ジョウト地方の大都会、コガネシティの外れにその一軒家はあった。
元々は古本屋だったらしく、その名残を残すかのように、壁一面に本棚がそびえ立っている。
この場所を買い取り、自宅へとリフォームする際、真っ先に取り払うべきはその本棚であるかのように思われた。
しかし彼女の強い意向で、一面の壁にだけ本棚を残すことが決まった。無類の本好きである彼女は、その本棚の大半を既に自らの「武器」である書物で埋め尽くしている。
天井近くまであるその本棚の、上の方の本を取るには梯子が必要だ。しかしこれも、既にこの家屋が古本屋だった頃から備え付けられている。
本のための空間。活字のために繕われた何もかも。これは彼女にとっては楽園のような物件だったのだろう。
かつてはこの古本屋の常連だったという彼女は、その主である店主とも親しかったようだ。
田舎でのんびりと暮らしたいからと、この店を畳むことになった時に、クリスは彼から相談を受けていたらしい。
家屋は取り壊すのにも相応の金額を必要とする。この土地の所有権を放棄しようとしていた彼は、なるべく少ない金額で家屋を取り壊せる方法がないかと尋ねていたのだ。
『それじゃあ、私達がこの家を買い取りましょうか?』
彼女の助手として同行していたアポロは、その言葉に驚いて、小脇に抱えていた愛用のノートパソコンを取り落としそうになった。
店主も驚いた様子を見せたが、しかしそれは一瞬だった。
『本当はね、君が迷惑でなければそうして欲しいと思っていたところだったんだよ。』
ジョウトで最も地価が高いコガネシティで、一軒家などまず買うことができない。精々、マンションが関の山だろうと思っていたアポロの予測を、彼女は見事に裏切った。
自分より7つ年下である筈の彼女には、毎度のことながら驚かされる。
『ペンと剣が欲しいんです。』
数年前、そう言って笑った少女の信念は今も変わっていない。
この大きすぎる本棚に詰め込まれた書物は、おそらく、彼女の武器庫のようなものなのだろう。
法律関係の名前が刻まれた背表紙ばかりが並ぶその本棚の最上段に、ひっそりと物語の本が置かれていることを知る人間は少ない。
たった数冊。それらの本を、時折彼女は梯子を上って手に取る。彼女と同い年である友達が書いた本なのだと言って、それらを見せてもらったことは一度や二度ではない。
仕事で用いる書物以外の本は、全てコガネシティの図書館で借りて読んでいた彼女にとって、この数冊が唯一、彼女が所持している「嗜好品」としての本だった。
だからこそ、その数冊は異様な輝きをもってその本棚の最上段に位置していた。
こんな風に彼女に愛される本は幸せだ、とアポロは思う。そしてその小さな本に綴られた活字に、小さな嫉妬さえしてしまうのだ。
それを話したところで、彼女は本を読むことを止めたりはしないだろうけれど。それでも構わないと、笑って許せる程の愛しさではあったのだけれど。
「……」
そんな、元古本屋をリフォームした自宅兼、仕事場。その2階で、小さくアラーム音が鳴った。
アポロの朝は6時に始まる。今日は日曜であったが、平日のアラームをそのままかけてしまったようだ。
隣に彼女の姿が見えないことに気付き、苦笑する。居場所は解っている。
「明日はお休みだから、少しくらい夜更かししてもいいですよね」と笑っていた彼女が、何をしていたか、推測するのはとても容易い。
案の定、着替えて顔を洗い、階段を駆け下りたアポロが見たものは、仕事場のソファに横になり、床に本を落として眠っている少女の姿だった。
アポロはその、彼女の宝物とも言える本の1冊を取り上げる。『約束の魔法』というタイトルだった。
しかし彼女の傍にあった本はそれだけではなかった。机の上には5冊の本が積み上げられている。
本を読まないアポロでも知っているような、著名なミステリー作家のものだった。勿論、これは彼女の所持品ではなく、全てコガネシティの図書館で借りたものだ。
「クリス、起きなさい。風邪を引きますよ」
「ん……。少佐の所持品にあったパイプは……」
その寝言は裁判のものではなく、机の上にあるミステリー小説のものだろう。
一晩で5冊を読むなど人間業ではないとアポロは思ったが、それを難なくこなしてしまうのが彼女という人間なのだということも知っていた。
『秋は読書の季節です。ひと月に50冊は読みたいですね。』と言って笑っていたが、「読書の季節」でなくとも彼女は日替わりで新しい本を手にしている。
月に30冊前後、年間300冊越え。3日と空けずに図書館に通い、新しい本を借りてくる。多忙な弁護士の仕事をしながら、彼女の読書欲は収まるところを知らない。
「ペンと剣が欲しい」というのは建前で、ただ単にポケモンバトルと読書が好きなだけなのではないか。
そう思ったが、たとえそれが建前だったとしてもよかったのだ。何故なら彼女はその言葉の通りに、ペンと剣を手にしているのだから。
好きなポケモンバトルと読書を極限まで突き詰め、趣味の範疇から逸し、類稀なる才能とするのが彼女の凄みでもあるのだ。アポロはそんな彼女を尊敬していた。
何回か揺すって、ようやく眠りの淵から彼女を引きずり出したアポロは、着替えて顔を洗ってくるように促す。
2階に上がった彼女に続き、キッチンで食パンをトースターに入れる。小さなコーヒーミルを取り出し、コーヒー豆を挽く。
豆は上等なものではないけれど、挽きたてのコーヒーの香りは格別だ。ミルで豆を挽くという手間は、その香りを得るに相応しい対価であると言えるだろう。
このミルは、つい最近の祝いの品として、タンバシティに住む彼女の友人から贈られたものだ。
その友人とアポロは一度だけ、式の場で顔を合わせたことがあったが、あの数冊の分厚い本を書き上げた人間とは思えない程にその四肢は細く、顔色もとても悪かった。
それでいて笑顔を絶やさず、クリスに「おめでとう」と何度も何度も繰り返していたのだ。
成る程、これくらい強い人間でなければ、クリスの親友は務まらないらしい。
それでは、そんな彼女よりも遥かに近い場所にいる自分は果たして、それ相応の強さとやらを身に付けているのだろうか。
「……」
コーヒーミルの持ち手を回しながら、アポロはそんなことを考える。アポロのパートナーであるヘルガーが、匂いに釣られたようにすり寄ってきた。
その様子が自分を励ましているようにも思えて、アポロは苦笑する。ヘルガーの頭をそっと撫でて、朝食の準備を再開した。
平日なら、先に目覚めるのは少女の方だ。朝の5時に目を覚ます少女は、それからアポロが目覚めるまでの1時間を利用して、本を読むのだ。
彼女にとって、読書の時間は睡眠時間よりも大切らしい。
「おはようございます、アポロさん」
灰色のシンプルなワンピースに着替えて現れた彼女はアポロの隣に立ち、焼き上がったトーストにバターを塗り始めた。
目元にうっすらと隈ができている。何時まで読んでいたのですかと尋ねれば、彼女は笑いながら首を傾げた。
本を読んでいる最中に時計を見るような真似を、よくよく考えれば彼女がする筈もなかったのだ。
「ブラックでいいですね」
「はい」
コーヒーフィルターにお湯を注ぐ。彼女は冷蔵庫から梨を取り出し、ナイフでくるくると器用に剥き始める。
何もかもを卒なくこなす彼女を見ていると、どうしてもその欠点を探したくなるものだ。
そしてつい最近、アポロはそんな彼女の欠点を見つけていた。彼女は歌が下手だったのだ。音痴な訳ではないが、そこには幼児が音を追い掛ける程度の技量しかない。
お世辞にも上手であるとはいえない歌声を、しかし彼女は恥じることなく陽気に紡いでみせるのだ。
折角見つけたその欠点を、彼女は持ち前の奔放でマイペースな雰囲気と笑顔で帳消しにしてみせる。
彼女はあまりにも眩しすぎた。そしてそんな彼女が今、アポロの隣に立っている。
「さて、食べましょうか」
「アポロさん。私の分のコーヒーがまだです」
「……ああ、そうでしたね」
アポロは笑いながら、少しだけむくれたように肩を竦める彼女の青い髪をそっと撫でる。
そうすれば、彼女が一瞬の後に照れたように、とても嬉しそうに微笑むことを知っているのだ。
二人は彼女の分のコーヒーを入れてから席に着いた。
お揃いのマグカップ。二つの椅子に小さなテーブル。開け放たれた窓から聞こえる鳥ポケモンのさえずり。風にふわふわと揺れるベージュのカーテン。
そんな何もかもでこの空間はできていた。そしてその空間の中央に二人はいた。
「アポロさん。今日もいい朝ですね」
二人はつい先日、式を挙げ、結婚したばかりだ。
2015.2.7