ここに天使はいない

 半歩先を歩いていたクリスの足が止まった。顔を覗き込めば彼女は口を薄く開けたまま、瞬きさえ忘れてシルバーを見ている。どうした、と尋ねるより先に、彼女は俯き、両手で顔を覆いその場にゆっくりと蹲ってしまった。
 モーモーミルクの入った袋が嫌な音を立てる。そちらの1本まで裂けてしまわないかとシルバーは一瞬だけ肝を冷やしたが、袋に白い液体が滲むことはなく、紙パッケージはその形を誠実に保ったまま、アスファルトの上にそっと倒れ込むばかりだった。

「おい、どうした急に」
「シルバーは、嫌だった?」
「は? いきなり何のはな……」

 言葉足らずにも程があるその質問。けれどシルバーには何を問われているのかが分かってしまった。

「嫌じゃない」

 はっと顔を上げたクリスに下手な笑みを作ってやれば、反対に彼女は顔をくしゃりと歪めて堰を切ったように泣き出してしまった。乱暴に目元を両手で拭いながらしゃくりあげるその泣き方は、妙に懐かしさを覚える幼い子どものそれで、まだ大人になりきれていないシルバーはなんとなく安心したのだった。

「俺はお前を突き飛ばして落とした、血の気の多い俺のことも、旅を終えて早々にこんな指輪でコトネに縛られてしまった、今のそれなりに情けない俺のことも、嫌じゃない。そして経験と記憶の量が多い分、こっちの俺に今は愛着があるんだ」
「ごめんなさい、ごめんなさいシルバー! 許さないで、私、きみ、君の世界を」
「お前に奪われたとは思ってない。お前を恨んだことは一度もない」
「嘘、だって、だって私が願ったから、だから」
「お前のせいだとも、思ってない」

 叱られることを恐れているような震え方をするクリスの、その薄い肩にそっと手を置いた。

「なあ、やっぱり俺、お前がコトネの言うような天使だとは到底思えないんだ」
「それ、は」
「世界を作り変える力を持つ天使様ってヤツが、俺なんかの一言でこんなになるなんてどう考えてもおかしいしな」

 何ならお前も「願いを叶えるチャンス」とかいう分かりやすいエサに釣られ、世界の歪みの中枢に呼び込まれてしまった、いわば被害者だと思っているし……という言葉は流石に飲み込んだ。確証のない勘や憶測で彼女の重荷を取り除こうと試みられるほど、シルバーは「クリス」と仲良しではなかったからだ。

「でも私、君、の……きみ、を」
「お前だって辛かったんだろ。一人で、戦ってきたんだろ」
「シルバー……シルバー、どうして」
「分かってる。俺は……何故かは分からないけど、お前が悪くないってちゃんと分かってる。なあ、だからもういいんだ。謝らなくて、いいんだ」

 そういうことはお前をもっとずっと深く愛している人が言ってやればいい。お前がこっちの世界で結んだ無数の縁の中でゆっくり傷を癒せばいい。
 シルバーはクリスにそこまでの愛情を向けられない。そこまで彼女を愛してはいない。
 ただ、彼女が。彼女こそが、かつての思い出を共有できる、唯一無二の。

「俺たち楽しかったよな、クリス

 かけがえのない、ライバルであったというだけの話で。

 膝を折り、肩を落とし、深く俯いて、ぐずぐずの嗚咽とともに泣く彼女。こうしていると本当に子どもみたいだ。いつも世界のすべてを分かっていますっていうような、すました顔をしている癖に、と思いながらシルバーは音もなく笑う。
 アスファルトに膝を付けて、肩に置いていた手をそっと背中に回した。力を込めれば呆気なく頭がこちらへ倒れ込んできたので、少しの間だけ膝を貸してやることにした。

 彼女が何のために戦ってきたのかをシルバーは知らない。知ったところでシルバーは彼女の何をも解決できやしないだろうから、尋ねようとも思わない。
 ただ彼女を労うためには「一人で戦ってきた」ということが分かればよかった。同じように長い間一人で戦ってきたシルバーが、彼女に根付いた罪の意識を少しでも薄めたいと願う理由など、それだけで十分だった。

 泣き崩れた彼女に膝のひとつも貸してやれないような無情な男ではない。だが涙を拭って抱きしめてやれるほどの親密さや愛情も持ち合わせていない。
 ここがきっと、かつてのライバルだったシルバーができる限界。そして、きっとこれくらいが丁度いい。
 その証拠に……ほら、もう彼女の嗚咽も肩も震えも消えかけている。彼女にはシルバーが過剰に手など貸さずとも、自力で泣き止み、顔を上げることのできる強さがある。

 ああ、こうでなくては。

「落ち着いたか?」
「ふふ、ごめんね、びっくりさせたよね」
「まあ、多少は」
「うん、きっともう大丈夫。ありがとう」

 少しだけ赤くなった鼻をスンと小さく鳴らしてから、クリスは恥ずかしそうに眉を下げつつ立ち上がった。先ほどまで泣きじゃくっていた人の顔を正面から見るのが憚られて、シルバーはふいと庭へ視線を逸らす。白や黄色の花が規則正しく植えられている花壇の一角には、最近植えたばかりと思しき木があった。

「綺麗な木でしょう? もっと成長したらマルメロっていう実が成るはずなの。今回は私とアポロさんで植えたのよ」
「今回は、ねえ」

 また含みのある言い方をするな、と呆れた心地になりつつ、そうした含みの不気味さを理解してやれる自分でよかったとさえ、今のシルバーは思い始めている。

「私の願いは叶ったよ」

 弾かれたようにシルバーはクリスへと向き直った。だから大丈夫、と笑う彼女には一切の憂いがなかった。シルバーが先ほど為した「嫌じゃない」「謝らなくていい」との返答が、彼女の心に差した影を取り除くための最後のピースだったのかもしれない。
 彼女はこれでようやく、シルバーとだけ共有してきたあの世界への未練を手放せるのでは、と。

「だから私の願いを叶えてくれたこの世界に恩返しをしたいの。大好きな人たちの願いをぜんぶ叶えてあげたい。大好きな人たちが少しでも苦しまずに済むようにしたい」
「そうか」
「ふふ、そのためにはきっと、人生100年あっても足りないね」
 
 その言葉を受けてシルバーはほくそ笑んだ。そこまで言うのなら、ちゃんと約束していってもらわなければなるまい。

「二つ、聞いてほしいことが」
「いいよ、何?」

 首を傾げる彼女に、まず一つ目の要請を口にする。

「今の、恩返しがしたいっていう話を、コトネに伝えさせてほしい」
コトネに?」
「あいつはお前がいなくなることを今でも怖がっているから」
「そうだったんだ……うん、いいよ。私からもお願い。コトネに、不安に思わなくていいよって教えてあげて?」
「分かった」

 予想外の収穫に心が躍った。間違いなくコトネは喜ぶだろう。いつ消えてもおかしくないと怯えていた相手が、恩返しには100年あっても足りないなどと言い放ったのだ。
 クリスが恩返しを十分にできていない状態でいなくなるような不義理を働く人間ではないことを、コトネはよく分かっている。これできっと、二人して怯えることもなくなりそうだ。
 さて、二つ目だが。

「あと、これは俺の個人的な願いなんだが」
「うん、聞かせて」
「これからはお前のことを、5つ年上の……コトネの姉の『クリスさん』だと思うことにしたい」

 彼女にとって思いも寄らない言葉だったのだろう、クリスの目が大きく見開かれた。
 シルバーだって、こんな言葉を事前に用意できていたわけではなかった。今ならそう思えるのでは、適切な関係を結び直せるのではと、そうした感覚をたった今、得られてしまった。だからこそ出てきた言葉だった。
 何の計画性もないその言葉は、けれども紛れもなくシルバーの、今ここにいるシルバーの噓偽りない願いだった。

「お前にまた会えて、願いが叶ったと分かって、本当に嬉しかった。俺はもう、お前を突き飛ばしたあの頃の俺に一切の未練がない」
「シルバー」
「心配しなくても、お前がこっちを懐かしんでみたくなったら、また来てやるよ。それまではここで、さよならだ」

 シルバーはクリスに手を差し出した。ポケモンバトルが終わった後の握手を求めるように。さよならの挨拶をするように。

「俺はあの世界を一度手放す。お前も一緒に手を、放してみないか」

 クリスもきっと同じことを思ったのだろう。何度もバトルを楽しんだあの頃のような笑顔で、瞬きを繰り返しながら何度も何度も頷いて、シルバーの手を強く握った。ああでも、あの頃は態度が……とくに俺の態度が悪かったせいで、バトルが終わった後の握手さえしたことがなかったのだっけ。
 この強すぎるライバルとの決着が、この最初で最後の握手でようやくついた気がした。シルバーが勝利できたことなど一度だってなかったが、最後の最後にこうして一矢報いられたのだから、もうあの頃の悔しさもチャラにしてやるべきだろうなと、ごく自然な心地でそう思えたのだった。

「ありがとう、シルバー」
「こちらこそ、クリス
「ふふ、大人みたいな返事!」
「からかうんじゃねえよ」

 ほぼ同じタイミングで手が離される。シルバーは一歩、二歩とそのまま後ずさり、くるりとクリスに背を向けてから左手をヒラヒラと振る。

「じゃあな」

 門の前で待っていてくれたマグマラシの頭を撫でて、歩き出す。街並みの向こうに見える空はあまりにも綺麗で、ああクリスの目と髪の色はここから奪ってきたのだろうなと考えたりもして。

「シルバーくん!」

 彼女が……「クリスさん」が俺を呼び止める。振り返れば彼女が、袋からモーモーミルクを取り出して掲げ、嬉しそうに口角を上げて笑っている。
 紙パッケージには「アサギ農場モーモーミルク 天使が届けるおいしさ」とポップな字体で印字されている。家には……シルバーが帰っていいと思えるあの場所には、同じものがまだ2本ある。賞味期限は過ぎてしまっているそうだが、一日くらいならまあ大丈夫だろう。

「モーモーミルク、届けてくれてありがとう! コトネにもよろしく伝えてね!」
「こちらこそありがとう、クリスさん! 必ず伝えます!」

 シルバーは大きく手を振ってから軽くお辞儀をして、来た道を戻り始める。マグマラシの足音がすぐ傍で聞こえることの心地よさを楽しみながら、ふと「あのモーモーミルクでチーズでも作れば、4Lくらい一気に消費できるのでは?」と、ちょっとばかし楽しそうなことを考えて笑った。




(クリスタルバージョンの世界を知らないコトネと、クリスタルバージョン時代の記憶が魂に刻まれているシルバーと、クリスタルバージョンの世界線からやって来たクリスの話)

< Prev

© 2025 雨袱紗