※「躑躅」第一章終了から1年半後、「Blue drop」より少し後の話
クリスさんとシアとコトネの話であり、アポロさんは少ししか登場しません、ご了承ください
「お前の好きなものを選んでおけばいい。あの変わり者はそれを一番気に入るだろうから」
彼らしい皮肉めいた言い回しに苦笑しながらも、「ゲーチスさん、私のお友達を悪く言わないでください」と窘めたのが、つい先日のこと。
私の好きなものを彼女が喜んでくれたなら、それはとても素敵なことだろうなあと思い、ジョウト地方の有名な砂糖菓子を選んだのが、つい数時間前のこと。
そしてクロバットに飛び乗って、ジョウトで一番の大都市へと向かい、フラワーショップの角を曲がって、事務所兼自宅となっているその建物に入ろうとした矢先、
小さな庭の向こうから、彼女の、彼女らしい奔放なメロディの鼻歌が聞こえてきて、
ああ「お母さん」になっても彼女は何も変わっていないのだ、彼女は彼女のままなのだと改めて認識し、嬉しくなって笑ってしまったのが、ついさっきのこと。
まだ「小さすぎる」と称するのが相応しいその小さな青は、クリスさんの鼻歌を聞きながらとても機嫌よくしていたのだけれど、
彼女が私に気が付いて、その青から目を逸らして私の方に微笑みかけるや否や、にわかに機嫌を損ねてぐずり始めてしまった。
あらあら、と彼女は困ったように笑いながら、少しだけ大きく成長したマルメロの樹の傍で、そのマルメロと同じ年に生まれた青をあやしている。
どうしたのかしら。ついさっきまでとても機嫌がよかったのよ、本当よ。ごめんね、人見知りじゃない筈なんだけど。
そう零しながら、困ったように笑いつつ首を捻っている。
未来さえ読んでしまえる、不思議で不可解なこの女性は、けれど腕の中でぐずる小さな青の心を読むことができないらしい。
故に彼女は本気で困っている。けれど私はなんとなく、気が付いている。
小さな青は、唯一にして絶対の庇護者である「お母さん」の優しすぎる視線を、たった今来たばかりの私に取られてしまったことが悔しいのだ。
狡い、寂しい、取らないで、お母さんを取っていかないで。きっとそういうことなのだ。
だから私は肩を強張らせて、身を竦めて、できる限り存在を小さくしていようと努めつつ、私はいいから、と後退る。
クリスさんは困ったように笑いながら、それでも私の意図を汲んで、「私のお友達」ではなく「小さな青のお母さん」になることを選んでくれる。
人を逸した力ばかりを持っているように思われる彼女は、けれど私でさえ分かるようなことに、全く思い至れないことがある。
人を形容すべきどんな言葉も彼女には小さすぎる。けれど人を叙述すべきどんな表現も彼女には大きすぎる。
彼女は人よりも優れ過ぎていた。彼女は人よりも劣り過ぎていた。その振れ幅はほとほと人らしくなくて、それでも彼女の笑顔だけは、どう足掻いても人間のようなのだった。
そうして数分の間、彼女の声、彼女の視線、彼女の慈愛、そうしたものを独り占めした小さな青は、すっかり満足して、彼女の腕の中で眠ってしまった。
クリスさんはそっと顔を上げて、まだ「お母さん」の表情のままに私へと微笑みかけてくれる。待たせちゃってごめんなさいと、謝ってくれる。
「もうすっかり、お母さんなんですね」
「あら、そんな寂しいこと言わないで。確かに私はこの子のただ一人のお母さんだけれど、同時に貴方のお友達でも在りたいの。……ふふ、欲張りかしら?」
小さな庭にコスモスが咲いている。鮮やかなオレンジ色は、彼女が傍に立てばまるで夕日のように見えた。
小さな目はもう閉じられてしまっているけれど、きっと彼女の腕の中の「青」も、このコスモスを夕日に見せる才能を持っているのだろう。
空色の髪に空色の目を持った男の子。クリスさんとアポロさんの色をしっかりと受け取って生まれてきた、小さな青であり、小さな空。
その「かけがえのなさ」というものを、いつか私も我が事として知る日が来るのだろうか。
「来てくれて本当にありがとう。美味しいコーヒー豆を買ったばかりだから、一緒に飲みましょう」
事務所の扉を開ける。アポロさんに挨拶をする。彼女の腕の中を一瞥しつつ、可愛いでしょうと得意気な様子で口にする。彼の子煩悩な一面を垣間見る。
2階へ上がる。お土産を渡す。彼女が見せてくれたとびきりの笑顔にとても安心する。これをお茶請けにしましょうか、と告げながら、彼女はキッチンの方へと向かう。
シアちゃんにはエスプレッソはまだ早いかな、と確認を取りつつ彼女が苦笑する。飲めますよと誇らしく告げる。
本当に?と彼女が念を押す。少し不安になる。そんな私を見てまた、笑う。
彼女はコーヒーのカップを4つ用意する。私と彼女とアポロさんと、あと一人、誰かの分。
まさか小さな青はもうコーヒーを嗜むのだろうか、などと私が勝手に想像して驚いていると、階下から「こんにちは!」という明るい声音が飛んでくる。
あらあら今日はお客さんが多い日ね、などと驚いたように口にしながら、けれど彼女はその声を聞く前から、そのお客さんのためのカップを出している。
その突然の「お客さん」は、クリスさんの妹であるコトネさんだった。
お姉ちゃん、と嬉しそうに彼女を呼び、腕の中の小さな青へと手を伸べて、抱き上げて、頬擦りして、そうして顔を上げた矢先に私に気が付いて、笑ってくれる。
「わあシアちゃんだ、こんにちは!今日はシェリーと一緒じゃないんだね」
その言葉に驚いたのは、私ではなくクリスさんの方だった。
いつの間にシェリーと仲良くなったの?と尋ねる彼女に、コトネさんはぱっとその笑みを太陽のように明るくして、誇らしげに胸を張ったのだった。
「そうよ、シェリーは私と友達になってくれたの!赤ちゃんを見に来てくれたあの帰りに、思い切って私からお願いしたんだ」
『私と友達になってくれる?』
あの場には私も居合わせていた。あの日のことは私もよく覚えていた。
臆病で引っ込み思案な親友の世界が、コトネさんの言葉により広がる瞬間というのはどうにも眩しく、
あの繊細な少女の扉を、確かな勇気をもって押し開いたコトネさんのことを、私は密かに尊敬していたのだ。
シェリーは躊躇いながらも、コトネさんの差し出した手を取った。それを強く握り返しながら、コトネさんは何故だか泣きそうに笑ったのだった。
そうしたことを、けれどクリスさんは今の今まで知らなかった。だから驚いている。だから空が大きく見開かれている。
「ふふ、よかったね」
妹であるコトネさんの言葉を受けて、彼女はとても嬉しそうに笑った。
今日の天気を喜ぶように、窓の外の晴天に感謝するように告げる彼女は、その声で、瞳で、青で、彼女の大切な存在を悉く愛している。
クリスさんにはその実、大切な人がとても多いのだ。彼女の前には私の「欲張り」など、些末なものだとさえ思えてしまう。
どんな強欲も、どんな傲慢も、この女性の笑顔にはきっと敵わない。
「私も、貴方とシェリーが出会ってくれてとても嬉しいわ」
「……」
「シェリーは少し臆病なところがあるけれど、とても優しい子なの。だからきっとコトネとも仲良くなれるわ」
そんなクリスさんが告げたその言葉に、驚くべき内容など含まれていなかった筈だ。
けれどもコトネさんは驚愕にその目を見開いていて、太陽のような眩しい笑顔を忘れたかのように、呆然と、立ち尽くしていたのだった。
しばらくすれば彼女ははっと我に返ったようになって、ごめんねと、何でもないんだよと、私の方へと取りなすように笑って、おどけたように肩を竦めてみせた。
この姉妹の間にピンと張られた優しい糸を、私は「何」と呼ぶべきだったのだろう。
私には、クリスさんの言葉の「どれ」がコトネさんを驚かせたのか、解らない。
コトネさんの「何でもない」という嘘が、何を隠すためのものであるのかを、推し量ることが叶わない。
けれど少なくともコトネさんには、実の姉である彼女を推し測る術が備わっている。私がまだ持つことの叶わないその「術」を、コトネさんはとても上手に使いこなしている。
だから二人の間に張られた糸は緩まない。いつだってピンと美しく張っている。張られた糸はいつだって優しく煌めいている。
私とクリスさんの間にある糸のように、千切れそうな程に引っ張られ過ぎることも、緩めすぎて弛んでしまうことも、きっとない。私はコトネさんのように、上手ではない。
私はまだ、この、とても優しくて強くて賢くて、けれどとても不思議で不可解なこの女性をどう見るべきなのか、解らない。
彼女は強い人だった。とても優しい人だった。不可能を可能に変える力を正しく振るえる人、変えられるものを変えられる勇気を有した人だった。
彼女の笑顔はどこまでも可愛らしくて、20をとうに過ぎている女性であるとは思えない程に、とても幼く、とても眩しい。
けれどその笑顔のままに紡ぐ彼女の、不思議で不可解な言葉は、たまに私を混乱させる。その笑顔のままに為す彼女の動作は、たまに私を不安にさせる。
私が心から尊敬しているこの女性は、少女なのか淑女なのか、強いのか弱いのか、優しいのか優しくないのか、人間なのか神なのか、解らなくなることが、とてもよくある。
だから私は、コトネさんのように笑顔で最善手を選び取れない。まだ解らないのだ。
この尊敬する女性が、もしこう呼ばせてもらえるのなら私の大切な「友達」が、どんな言葉に驚き、どんな表情に傷付き、どんな一瞬を愛して、どんな風に生きているのか。
私はまだ解らない。この人と知り合ってもう数年が経つのに、私はまだこの女性のことをあまり知らない。
でもコトネさんは解っている。だから私は彼女を羨ましいと思う。その技術が欲しいと思う。「それ」があれば、きっともっと彼女に明るく笑ってもらえるに違いない、とも思う。
解らないから「知りたい」と求めること、それは私にとっては至極当然の営みであり、相手に示すべき誠意の表れであるのだけれど、果たして彼女にとっては、どうなのだろう。
彼女は敢えて、私に知らせていないのではなかろうか。私は、踏み込んではいけないのではなかろうか。知らないままで彼女を慕うことを求められているのではなかろうか。
彼女は変わらない。結婚しても、母になっても、変わらない。そして私も変わらず、彼女のことが解らない。
「シアちゃん」
けれど、私がそうして押し留めようとしていたいつもの強欲を、隣で微笑むコトネさんが叶えてくれた。
鼻歌混じりの陽気な調子でキッチンへと向かったクリスさんに聞こえないように、彼女は私の耳元でそっと微笑み、囁いた。
「お姉ちゃんが何に驚いていたのか、あとで教えてあげる」
2017.7.16
→ 「愛した空の意図」