星の瞳は空の色

午前10時を過ぎた自然公園は、世間話に花を咲かせる主婦やポケモンバトルをする子供で賑わっていた。
ポケモンが飛び出してくる草むらもあるこの広い公園を、空色の髪と目をした二人は並んでゆっくりと歩く。
季節は春の3月。まだ朝夕は肌寒さが残るこの時期に、しかし生き物は活発に動き始める。若葉は芽吹き、花は少しずつその鮮やかな色を見せるのだ。

二人はこうして、休日の午前中に散歩をすることにしている。
日頃の多忙な日常をリセットするために、大都会の喧騒から逃れるために、最愛の人と季節の流れを共に肌で感じるために。

互いの手は繋がれることもあるし、繋がれないこともある。けれどそれでよかった。その判断はいつだってアポロがしていたが、彼女はその判断に文句を付けない。
寧ろ手を繋ぐか否かに対して、全く頓着していないようにも見える。そんな奔放でマイペースなところのある彼女に、アポロは時折溜め息を吐きたくなる。
……はて、本当にこの少女は私のことが好きなのだろうか、と。

「見てください、アポロさん。こんなところにも花が咲いていますよ!」

今日は「手を繋がない日」だ。二人でゲートを通り抜け、公園に足を踏み入れたその瞬間から、彼女が落ち着きなく辺りを見渡していることは解っていた。
アポロにとってこの公園は、彼女とのお決まりの散歩コースであり、特に目新しいものも存在しないように思える。けれど彼女は違った。
20歳になり、もう少女とは呼べない年齢となってしまった彼女だが、その目の輝きや奔放さ、好奇心の旺盛さは出会った頃と何ら変わりなくそこにある。
……寧ろ、程度を増してすらいるような気さえする。
彼女は唐突にその足を止めたかと思うと、さっと屈んで花壇の端にある小さな植物を指差すのだ。

「ほら、ここです」

そんな自分と同じ色をした目で、縋るように自分を見上げてくるものだから、アポロは思わず微笑んで彼女の隣に屈んでしまう。
彼女が指差しているのは、小さな、それこそ小指の先ほどの大きさしかない青い花だった。4枚の花弁の中心は白く、そのささやかな白を包み込むように鮮やかな青が主張していた。

茎を含めても5cm程しかなさそうなその小さな花を、大人の目線ではとうに拾い上げることができなさそうなそれを、しかし彼女は見逃さない。
春を迎えたこの自然公園には、管理している職員が植えたと思しき鮮やかな花が、あちこちに存在する。
それこそ、彼女が指差したその花の存在を掻き消してしまうような存在感で咲き誇っているのだ。
けれど彼女は、その花を見ない。否、見てはいるのかもしれないが、それに対しては「綺麗ですね」という月並みな感想しか述べない。
その花壇に植えられた花を修飾するもっと複雑で美しい言葉も、その花の種類も名前も、おそらくは花言葉でさえも逐一知っている筈なのに、彼女はそれらを口にしない。
代わりに「花」と定義することも憚られるような、こんなにも小さくささやかな草花に目線を合わせ、まるで赤子を愛しむかのように穏やかに微笑むのだ。

「オオイヌノフグリっていうんですよ。ベロニカの方が呼びやすいかしら?」

「……クリス、貴方に知らないことはないのですか?」

「そんなことありませんよ。現にこの子の花言葉を私は知りません」

帰ったら調べてみることにしますね。歌うように紡いで彼女は微笑む。
出会った頃と変わらない笑顔がそこにあった。焼き芋を渡したあの時もこんな風に笑っていた。
幸せな女性だ、とアポロは思う。彼女はきっと、世界が終わるその日が仮にあったとして、その時だって、空を見上げてこの微笑みを絶やさないに違いないのだ。

幸せにする、など、なんと傲慢な誓いであったのだろう。そんな誓いを立てずとも、彼女は十分に幸せだったというのに。
幸せにしてもらっているのは、寧ろ自分の方であったというのに。

「こんなに可愛い花なのに、いつか雑草として抜かれてしまうのかしら」

「では、持って帰りますか?」

そんな風に、とても悲しそうに紡いだ彼女の表情を、どうにかして晴らしたいと思ったのがよくなかった。
半分冗談のように紡いだその言葉を、しかしこのマイペースな少女は真に受けてしまったらしい。
空色の目を輝かせて「いいですね!職員さんに許可を貰ってきます!」と駆け出してしまったのだ。
道端の雑草を持って帰るための許可を得ようと、職員のところへ駆けていく20歳が此処にいる。そしてあろうことか自分は、その女性の紛うことなき夫なのだ。
その事実にアポロはおかしくなって、くつくつと笑った。ああ、おかしい。けれどもどうしようもなく楽しく、愛しい。

彼女のお気に入りである灰色のシンプルなワンピースが、春の風にふわりと揺れる。裾にあしらえられた上品なレースはどこまでも白い。
ああ、帰りに植木鉢を買おう。あの青い草花を植えておける小さくささやかな、けれど彼女らしい立派なものを買おう。
自宅の近くにあるフラワーショップに立ち寄る計画を立てながら、アポロはやれやれと溜め息を吐いてその女性を追い掛ける。
走ることはしない。そんなことをせずとも彼女を見失わないと知っているからだ。
視界から彼女が遠ざかり、見えなくなってしまっても、必ず彼女は戻って来ると確信しているからだ。

「アポロさん、許可が取れました!土も一緒に持って帰っていいみたいです!」

公園のごみ箱を掃除していた職員を捕まえて、早速OKを貰ったらしい。その手にはビニール袋と小さなスコップが握られている。
アポロに軽く会釈をしたその、少し背中の曲がった男性職員は、しかし少し驚いたように微笑んだ。

「おや、本当にお嬢さんが欲しがっていたんだね。わしはてっきり、お子さんにせがまれたお母さんが仕方なくやって来たのかと思っていたよ」

……まあ、普通はそう思われて当然だ。
アポロは苦笑し「申し訳ありません」と頭を下げる。彼女も振り返り、少しだけ照れたように微笑んだ。

「ここの公園の桜もじきに咲くじゃろうから、また遊びにいらっしゃい」

「ありがとう、おじいさん!」

もう友達になったかのような親しさで、彼女はその老人に手を振る。
さあ、持って帰りましょう!とキラキラした目で自分にビニール袋を手渡す彼女に、アポロは苦笑しながらもその草花の引っ越しを手伝うために袋を広げる。

鼻歌を歌いながら、彼女は土ごと持ち上げた草花の入ったビニール袋を提げている。スコップはアポロが職員に返していた。
植木鉢を買いますよ、と告げれば、まるでクリスマスプレゼントを見つけた子供のように「わ、本当に?」と感嘆の言葉が零れる。
いつまでもビニール袋が住処では可哀想でしょう。そう告げてアポロはその花を提げていない方の手を握る。
彼女は少しだけ驚いたように目を見開き、しかし次の瞬間、穏やかにそっと細められるのだ。

「来週には、桜、咲いているでしょうか?」

「さあ、どうでしょうね。昨日の開花予想では、もう6輪ほど蕾を見かけたと言っていましたが」

「桜の開花予想があるんですか?この子の開花予想はないのに?」

あっけらかんとそう言って、クスクスと笑いながら握った手の力を少しだけ強くする。
彼女は客観に縛られない。奔放でマイペースな彼女は、いつだって世界を生きるための眼鏡を掛けない。

「貴方が立ててあげればいいじゃないですか。その、……オオイノフブリの開花予想を」

「アポロさん、オオイヌノフグリです」

冷静にそう突っ込まれてしまい、渋い顔をしたアポロに彼女は声をあげて笑い出す。
やわらかなメゾソプラノが空気を揺らし、アポロの鼓膜を優しく揺らす。
ああ、この女性はいつだって幸せなのだろう。アポロがいつだって、彼女の笑顔で幸せになれるのと同じように。

クリス、貴方はいつも楽しそうですね」

思ったままを紡げば、しかし彼女はとても驚いたような表情でその手をぱっと放した。
何か、彼女の気に障るような言葉が含まれていたのだろうか?アポロはそんな思考を巡らせながら、しかしその答えに辿り着くことができずにただ沈黙する。
鳥ポケモンのさえずりが遠くで聞こえた。春の風は、やはり強く吹けばまだ肌寒い。

「……ああ、アポロさん。貴方はとても聡明なのに、とても大事なことが解っていないわ」

「私は聡明などではありませんよ」

「ふふ、そうですね、貴方は馬鹿なのかもしれません。
私がとても楽しそうに見えるのだとしたら、それは貴方との時間がそうさせているのだって、そんなことにも気付けないなんて」

彼女は肩を竦めて悪戯っぽく笑い、アポロの手をやや乱暴に取る。
そんな小さな不機嫌を宥めるようにその手を握り返せば、ほら、彼女はいつものようにその目を細めてくれる。
彼女は自分を馬鹿だと称したが、アポロにしてみれば、自分と一緒にいる時以外の彼女を見る機会などないのだから、
仮にそれが解らなかったとして、それは当然のことであるような気がした。
それでも、「とても大事なことが解っていないわ」と、少しだけ拗ねたように自分を見上げる彼女がおかしくて、アポロはそれ以上の追求をすることを止めた。
そんな議論はこの穏やかな時間を乱すだけだし、何より彼女の口から有益な情報を得たのだから、それで十分ではないかと思ったのだ。

二人が二人である意味は確かにあったのだ。

その手に握った力を緩めて、けれど決して離さずに、二人はコガネの町へと戻って来る。
先ずはフラワーショップで植木鉢を買おう。ついでに小さなジョウロも用意しておこう。来週の日曜に休みが取れたなら、自然公園の桜を見に行こう。
昼食は何処かに食べに出かけてもいいかもしれない。美味しいパスタが食べたいと、確か一昨日あたりに彼女がそう零していた。提案すれば喜んでくれるだろう。
きっとその道中の穏やかな沈黙は、この草花の花言葉を嬉々として語る彼女のメゾソプラノが埋めてくれるに違いない。


2015.3.21
星の瞳……オオイヌノフグリの別名
花言葉……清らか、信頼 等
なかなかにきわどいネーミングですが、この花、とても可愛いですよ。

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