(???の世界を知らないコトネと、???の記憶が魂に刻まれているシルバーと、???からやって来たクリスの話)
「天使ってどんなヤツだと思う?」 空になったモーモーミルクの紙パッケージを見ながらシルバーは口を開いた。リビングに生まれた沈黙をちょっとくすぐってやろうという程度の、本当に他愛もない話で終わるはずだったのだ。 「天使? 知ってるよ、お姉ちゃんのこと!」 しかし、間髪入れずコトネがそのような珍言を呈するものだから、思わずモーモーミルクを吹き出してしまう。ぎゃあ! という気取らない悲鳴とともに彼女は慌てて立ち上がった。 シルバーの「あっ悪い」という短い謝罪は、コトネの「お母さーん!」と助けを求める大声に搔き消される。もう一度謝罪を繰り返すのは気が引けて、シルバーはモーモーミルクがたっぷり沁み込んだ衣類を脱ぐために洗面所へ向う。黒いカットソーの襟元は飲料の白と混ざり、妙なグレーに着色されていた。 『世界はずっと灰色だったらしいんだ。ボクが知らなかっただけでね』 イッシュで暮らす、年上の友人の言葉が脳裏を過ぎる。何にでも規則性や美しさを見出すあいつは、これを見ても美しいねと微笑むのだろうか。しかし口に含んだモーモーミルクを驚きのあまり噴き出したなんて知られたら、その友人はともかくもう一人にとんでもなく笑われそうだ。あとでコトネに口止めしておかなければ、とシルバーは一人決意する。 コトネのヘルプを受けて、キッチンで夕食の準備をしていたコトネの母親が「あらあら」と笑う声が聞こえてきた。どうやらそのまま濡れた布巾をパスしたらしい。わっと驚くコトネの声に続いて、彼女の「ナイスキャッチ!」という茶目っ気のある高い声が続く。 洗面所で軽く水洗いだけしたカットソーを洗濯機に入れ、キッチンへ戻ると、テーブルの上はコトネにより綺麗に片付けられた後だった。コトネの母親が新しいモーモーミルクを持ってきて、減った分を注ぎ足してくれている。 「あはは! シルバー、あんなに驚くなんて!」 「いやそりゃ驚くだろ! あ、注ぎ足しありがとうございます。もったいないことをして……すみません」 「いいのよ、気にしないでー。賞味期限が近いから、たくさん飲んでくれると私も嬉しいわ」 ふわふわとした笑い方。本当に「気にしていない」ことが分かる優しい声。シルバーはクリスにもコトネにもこの女性にも天使を見ようとは思わないが……ただまあ、全く血の繋がっていない自分に対してこの女性が向けてくる慈愛めいたものは、天使に類するものと形容しても差し支えないような気がした。 「コトネも」 「え?」 「テーブル、拭いてくれたろ」 「ああ気にしないで! 多分私が原因なんだろうし」 「Nとトウコには話してくれるなよ」 「ふふ、分かった! じゃあ私とシルバーとお母さんだけの秘密にしようね」 同意を求められたコトネの母は「ええもちろん」と流れるように同意してみせた。押しつけがましくない優しさと、人並みの茶目っ気と、我が子に向けられる当然の慈愛。これほどまでに「おかあさん」を極めた人をシルバーは他に知らなかった。 ジョウトとカントーでの旅を終え、身寄りのないシルバーをこの家に連れ込み「お前の人生をこの家に縫い付けてやる」と(ここまで勇んだ口調ではなかったが)コトネに宣言され、揃いのリングを薬指に嵌めるようになってから早数年。 彼女の母ともそれなりに打ち解けたつもりだったが、やはり面倒を見られているという申し訳なさが完全になくなることはなく、故にシルバーがこの女性に向き合うときには、いつもの毒気をすべて抜き去った、精神的に無防備な状態になるというのが常であった。 最初のうちは、他人の家に居座ることへの居心地の悪さが強すぎて、何かと理由を付けてはこの町を出て長く戻らない日々が続いた。 修行の旅に、冒険にと、この家を不在にする理由なんて山ほどあった。それでも旅と旅の合間に、ふらっと立ち寄りすべての荷物を下ろせる場所が出来たことは本当に有難いことだ。何よりこの家のドアを開けるたびに、彼女は迷惑そうな顔を決して見せず「おかえりなさい!」と笑って出迎えてくれるのだ。立ち寄る連絡などしていないにもかかわらず、コトネと全く同じタイミングで全く同じ内容の夕飯を出してくれるのだ。 絆されるな、という方が無理な話だろう。 「私もモーモーミルク飲もうかな。お母さーん!」 「はいはい、たっぷり入れてあげる。本当に助かるわ、今日までにあと2本飲み終えなくちゃいけないから」 「え、は? まだあと2本あるんですか!?」 「みんなであと4L、頑張りましょうね」 「いや流石にそれは無理だよ!」 彼等の厚意にすっかり絆されたシルバーは、彼等の愛情を受け取るまいとすることをやめた。代わりに返せる範囲で返していくことにした。この間まで赤の他人であった相手が、無償の愛を与え続けてくれることなど在り得ない、というのはシルバーの自論である。少なくともその無償の愛をただ受け取るだけの存在にはなりたくないと思っている。 だからシルバーは「律儀だなあ」と笑われようとも、些末な親切にさえお礼や会釈を欠かさない。当然のように用意されるシルバーの衣食住に要しているであろう費用、その支払いをひと月たりとも欠かしたことがない。 自身にはもったいないほどの幸福と安寧を「当然のもの」などと間違っても思ったりしないようにと、彼はずっとずっと、繰り返している。 「えーっと、それで? お前は自分の姉を天使と見紛うくらいに溺愛してるってことでいいのか」 マグカップにこぼれそうなほどたっぷりと注がれたモーモーミルクを慎重に運んできたコトネは、ずずっと少量だけ啜るようにして飲んでから顔を上げた。シルバーの言葉を受けて、琥珀色の目を見開く。ぱち、ぱちと繰り返される瞬きは忙しない日食のようだ。 深い太陽の色をした目。彼女の母親にも、姉にも、弟にも似ていない、刺すような神秘性を孕んだ目。 「あれっそんなこと言った? 天使ってお姉ちゃんのことだよ、とは確かに言ったけど」 「いや……何だ? 俺は例えの話をしようとしているんだが?」 「例え? 変なの! シルバーが天使について知りたがっているみたいだったから、教えてあげただけなのに」 あ、と声に出す代わりにシルバーは息を止めた。急に挟まれた沈黙に、キッチンで調理器具を洗っていたと思しきあの人の手が止まりかける。 マズい。不審がられてはいけない。気付かれてはいけない。 「へえ、そうか、うん、なるほどな」 そうかあの人は天使だったのか、という顔を作る。あからさまな動揺を表に出さず、さも納得していますというような、呆れと安堵の混ざった表情で肩の力を抜いてみせる。 しかし顔で平静を作っても内側での混乱は最早どうしようもなく、背中に氷をひとつ落とす悪戯をされたときのような、ぞっとする感覚がシルバーの全身に駆け巡った。くらくらと眩暈がする。息が浅くなる。 この息苦しさは秘密にしておかなければいけないことだとシルバーは確信していた。Nやトウコには当然ながら話せないことだ。そしてきっとコトネの母親にさえ知られてはいけないことだ。 モーモーミルクを噴き出して服とテーブルを汚した、そんな些事よりもずっと深く重たい秘密を、コトネはなんて事のないように投げ渡してくる。鉛のように重たい秘密の箱。じっくりと検分する必要があるブラックボックス。しかしこの場にコトネの母がいる今、シルバーはその箱に手をかけることがまだ許されていない。まだこの箱を開くべきではない。 シルバーの沈黙を肯定するように、コトネは太陽の目をすっと細める。華奢な肩を少し竦めつつ、口の形だけで伝えてくる。 またあとで コトネとの間にごく稀に生じるこの空気感が恐ろしい。冗談みたいなことが、冗談とは思えないような声色と表情で飛んでくるから。おかしいのは自分の方なのではと疑いたくなるから。自分にとっての普通が、実は精密な世界の調整により成り立つ危なっかしいものであることに、いつ掻き消えてもおかしくない霞のようなものであったことに、気付かされてしまうから。 インターホンが鳴る。はーいと柔らかい声でコトネの母が玄関に駆けていく。ドアを開けるや否や「あら」と嬉しそうに声を弾ませて外へ出ていく。ドアが閉まる直前、ビニール袋のガサッという音が聞こえた。どうやら近所に住む顔馴染みの誰かが、自身たちでは消費しきれない食べ物の何らかを「お裾分け」に来たらしい。 お裾分けからの談笑はきっと10分以上続くと判断して、シルバーは改めてコトネに向き直る。 10分。鉛の小箱の中を検分するには十分な時間だろう。