「こういう話はもっと場を選んでしたらどうだ」
「あはは、ごめんね。シルバーがお誂え向きに天使なんて言葉を使うから、つい」
一気にゴクゴクと飲み干した彼女の口元には、モーモーミルクによる白ヒゲが付いている。赤みのある丸い舌でぺろりと舐め取りつつ笑った。まだ少し付いたままになっていることは指摘すべきだろうか。
「なぜお前はあんなヤツが天使だと?」
そう尋ねたシルバーに、コトネは「ほら!」と面白がっていることを隠そうともしない豪快さで笑った。
「どうしてシルバーはお姉ちゃんへの態度をわざと悪くしているの?」
「は? いや、わざとってお前」
「シルバー、ここに来てからは私よりずっと礼儀正しいよね。年上の人には敬語を使うでしょ? Nさんには砕けた言葉で話すけど、あれは親しみから来るものだって、分かるよ」
「……」
「でもお姉ちゃんにはそうじゃない。ほかの誰に対してよりもちょっとだけ、無礼だよね」
それは、と弁明しようとしたが、思うように言葉が出てこない。
自分が、このシルバーがクリスに対して敬語を使う様をまったくもって想像できないから。笑って握手を求めてくれたその手を、とんでもない言葉と共に払いのけてしまったあの日の自分に、一片の後悔も持てないから。
『シルバーくん、私のこと、本当のお姉ちゃんだと思ってくれていいからね』
『お前を? 冗談じゃない』
無礼を働いてやろうとかいう気持ちがあったわけでは断じてなかった。憎悪や恐怖があったわけでもなかった。本当に、この人の前ではこうするのが最も自然で適したことだという、彼女の目を見た瞬間に突如として降って湧いてきた謎の感情がそうさせたのだ。
唖然とするコトネやその母を他所に、あいつは本当に嬉しそうに笑っていた。容赦ない手の強さでシルバーの頭をわしゃわしゃとかき回して、豪快に笑って、それでこう返してきたのだ。
『私だって君みたいな弟、真っ平御免だよ!』
あの日会ったばかりなのに、シルバーは彼女のそんな言葉を「彼女らしい」と感じた。「相変わらずだ」とさえ思い、満足そうに笑いさえしたのだ。
何故、と言われても分からない。あの時の態度をおかしいと糾弾されたとて、それはもっともなことだ。ただ、傍目にはおかしい態度と言葉の応酬だったとしても、客観的に見て不適切な言動であることを頭では理解しつつも、もっと別の部分、抗えない何らかの部分が「これでいい」と頷くのだ。これが、これこそが俺たちの形だと叫ぶのだ。
「分からない」
「……」
「理由は説明できない。不自然で無礼な態度だとは思う。おかしなヤツだと思ってくれていい。あいつを好きなコトネにしてみたら、不愉快な話かもしれないが」
それでも多分、この態度をきっと変えられないだろうなとシルバーは思った。きっとまたクリスに出会っても、勝気に口角を上げて、ぶっきらぼうな言葉を投げるのだろう、と。
「お姉ちゃんがみんなからおかしいって言われているのはいつものことなんだけどね?」
そう前置きして、コトネは空になったグラスを持ち、立ち上がった。キッチンへ向かい、シンクの蛇口から水を出してグラスを軽く濯ぐ。モーモーミルクには脂質が多少入っているから水洗いでは綺麗に落ちない。あれ、と首を傾げて笑いつつ、コトネは観念したようにスポンジを取り出してゴシゴシと洗い始めた。
「お姉ちゃんの周りの人たちも、シルバーみたいに時々おかしくなるの」
「……お前の母親も?」
「うん。私とヒビキのアルバムは生まれたときの分からたくさんあるのに、お姉ちゃんのアルバムは一冊もないの。この家にはお姉ちゃんの部屋もない。小さい頃にお姉ちゃんのおさがりを貰ったことも一度だってない」
「……」
「でもお母さんもヒビキも、それがおかしいってことに気付いていない」
水の流れる音が止まる。グラスを置いてコトネがリビングへと戻ってくる。いよいよ震えてきた指先を見られたくなくて、シルバーは慌ててマグカップを置き、テーブルの下に両手を滑り込ませた。
「シルバー、大丈夫?」
「はっ……なに、何が」
「顔が真っ白だよ、モーモーミルクみたい」
なぜ震えているのだろう。なぜ青ざめているのだろう。何が怖いのだろう。
幼少の頃にロケット団のボスである父親にくっついていたときの方が、もっと物騒で怖いものをたくさん見てきたはず。この家はそうした、身を震わせる何もかもとは無縁の、温かくて優しい場所のはず。
けれどその安寧は、シルバーの思っているほど丈夫なものではなかったのかもしれない。たとえば温めたミルクの上に張られる膜のように、息を吹きかける程度の刺激で崩れ、破れ、なくなってしまうような。
その程度の。
この家でシルバーに与えられる安寧を「当然のもの」と思ったことは一度もない。シルバーだけがこの安寧から弾かれるのであれば理解できる。彼等の家族が以前の形に戻っただけ。寂しさや悲しさに襲われこそするだろうが、きっといずれ一人を思い出せる。長い間そうだったのだから、構わない。シルバー自身がそうなるのであれば、本当に構わない。
でもこれは違う。世界の崩壊がシルバーのみに収まる気配が微塵もしないから怖いのだ。「おかしさ」がシルバーだけでなく、もっと多く広いところを飲み込もうとしているのが分かるから怖いのだ。
「天使ってね、何かの使命のために天からやってくるの。人に関するお仕事をしなきゃいけないときには、人の形を真似ることもあるんだって」
「人を、真似る」
「でも、いきなり何もないところから人が現れるとびっくりするでしょ? 人の世界に馴染めないでしょ? だからそこにいる人間の記憶をすり替えちゃうの。まるでその天使が、ずっと前から同じ場所で暮らしていた仲間だったみたいに」
それは一般的な「天使」を考察する際の、数ある説のひとつにすぎない。コトネだってそんなことはよくよく分かっている。分かっていながら、実の姉を、姉であるはずの存在をしてその、数ある中でも比較的物騒な説に重ねてしまう程度には、コトネには姉という存在への疑惑がある。
事あるごとに「お姉ちゃん」が大好きだと笑って口にしていた彼女。「お姉ちゃん」の強さや優しさに誰よりも焦がれてきたはずの彼女。けれどもその実、誰よりも「お姉ちゃん」を信じることができていなかった彼女。
シルバーの胸が誇張なしにズキズキと痛む。だってそれは、あまりに悲しすぎることじゃないのか。
実の姉であるはずの人物への不確実性がコトネに付けた深い傷を思った。表向き、姉を慕い続けてきた完璧な妹の覚悟を思った。あいつの周りの不自然さ、自分だけが気付いてしまったそれを、誰にも話せずずっと抱え続けてきた長い時間を思った。その鉛の箱を開く権利が今、こうしてシルバーに与えられたことの意味を思った。
俺は、何と言うべきなのだろう。
「仮に、仮にそうだとして、クリスは何の目的で?」
「うーん、私の予想だけど、もう目的は達成できているんじゃないかって思うの。だって成し遂げるべき大事なことがあるにしては、お姉ちゃんの暮らしって随分のんびりしているもの」
「えっ?」
「天使のお仕事は、私たちの知らないところできっともう終わったんだよ」
終わった? その言葉を吸い込めばそれは肺の中で針状になり、シルバーを内側から容赦なく刺した。
どういうことだ。なぜあいつはまだこの世界にいる? 仕事が終わった天使とやらが、この場所に居座り続ける理由は何だ?
それともあいつは、今まさにここから、この世界から飛び立ち、いなくなろうとしているとでもいうのか? あいつを知る誰もを置き去りにして?
「ふっ……は、あっ」
「シルバー?」
ふざけるな。そんなことになったらあいつを知る人間たちはどうなる。
彼女を我が子だと信じきっているあの優しい母親は? 彼女と添い遂げることを誓った元ロケット団のあいつは? 彼女を「お姉ちゃん」と呼んで慕うお前は?
無理だ。俺にできることなんてあるはずがない。
唐突過ぎる「天使」の喪失に、心を壊していく彼等を、ただ見ていることしかきっとできない。
「シルバー!」
そしてそんな絶望に、きっと俺自身も耐えられない。
「大丈夫だよ、落ち着いて。私たち、何も奪われてなんかいないよ。何も失ってなんかいないよ」
「う、うそだ。とら、取られ、はあっ、どうしよう、どうし、おれ、何も」
「怖がらなくていいってば。お姉ちゃんをそんな悪者みたいに思わ、ない、で!」
「うわっ」
ガタン、と椅子が倒れる音と、床に尻もちを付いた衝撃。首を絞めるように絡みついてきていた悪魔のような思考はそこでぷつりと千切れた。
かなり強引にシルバーの体制を崩したコトネは、尻もちを付いた体躯を跨ぐようにして、やや申し訳なさそうに眉を下げつつこちらを見下ろしている。見上げる構図が珍しく、どこか懐かしい。ああそういえば、こいつに出会ったばかりの頃は自分の方が背が低かったのだっけ。いつの間にか、追い越していたのだっけ。
「ごめんねシルバー、そんなに動揺するなんて思わなかった。いきなりこんなこと言われるとやっぱり怖かったよね、ごめんなさい」
「あ……いやそんな、ちが」
「あーあ、私なんでこんなこと言っちゃったんだろう」
じわっと太陽の瞳が濡れる。不安定を司る天秤が、シルバーからコトネの方へと一気に傾いた気がした。彼女の涙が零れてしまうような気がして、頬を伝う前に拭い取りたいという気持ちのままに慌てて立ち上がろうとしたが、床に付けた手は先ほどの恐怖を引きずるように震えていて使い物にならない。
そんな様子を見たコトネは少し愉快そうに笑ってから膝を折り、立ち上がることのできないシルバーの隣に並んだ。
「これじゃ、ただ君が辛いだけだね。君を、私と同じところへ引きずり込んじゃっただけ。ただ恐怖と不安を伝染させただけ。本当にごめんなさい」
「えっ」
その言葉で、今でこそ平静を保っている彼女が、錯乱しかけたシルバーを見ても驚かなかった理由に思い至る。きっとかつてのコトネはシルバーと同じように……いやもしかしたら彼以上に、恐怖し、動揺し、絶望し……そうしたことをもう何度も繰り返してきたのだろう。
たった一度だけでこんなにも苦しい。傍に信頼の置ける相手がいてもなお、これ程までに恐ろしい。けれど彼女は、共感してくれる相手のいない状況で、苦悩や恐怖を何度も繰り返してきたのだ。いつか「天使の帰還」により自身を取り巻く世界が崩壊するかもしれない可能性を思いながら、恐れながら、それでもずっと笑って生きてきたのだ。それでもずっと「お姉ちゃん」を慕って生きてきたのだ。
そんな彼女がようやく口を滑らせ、シルバーという共感の相手を得た。その上で生まれた第一の感情が「話さなければよかった」という後悔。
それこそ……あんまりな話じゃないだろうか。
「なんだ、それならもっと、怖がればよかった」
「へ?」
「どうせ何年も一人でウジウジ泣き続けてきたんだろう? そんか昔のお前の分まで、俺がここでもっと煩く叫んで泣いて暴れてやればよかった。お前はもっと早く俺にそうさせるべきだった」
自らの頭に降って湧いた「天使」の仮説が恐ろしい。一瞬にしてすべてが消え失せ、なかったことにされてしまうかもしれない可能性を思うと震えが止まらない。これから訪れるかもしれない可能性を防ぐ術の一切がシルバーにはない。
でも、これまでに積み重ねてきてしまったコトネの苦悩や痛みを引き取ることくらいはできる。
「今日のお前の口が軽くてよかった。話してくれてありがとう、コトネ」
呆然とシルバーを見つめたコトネは、やがて呼吸を思い出したかのようにひゅっと高い音を立ててから笑い始めた。「何それ、変なの!」とひどく明るい声で口にして、震えの止まったシルバーの手を握って、そして。
「シルバーがあれだけ怖がってくれるなら、もう私、きっとこれから先ちっとも怖くないや」
ここに天使はいない