雨の経糸

※雨企画(雨の経糸:あめのたていと)

この家のリビングにはアップライトピアノがある。
彼女は仕事を始める前にその黒い椅子に座り、ハノンと呼ばれる、指の体操を兼ねた練習曲を弾くことを日課としていた。
白と黒の鍵盤の上で、彼女の女性らしい小さな指が踊るのだ。
『これを間違わずに弾けると、今日の仕事も上手くいく気がするんです。』と、持ち前の歌うようなふわふわとした声音で彼女は告げた。
あの練習曲は、彼女なりのジンクスであるらしい。

今日も彼女は朝食を片付けたその冷たい手で、ピアノの黒く重い蓋をそっと起こした。
ワインレッドの布をふわりと剥がし取れば、白と黒の鍵盤がずらりと並んで現れる。彼女はそれらに挨拶をするかのように微笑んでから、徐に幾つかの鍵盤を叩く。

「今日は短調の気分ですね」

歌うように紡いだ言葉は、その鍵盤に向けたものだったのだろうか、それとも、少し離れた位置にあるソファに座っていたアポロにかけられたものだったのだろうか。
彼に音楽の知識は皆無だったが、つい先日、長調と短調の区別を彼女に説明してもらったばかりだったので、彼女の言わんとすることは理解できた。
専門的な言葉を省いて大雑把に言えば、「長調」は明るめの、「短調」は暗めの音階らしい。
今日は暗い音階である短調の気分だ、と語った彼女が、何をもって短調の気分としたのか、アポロにはよく、解っている。
音楽のことについて理解が及ばずとも、その奔放でマイペースな「少女」の気分が、何によって左右されているのか、アポロはとてもよく、理解している。

「雨が降っているからですか?」

「あれ、どうして解ったんですか?」

確信をもって尋ねた言葉に、彼女らしい肯定の返事が返ってくる。
クスクスと笑いながら彼女はアポロの方へと振り向く。お気に入りだと言っていたワンピースを、彼女はあれから4年が経った今でも変わらずに着こなしている。
その仕草も、緩やかなメゾソプラノの声音も、出会った時のままでそこにあった。
二人の出会いからもう数年の月日が経過している筈なのに、彼女の姿は、仕草は、声音は、あの時と全く同じだった。

20歳を超えた女性を「少女」と称するのは不適当であると心得ていたが、それでもアポロは未だに彼女を「少女」と形容してしまう時がある。
流れる時間すらも、奔放でマイペースな彼女には関係のないことだとでもいうように、彼女は成長しない。年を重ねない。
「それはアポロさんの贔屓目ですよ」と彼女は笑ったが、アポロはどうしても、彼女の変化を見つけることができずにいた。

年を重ねることによって、彼女のその頭の中に蓄えられた知識は当然のように増えていった。仕事の経験と実績を重ね、彼女は確実に成長していた。成長している、筈だった。
ただ、それが彼女の姿に現れないだけの話なのだ。悉く不思議な少女だと思う。
子供っぽい姿のままに大人になってしまったのは、その頭脳があまりにも多くのものに恵まれ過ぎてしまったことへの代償だったのだろうか。
それとも、ただ彼女が生まれつき童顔であるだけだったのだろうか。

「このピアノの箱の中には弦が入っているんですよ」

彼女はアップライトピアノの上の部分を指差してそんなことを言った。
この大きな黒い楽器が、どのようにして多くの音を奏でているのか、アポロは甚だ不思議でならなかったのだが、その疑問が彼女の一言により氷解した。
ピアノの中には弦が入っている。つまりはバイオリンの弦を弓で引くのと同じような仕組みだったのだと、理解して、思わず微笑む。
この黒い箱の中に弦を隠すとは、随分と洒落たことを考えたものだとアポロは感心してしまった。

「ピアノは弦楽器でしたか。常々、どのようにして音が鳴っているのか疑問だったのですよ」

「ふふ、昔の人はどうやってこんなものを思い付いたんでしょうね。私には逆立ちしても、こんな素敵な楽器、作れそうにありません」

眉をハの字に下げて困ったように笑ってみせた彼女だが、楽器や音楽の勉強を本格的に行えば、いつしか未知の楽器さえも造り上げてしまいそうだとアポロは思った。
「神童」と呼ぶに相応しい彼女の才能は、あらゆるところで開花していた。
本を読むのが好きな頭脳派なのかと思えば、平気で登山やサーフィン、ダイビングも行う。
私は典型的な文系です、などと言っておきながら、医学の知識も豊富に持ち合わせている。
星の位置から今の時間を計算したり、ジョウトの株価の動きをピンポイントで言い当てたりする。ポケモンバトルでは未だ、無敗を記録している。
そんな彼女のことだ、ちょっと本気を出して勉強すれば、新しい楽器の一つや二つ、平気な顔をして造り上げてしまいそうだった。

彼女はあまりにも多くのものを持ちすぎていた。しかしそれ故に、彼女は孤独だった。奔放でマイペースな彼女の理解者は皆無に等しかった。
そんな「少女」はあの日、自分との出会いを「縁」と称し、あまりにも朗らかに笑ったのだ。

この何もかもを持ち合わせている彼女と、あまりにも平凡である自分とを比較し、劣等感に苛まれることもかつてはあった。
けれどそれはもう、過去の話だ。何故なら彼女はあまりにも多くのものを持ちすぎていたからだ。
それは常人には到底辿り着けない境地で、才能と呼ぶのも恐れ多いような、もっと異次元の何かが彼女にはもたらされているように思えてならなかった。
そんな彼女と自分が「出会えた」のだ。それは単なる偶然だったけれど、彼女はそれを「縁」という特別で高尚なものだとして笑った。
おそらくは決して交わることのなかった彼女の時間が、今、こうして隣で時を刻み続けている。二人の意志によって、共に歩みを進められている。
どうしてそれ以上を望むことができよう。アポロは十分に、満たされていたのだ。

「それじゃあ、今日は雨だから、雨の曲を弾きましょうか」

「そんな曲があるのですか?」

「ふふ、これから探すんですよ」

雨の曲、という曲が本当に存在する訳ではないらしい。
彼女は数冊ある本の中から最も使い古したものを取り出し、パラパラとページを捲っていく。
アポロもその楽譜を覗き見たことがあるが、五線譜と呼ばれる5本の線が走ったその上に、黒い点や縦線が無数に引かれていることしか解らなかった。
『これはシャープといって、楽譜に書かれた音よりも半音上げて弾くんです。逆に半音下げる時には、フラットを使うんですよ。』
かつて彼女はそう説明してくれたが、アポロには「半音上げる」という言葉の意味からしてよく解らなかった。「半音」の説明を更に求めることで、ようやく理解を得たのだ。
そんなアポロには、その、大袈裟に言ってしまえば宇宙の言語であるその楽譜の何処に、彼女が「雨」を見出すのか、少し興味があった。
彼はソファから立ち上がり、楽譜を捲っている彼女の隣に並ぶ。その直後、彼女は「これにします」と開いたページを指差した。
しかしその五線譜に落とされた黒い点と縦線の並びに雨を見出すことは、アポロには些か難易度が高すぎたようだった。

「……どの辺が雨の曲、なのですか?」

「うーん、楽譜じゃ説明が難しいですね……。こんな曲なんです」

彼女はその譜面を広げてピアノの前に置き、小さく息を吸い込んでから鍵盤に10本の指を添える。
短調という区分に相応しい、どこか哀愁漂う曲だった。けれど同時に、跳ねるような音が断続的に響く、少し楽しそうな曲でもあった。
ポロポロと心地よいリズムを刻みながら、音は低くなり、そして高くなる。そのメロディは確かに、水溜まりに跳ねる雨の音にも聞こえた。
この黒い点と縦線の並びが、こんな曲を示していたという事実に、アポロは驚かざるを得なかった。

「あ、」

けれど、アポロにも聞き取れてしまうような不協和音がたまに生じる。
「神童」という単語をその身に纏う彼女でも、そんなミスを犯してしまうことにアポロは少しだけ驚く。
彼女も自分と同じ人間なのだという当たり前の事実を噛み締め、アポロは喉を小さく鳴らして笑う。

「間違えましたね」

「あはは、ごめんなさい」

彼女は照れたように肩を竦めて笑ってみせた。その間もその小さな指は鍵盤の上を踊っていて、アポロは思わずその様に見惚れてしまう。
窓の外では、雨が彼女の旋律に合わせるかのように、少しだけ穏やかに降り注いでいた。
やがて最後の和音が奏でられ、音の消え入る余韻を聞き届けてから彼女はそっと鍵盤から指を放す。そして勢いよく立ち上がり、アポロの方を見てぱっと微笑む。

「さあ、今日も一日頑張りましょう、アポロさん!」

そんな彼女の笑顔は、声音は、透き通った空色の目は、あの時の「少女」と何ら変わらない。
これからもずっとそうなのだろうか。そうであるなら、それはそれで構わないと思った。彼女が驚く程に大人びた女性へと変貌を遂げるなら、それもそれでいいと思えた。
自分はその少女のこれからを隣で見届けることができるという確信をアポロは持っていたのだ。

彼女の朗らかなメゾソプラノに相槌を打ち、仕事の準備を始める。さて、今日は何から取り掛かるべきだろうか。


2015.7.14
素敵なタイトルのご紹介、ありがとうございました!

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