ここに天使はいない

 冷たいフローリングの床へと二人してぺたりと倒れ込む。玄関の向こうで談笑する声が少しばかり大きくなった気がした。どうやら立ち話が盛り上がっているらしい。シルバーの予想していた10分を過ぎてもなお、扉が開く気配は一向にしなかった。

「怖かったろ。誰にも言わずにずっと一人で、こんなこと」
「そうだね、とっても怖かった。どうしてみんな気付いていないんだろうとか、どうして私だけが気付いているんだろうとか、もう何年も前から、色々、考えちゃって」

 シルバーは自分の服の裾で、横たわるコトネの口元をやや乱暴に拭いた。渇きかけだったモーモーミルクの白ヒゲは完全には取り切れなかった。もう少し早く拭ってやるべきだったかもしれない。
 それを受けて、コトネも笑いながらシルバーに両手を伸ばし、両目の端を一度だけそっと拭ってくる。彼女の右手の指がわずかに濡れていて、シルバーは改めて、先ほどの自分の狼狽を恥じたくなった。

「いつから気付き始めたんだ?」
「私が旅に出るちょっと前かな。久しぶりに帰ってきたお姉ちゃんが『私、ジョウト地方を冒険したことがあるんだよ』って教えてくれたの。その瞬間……上手く言えないんだけど、金属が捻じれるような、ちょっとひんやりした、でもとっても綺麗な音が聞こえたの」
「耳鳴りみたいな感じか?」
「もっとキラキラした響きだったよ。きっとあれ、世界がお姉ちゃんのために書き換わる音だったのかも」

 でも安心して、とコトネは告げて目を閉じる。すうと息を恣意的に大きく吸って、緩やかに吐く。儀式めいたその所作はコトネ自身を安心させるためのものだ。シルバーを安心させるための言葉は、コトネ自身が安心していなければ紡げない。

「お姉ちゃんは私たちを悲しませるようなことは絶対にしない。私たちを置いていなくなったりなんかしないよ」
「どうだろうな。何もかもが常識外れみたいなあいつに、俺たちの、人間の常識が通用するようには思えないが」
「あはは! 大丈夫だって! 少なくとも私が、お姉ちゃんにいてほしいと思っている限りはね」
「なんだ、お前の願いにそんな強制力があるのか? 天使とやらを、引き留められる程の?」

 軽く鼻で笑うような口調で尋ねてみる。幼稚なまじないであったとしても、コトネがそれを信じ切っているのならシルバーもその信頼に甘んじてやろうという覚悟を決めて。
 しかし彼女は「そうなの!」と、自らの信頼するものへの確信をさらに続ける。

「お姉ちゃん、前に言ってくれたことがあるの。貴方の願いなら全部叶えてあげるからねって。全部うまくいくからねって」
「それはまた恵まれた話だな」
「そうでしょう? だから私、お姉ちゃんがここにいてくれることだけを願うことにしているの!」

 そんな願い事を受けてシルバーは腹を抱えて笑った。あいつの驚いたような顔を思い浮かべながら、してやられただろうな、といっとう愉快な気持ちになる。

「私、すっごく嬉しかったの! あの言葉が、お姉ちゃんがこの世界に降りてきたことに対する贖罪でしかなかったとしてもね」
「そうか、贖罪か。それなら絶対に叶えてもらわなきゃいけないよな」
「ふふ、そうでしょ?」

 あれもこれもと願った方があいつの救いになったはずだ。些末なものから大きなものまで、あらゆる願いをひとつずつ叶えていく過程で「ここにいていい」のだと、コトネの喜びをあいつ自身の救いにしていく魂胆だったはずだ。その無数の願いのうちに「いなくならないで」に類するものがあったとしても「叶えられないものだってひとつくらいある」と誤魔化せる。たくさん願いを叶えたから許してねと、相手の願いを免罪符にできる。
 しかし肝心のコトネが望んだのは、クリスの滞在、ただそれだけ。贖罪の機会を奪われ、免罪符を手に入れる手段も持たない天使は、もうそれだけを叶えるしかない。ただ「私のお姉ちゃんでいてくれるだけでいい」と笑うコトネに苦しめられるほかない。

「お前、妙なところで頭が切れるよな」
「なんてったって、あのお姉ちゃんの妹だからね」

 目の色も髪の色もコトネとは違いすぎるあいつ。本当ならこの家にいる存在ではなかったかもしれないあいつ。何かの世界の歪みを借りて、あたかもずっと前からここで生きてきたように見せているあいつ。
 コトネが「お姉ちゃん」を好きなように、きっとあいつも妹のことが大好きだ。ゆえに妹がそんな残酷な願いを口にしたとて、あいつはきっと苦しみながらも受け入れるのだろう。受け入れた結果が今の、コガネシティの端にある一軒家でのんびりと暮らしているあの姿なのかもしれなかった。

「それに、お願いのやり取りがなかったとしても、大丈夫だったと思うよ」
「どうしてだ?」
「お姉ちゃんの愛を信じてるから」

 やや恥ずかしい言葉を、コトネは至極真面目な顔で口にする。

「私は信じてる。お姉ちゃんがこっちに来たのが、愛に依るものだって信じてる」
「……」
「ただ悪戯をしにきたわけじゃない。身勝手な理由で世界を掻き回しているわけでもない。お姉ちゃんがここまでするのなら、それは絶対、何かに必要なことだったからだよ。愛のためにあの音は鳴ったんだよ」

 愛の音を鳴らして世界を書き換える存在。得体の知れない底知れぬ恐ろしさを、器用に隠し通して生きてきた、何かが決定的に違う存在。願いを全部叶えてみせるからと、大好きな相手に差し伸べる手を決して躊躇わない存在。
 本当にそうであるのなら、そう貫き通せるのなら……なるほどそれは確かに「天使」と、呼ぶべきものであるのかもしれなかった。

「あとね、シルバー。私ちょっと嬉しかったよ」
「は?」
「こんな突飛な話、笑い飛ばすことだってできたでしょう? 私だけが必死になって口にしている妄言だって捉えた方が自然だったはず。でもシルバーは迷わず私を信じてくれた。嬉しかったし、びっくりしちゃった」
「いや、そりゃ信じるだろお前の言うことなんだから。というか作り話だとは到底思えない。ここまで完成度の高いホラーを語れるほどの創造性がお前にあるはずがないからな」
「ひっどい!」

 彼女の鼻をつまんで笑う。みっともなく取り乱しこそしたし、知ったところでシルバーは「天使」の何をも変えられないが、そのことでコトネが今後、一人で不安や恐怖に泣くことがなくなるはずという、その期待を得られただけでも十分すぎることだった。これ以上を求めるのは強欲というものだろう。

 玄関の扉が開く。二人は慌てて床から立ち上がる。立ち話を終えた彼女の母親は、にっこりと笑って大きなビニール袋を掲げた。
 そこにはいっぱいの赤紫が詰め込まれている。しばらくはサツマイモ料理が食卓に並ぶことになりそうだ。頼めば少し譲ってもらえるだろうか。ここに来てすぐの頃に彼女の母親が振舞ってくれた大学芋、あれを自分でも作れるようになってみたい。
 やや温くなったモーモーミルクの残りを飲み干してから、彼女の母親に声を掛けようとして。

『貴方の願いなら全部叶えてあげるからねって。全部うまくいくからねって』

 わずかに残った違和感が、シルバーの背を少しだけ冷たくさせた。

 これだけの歪みを作ってまで、なぜあいつはここに来なければいけなかったのだろう。
 コトネの願いをすべて叶えると言ってのけたあいつの、本当に叶えたい願いとは何だったのだろう。



 人の話し声が断片的に聞こえてくる。この喧噪の中を一人と一体で歩く、いわゆる「連れ歩き」の時間がシルバーは嫌いではなかった。マグマラシは三歩と開けずにシルバーの後ろをぴたりとついてくる。アスファルトを相棒の足が蹴る音、それがこの喧噪の中でもしっかりと聞こえてくるから、シルバーはいちいち振り返ったりしない。マグマラシも、シルバーがその確信のもとに歩みを早めていることが分かるから、彼を呼び止めることも、彼が左手に提げたビニール袋を鼻先でつついて気を引こうとすることもない。

 コトネのチコリータに勝つまでは進化しない。彼女と戦ったばかりの頃に結んだその願掛けはもうとっくに解かれている。炎と草、絶対的なタイプ相性の有利がある相手、しかも一度も進化していない相手を、いくら強く鍛えられているからといって負かすのは時間の問題だった。しかしそんな勝利を知った後も、マグマラシは進化の道を選ばなかった。
 チコリータが進化したがらないのは、コトネの帽子の上が好きだからだ。ポケモンの声が聞こえるという友人、Nによるそのネタ晴らしにシルバーは呆れ返ったが、特に何も言わなかった。すぐさまそのNに、自分のマグマラシが進化を選ばない理由も似たようなものだと知らされてしまったからだ。

 まあ、進化は強くなるための絶対条件というわけでもないし、マグマラシ一体だけで勝ち抜かなければいけない理由もないしな。
 そんなことを思いながらシルバーはコガネシティを北へ進む。太い道を折れて、フラワーショップを通り過ぎて、さらに奥へ。

『私も、進化してほしいって気持ちはとくにないんだよね。チコリータが進化したら最終的にどうなるのかは、お姉ちゃんのメガニウムを見てよく知っているから』

 進化を選ばなかったチコリータを肯定する理由のひとつとして、コトネはそんなことを以前、口にしていた。その気持ちがなぜかシルバーには分かってしまったので「分かる気がする」と呟けば、コトネは「どうして? 変なの!」と眉を下げつつ嬉しそうに笑ったのだっけ。

「はっ……あ、マズいなこれ」

 嫌な汗と動悸に焦ってしまい、思わずそんな言葉が出てくる。原因など考えるまでもない。昨日「天使」などという単語をきっかけに引きずり出された、何らかの歪みへの意識がそうさせるのだ。シルバーの意識をガクガクと揺らして、不安とか、恐怖とか、そういう名前の付いた奈落へ突き落とそうとするのだ。

「っ、くそ……何なんだよもう」

 自分はバクフーンを連れたトレーナーを見たことがないはずなのに、なぜだかバクフーンに進化した自分の相棒のことをありありと想像できてしまう。別にそうならなくてもいいのだと、もう十分だと思えてしまう。
 いや十分って何だよ。何をもって十分だなんて。だって俺は……「俺」は、バクフーンに会ったことなんてないはずなのに。

「シルバー!」

 いよいよ膝を折ったシルバーの、袋を提げていない方の腕を誰かが掴んだ。シルバーの体躯は止まったが、ビニール袋の中身は慣性の関係で転がり出る。
 バシャ、と嫌な音が、眩暈に苦しむシルバーの鼓膜を刺した。眉間を寄せつつ視線をそちらへ移せば、白いスニーカーの足元にモーモーミルクが水溜まりを作っていた。やや坂道になっていたらしく、液体はスニーカーを通り過ぎて奥へ奥へと流れていく。一枚の大きな羽を描いているかのよう。

「あー! モーモーミルクが……」
「っは、あ……っえ?」
「ふふ、なかなか悲惨なことになっちゃったね。君は大丈夫?」

 白い羽の上に立つ、白いスニーカーを履いた女性。デニムワンピースの上、首元でチラチラと跳ねるウェーブのかかった髪は、シルバーの記憶に違わない空色だ。同じく空色の目が真っ直ぐにシルバーを見つめている。

「……」

 目が合った瞬間、シルバーは笑いたくなってしまった。昨日からずっと恐れてきたはずの「天使」が、殊の外普通の人間の形をしていたことに拍子抜けてしまったのだ。どうしてこんなヤツを俺は恐れていたのだろうと、そう思ってしまう程度には目の前の女性、クリスには一切の圧がなかった。本当にただの、ただの人間に見えたのだ。
 これが天使の擬態だというのなら、よくぞここまでうまくやれたものだと感じる。ここまで完璧であるのなら、もういっそ騙されてしまってもいいとさえ思えてしまう。

「何だよ、この手」

 シルバーの右手を掴んで離さない彼女にそう問えば、彼女は困ったように笑いながら答えてくれた。

「いや……君の意識? が、落ちそうだったから、引き止めなくちゃと思って」
「はっ、お前ってほんとお人よしだよな。自分はしっかり俺に落とされたのを忘れたのか?」
「あはは! いいんだよそんなこと。だってあの塔でのあれがあったから私、スイクンに会えたんだもの」
「そうかよ」
「もう大丈夫? 手、離していい?」

 大丈夫だと返すより先に、舌打ちをして振り払った。クリスはそんなシルバーの不遜な態度にも動じることなく、肩に提げていたカバンからバスタオルを取り出して、豪快にアスファルトへ敷き、大量のモーモーミルクを一気に吸わせた。一枚で足りないと判断したのか、カバンからはさらに二枚のフェイスタオルが出てくる。一枚をシルバーに渡してクリスは微笑む。
 前言撤回。これは流石に用意が良すぎて、不気味だ。

「残りは水で流せば綺麗になりそうだね。そこのフラワーショップでジョウロ、借りられないかな?」
「行ってくる」

 シルバーは駆け足でフラワーショップへ向かう。店員に声をかけて事情を説明し、水を満たしたジョウロを貸してもらった。店いっぱいに並ぶ、名前も知らない色とりどりの花たちを、シルバーはただ綺麗だと思った。

 かくしてモーモーミルクの事故により作られた大きな羽はシルバーとクリスの手により無事回収された。ビニール袋に元々入っていたモーモーミルクは2本。無事だった1本と数本のサツマイモが入った袋を、謝罪とともにクリスへ渡す。彼女は意に介さない態度で受け取った。

「いいんだよ、元々1本あれば十分だったから」
「は? じゃあなんで2本も……いや、やっぱりいい」
「ふふ、それでシルバーはどうして私のところへ? 何か用があったんでしょう?」
「いや今日はたまたま……いや、いい。どうせ誤魔化したって意味ないんだろ、お前には」

 元々このモーモーミルクはコトネクリスに届ける予定だったものだ。その役目を横取りする形で引き受けたのは他ならぬシルバーの自主的なもので、つまるところクリスに会いたかったのも、彼女と話がしたかったのもシルバーの方。
 彼女はきっとそうした事情だってすべて分かっている。会いに行く決心を固めたものの、クリスの不確実性を思い、道中で不調をきたす可能性が高いこと。その結果、2本のモーモーミルクのうち、どちらか1本をダメにする羽目になるだろうということも。
 だからこそ、シルバーが転んで奈落へ落ちる前に腕を掴まれたのだ。だからこそ、アスファルトに広がった白い羽を回収するためのタオルが三枚もお誂え向きに用意されていたのだ。

『お姉ちゃんの周りの人たちも、シルバーみたいに時々おかしくなるの』
 ああコトネ、まったくもってその通りだ。だってあんなに怖がっていたのに、クリスを目の前にするとこの違和感を完全に受け入れてしまっている自分がいる。俺にはこの女性を「落とした」経験なんかもちろんないのに、さもそんな経験をしっかりと自分のモノにしているかのような言い方をしてしまっている。
 そしてクリスも、そんな奇怪な言動をする俺を咎めず、さも当然のように「シルバーがクリスを落とした歴史」を認めて、笑っている。

コトネのことで、何か困ったことがあった? それとも君自身の悩み?」
「そこまで分かるのに俺が会いに来た理由は読めないのか?」
「ふふ、君、私のこと何だと思ってるの! 私は人の心を読める妖怪じゃないんだよ?」

 人の心が読める妖怪程度のものだったらどんなにかよかっただろう、と思いながら、シルバーはクリスの斜め後ろを半歩遅れて付いて行く。彼女の自宅兼事務所は目の前まで来ていた。玄関へと続く小さな門へと手を掛けてゆっくりと開けるクリスの、その横顔をじっと見る。

 シルバーよりも五歳年上の女性。地方をまたぎ活躍する敏腕弁護士。あのコトネをして天使と言わしめる女性。コトネをこよなく愛し、コトネにこよなく愛されている、彼女の姉。でも今、クリスと並んで歩くシルバーにはどうしても「そう」思えなかった。どの肩書も「クリス」を形容するには不自然であるように思えてならなかったのだ。

 本当に、本当に不気味な話だが、なぜだか今のシルバーには、クリスとは本来「こうではなかったのかもしれない」という思いがある。この女性と並んでいると……もっと幼いクリスに向かって、何度も何度もボールを突き出してバトルを仕掛けた、あるはずのない記憶がシルバーをくすぐるのだ。バクフーンとともに何度もこいつのメガニウムやスイクンに挑んだ、懐かしい記憶を、まるで我が事のように感じてしまうのだ。

「聞きたいことがあって来たんだ」
「お話? いいよ、家に上がっていく?」
「いい、すぐ終わるから」

 なぜお前は「そう」なってしまったのだろう、とシルバーは思う。
 この女性を変えてしまった強大な何らかへの恐れ。本当に恐ろしいのはクリスではなく、クリスがこう変わらなければならなかった「運命」というものの方にあるのでは、などという仮説への虚しさ。だとしても俺にできることなど何もなかったのだろうなという惨たらしい確信への、悔しさ。
 シルバーのよく知る「クリス」を今のクリスにしてしまったすべてを思うと、どうしようもなく怖くて、虚しくて、悔しい。
 でも、他でもないお前自身が、そうしたすべてを承知のうえで、自らに羽を生やすことを選んだのなら。

「お前の願いは叶ったのか」

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