幼子のように、少女のように、詩人のように、歌姫のように、聖母のように、天使のように、神のように。
どんな言葉を用いてもこの女性には足りないように思われた。この女性は悉く、何者にもなることができずにいるように思われた。
何もかもが、彼女には小さすぎるのだ。
彼女はいつでも笑っており、いつだって明るく陽気に振る舞っていた。普通の人であるならば顔をしかめたり驚愕したりするようなところでさえも、彼女は笑みを崩さなかった。
出会った頃こそ、彼女のそうした、奔放を極めた姿に毒気を抜かれてしまい、どのような表情をこの女性に向けていいのかを図りかねて途方に暮れていたのだが、
今となってはそれが、彼女が奔放でマイペースな調子をいつもいつでも崩さないという、ともすれば異様な「事実」が、当然のこととなってしまった。
彼女がいつでも明るく笑うこと。奔放でマイペースな言葉を紡ぎ、サイコロを振るようにコロコロと話題を変えては楽しそうに目を細めること。
スキップをするように、背中の羽を瞬かせるように、ふわふわとアスファルトを駆けること。
どんな困難にも、「困ったなあ」と眉を下げて笑いながら、しかし決して心を折ることなく笑顔のままに乗り越えてみせること。
そうした、悉く彼女らしい何もかも、人を逸し過ぎた何もかもに、きっとアポロは慣れてしまっていた。慣れ過ぎていたのだ。
だからそうした、神と戯れるように生きているこの女性が、夜、ソファにその華奢な体を沈め、ボロボロと大粒の涙を零している姿を見て、アポロは息を忘れる程に驚いたのだ。
まるで、人間のようだと思ったのだ。
「おかえりなさい」と顔を上げることもせず、アポロの帰宅に気付くことすらできないまま、薄暗い部屋の中央で、彼女の塩辛いカスケードはさめざめと続いていた。
強烈な引力と斥力がアポロの心臓を握り潰そうとしていた。駆け寄らなければ、という焦燥と、近付いてはいけない、という警告とがせめぎ合い、彼の体を硬直させた。
思い上がるな、私に何ができる。何もかもをこの女性に与えられた私に、この女性の存在なしにはまっとうに生きることすらできない私に、何ができるというんだ。
何もできない、できる筈がない。神は祈りを捧げるものであって、手を差し伸べるものでは決してない。人が神を救うことなどできない。
……けれど、それでも彼女が泣いている。だから彼は脳裏でガンガンと鳴り響く警告を無視して一歩を踏み出す。
そっと、音を立てずに歩み寄る。膝を折り、覗き込むように目線を揃える。
彼女は驚いて顔を上げ、いつものように笑おうと目を僅かに細める。
けれど細めたところから更に新しく零れ始めてしまったため、彼女は俄かにその、作りかけの笑みを崩して、再び俯いては肩を震わせることしかできない。
「クリス」
たった一言、誰よりも大切な人の名前。いつもなら息をするように、氷が水に変わるように、何の躊躇いもなく紡ぐことの叶っていた筈の、この上なく幸福を極めたその音。
けれど今はどうしようもなく重かった。張り詰めすぎた弦に触れているような心地だった。少しでも触れ方を間違えれば、この女性は消えてしまいそうだった。
「どうしました」
やっとのことでアポロが次の音を紡いでも、彼女は泣き続けるばかりで何の反応も返さなかった。
少女のようなその嗚咽は、何か大きな歯車の軋む音に似ているように思われた。規則正しく震える肩が、いよいよ無機質を極めていて、アポロは目を逸らしたくなった。
「何か辛いことがありましたか」と更に問うても、彼女は塩辛い涙で返事をするばかりで、何の情報も得られなかった。
それでも彼は質問を続けた。こんなところで心を折る訳にはいかなかったのだ。
「仕事で失敗したのですか」「何処か痛むのですか」「何かよくない知らせがありましたか」
「悲しい本を読んだのですか」「誰かに酷いことを言われたのですか」「それとも、ただ、泣きたくなっただけなのですか」
一つ、質問を終える度にアポロは10を数えた。
1、2、と数えながら、彼女の涙がポロポロと、真珠のようにワンピースの胸元を滑り落ちていく様をただ眺めていた。10、と心の中で唱えてから、口を開いた。
彼女はどの質問にも反応を示さず、ただ涙を流し続けていた。
アポロの為した推測はどれも間違っていたのかもしれない。もしくはそのどれもが彼女の真実であったのかもしれない。何もかもが解らない。彼女は何も語らない。
アポロはただ、その涙が、彼女の少し尖った顎からポロポロと規則正しく落ちていく様を、ただ見ていることしかできない。
幼子のように、少女のように、詩人のように、歌姫のように、聖母のように、天使のように、神のように。
どんな言葉を用いてもこの女性には余るように思われた。この女性はやはり悉く、何者にもなれていないのだ。
何もかもが、彼女には大きすぎる。
けれどそれが一体、何だというのだろう?
今、目の前でさめざめと泣き続けるこの女性をアポロは知っている。彼女が大きすぎる故に、小さすぎる故に、何者にもなれていないことをよくよく解っている。
そして二人は出会っている。出会うことが、叶ったのだ。
彼がこの空間に留まる理由など、それだけで十分だった。他には何も要らなかった。
「いいでしょう、解りました。クリス、貴方は何も言わなくていい。貴方はただ此処にいてくれるだけでいい」
アポロは立ち上がり、彼女の両手が握り締めていたタオルをそっと、しかし彼女の抵抗を許さぬ力で奪い取った。
池に落としたのではないかと思える程に、そのタオルは涙を吸い過ぎて、暗く重たく濡れていた。苦笑しながらそれをテーブルの上へと放り投げた。
二人掛けのソファの、彼女のすぐ傍に腰を下ろして、尚も俯きさめざめと泣き続けるその肩を、ぐいと掴んでこちらへと向けさせようとした。
嫌、と初めて拒絶の意を示すように首を振った彼女の、まさにその首をそっと掴んで、押し倒した。僅かな息苦しさに彼女の息が震えた。
丁子色のソファに、彼女の空がふわりと広がった。そこに影を落としてアポロは彼女を見下ろした。
ようやく覗き込むことの叶ったその目は炎を飼っているかのように赤く、彼女が一人でずっと泣き続けていたことをあまりにも雄弁に示していた。
「さあ、好きなだけ泣きなさい。けれどもうタオルは使わせませんよ。貴方が泣いた分だけ私の指が濡れます。貴方だけが溺れるなど、許さない」
「……」
「おやおや、何を驚いた顔をしているのです?私が悪い大人であることは、貴方が誰よりもよく知っているでしょう」
こんな私をまっとうに生かしているのは、他の誰でもない貴方なのだから。
見開かれた目の奥には、至極楽しそうに微笑む男が映っている。その姿を彼女の目に認め、アポロはこれ以上ないくらいに、安堵する。よかった、私は笑えている。
その目に映る男の姿は、しかし数秒おきにくらりと揺れた。彼女が瞬きをする度に目の端から水が零れた。人差し指でそれを掬い取った。何度も何度も繰り返した。
塩辛い水で濡れた指先を、彼女の頬に押し当てて撫でた。砂糖のように白い肌に水が貼り付き、キラキラと瞬いた。
硝子のようだ、とアポロが思ったその瞬間、彼女はふわりと花を咲かせるように笑い、体をぐいと起こしてアポロの首を、掴んだ。
「!」
突然すぎるその出来事に面食らう彼を、彼女はそのまま笑顔で押し倒した。
3秒前とは真逆の体制となってしまったことに、しかしアポロは驚きこそすれ、困惑したりはしなかった。そんなことはどうだってよかったのだ。
彼女がどう動こうとも、何も動かずとも、彼女が何であろうと、何者でもなかったとしても、構わなかった。
彼女の涙はまだ、止まなかった。ポロポロと頬を滑るそれに手を伸べれば、縋るようにその手が彼女の両手に捕まえられてしまった。
祈るようにアポロの手を包み、目を閉じる。閉じた目からもやはり真珠は溢れ続けている。
「……ええ、しっかり握っていなさい。どうやら私は貴方を待たせ過ぎたようだ」
幼子のように、少女のように、詩人のように、歌姫のように、聖母のように、天使のように、神のように。
どんな言葉を用いてもこの女性に相応しいように思われた。この女性は悉く、何者にもなれてしまうのだ。
何もかもが彼女に相応しい形で、その冷たい手の中に在るのだ。
けれどそれが一体、何だというのだろう?
構わない。貴方が何者であろうとも、何者でもなかったとしても、どんな秘密を抱えていようとも、何を隠していたとしても、そんなことはどうだっていい。
「今日は私が貴方の代わりに話しましょう。貴方が、いつもそうしてくれていたように」
糸が切れたように、彼女はアポロの上に崩れ落ちた。彼は慌てて抱き留める。ソファが小さく軋む。彼女の歯車がキリキリと、軋むように泣き始める。
ああ、きっとこのスーツも塩辛くなってしまうのだろう。構わなかった。それでよかったのだ。
いよいよ声を上げて泣き始めた彼女の背中に手を置いて、アポロは薄暗い天井を徐に見上げた。泣く必要はなかった。彼女が腕の中で、二人分、泣いてくれているからだ。
「クリス、また今日のように泣いてください。私は悪い大人だから、貴方が泣いているところを見ると少しばかり、嬉しくなるのですよ」
勿論これは、これから始まる長い寝物語の幕開けに過ぎない。
2016.11.1
(神様、貴方の慈悲をどうか私に)
ハッピーバースデー、Papiさん!