、もっと仲良くなってくれる?」
差し出された少女のような手を握り返す。縋るように祈るように力を込めれば、彼女はくすぐったそうに喉を鳴らして笑う。
お母さんを取られたと思ってしまったらしく、コトネさんの腕に抱かれた小さな青が、また少しだけぐずり始めている。
コトネさんは小さな青をあやしながら、呆れと歓喜と安堵の色をその琥珀の瞳に溶かして、大きな青が泣きそうに微笑む様を、見ている。
2017.7.18
みーさん、ハッピーバースデー!