彼女を、止められなかった。
『アクロマさんは、かけがえのない誰かに出会ったことがありますか?』
アクロマは、数か月前に貰った手紙を読み返していた。
ヒオウギの研究所で出会った、若干12歳の幼い少女との出会いは春にまで遡る。
彼はその少女と時間を重ねていた。重ね過ぎていた。だからこそ、今の彼女が置かれている状況が手に取るように分かってしまうのだ。
とても心の優しい少女だった。
それに救われたのは他でもないアクロマであり、彼女はそうした、他人の為に自らの心を捧げることを厭わない人間だった。
もっとも少女は、それ以上のものを自分に見出してくれていたようである。そして、それはアクロマも同じだった。
二人とも、明言こそしなかったが、互いに互いのことを想っていたのだ。
それは強い信頼に似ていたのかもしれない。共に生きる同士に似たものなのかもしれない。それ以上に大きな何かかもしれない。
あるいは彼女の言う「かけがえのない存在」であるのかもしれない。
そこまで考えてアクロマは首を振った。それは殆ど確信に近いものだったからだ。
自分はあの少女のことが大切だった。おそらくは、誰よりも大切だった。
自分を救ってくれた少女のことをアクロマは同じように支え、更にはその少女に抱かれたのと同じ感情を、彼女にも抱いていたのだ。
『では、きっとわたし達は似ているのですね。
ですからこう考えてください。貴方がわたしを思っているように、わたしも貴方を思っているのだと』
いつかの自分の言葉を思い出し、アクロマは苦笑した。
自分と彼女は驚く程によく似ている。ただ少しだけあの少女は、自分よりも勇敢で、努力家で、そして欲張りだった。
彼女はその心を、きっと彼女と関わる全てのものに捧げていたのだろう。
その対象が、彼女にとっての「かけがえのない存在」でないにもかかわらず、欲張りな彼女は手を伸ばすのだ。
それは同じ時期にヒオウギを旅立った、幼馴染の少年に対してだったのかもしれない。
もしくはプラズマ団によって引き離されようとしている人とポケモンに対してだったのかもしれない。
あるいはその組織によって氷漬けにされた、イッシュの町に対してだったのかもしれない。
彼女の言う「必ず誰かが苦しまなければならないようになっている、この理不尽な世界」に対してだったのかもしれない。
そしてあろうことか彼女は、そうした感情を、自らを殺そうとした存在に対しても抱こうとしている。
『シアさん。貴方にとってヒュウという幼馴染は、「かけがえのない存在」ですか?』
『……いいえ、違います』
『でも、放っておけない。そうした思いは、間違っている訳ではありません。
世の中には、その人に「かけがえのない存在」を見出している訳ではないにもかかわらず、その人に手を貸したい、その人を支えたいとする複雑な思いが確かにあるのですよ。
そしてシアさん、貴方はそうした思いを抱く傾向が強いようだ』
かけがえのない存在ではないけれど、放っておけない、力になりたい。助けてあげたい。
彼女はどこまでも優しく誠実で、そして欲張りだった。
『その思いに、名前はありますか?』
『……ええ、ありますよ。けれどわたしは貴方にそれを教えたくありません』
『どうしてですか?』
『貴方が、その言葉に飲まれてしまうかもしれないからです』
ホドモエシティでの会話を思い出し、アクロマは悲しげに眉をひそめた。
もしくはあの時に正しい答えを教えていればよかったのかもしれない。あの時に正しく忠告していれば、何かが変わっていたのかもしれない。
「どうか、絆されないでください」
そう言っていれば、彼女を止められたのかもしれない。
それとも、とアクロマは思う。自分では彼女を止められなかったのだろうか。自分には彼女を止める権利などなかったのだろうか。
昨日の少女が口にした言葉を思い出し、彼は小さく溜め息を吐いた。
『ゲーチスさんに、会いました』
ダークトリニティが、彼女にゲーチスの居場所を教えたらしい。……彼女は彼を見てどう思ったのだろう。
殺されかけた恐怖も癒えないままに、ほんの少しの寒さでも青ざめた表情を見せる彼女が、彼の元へと足を運ぶのは危険極まりないことであるように感じられた。
彼女のことを考えるなら、無理矢理にでも止めるべきだったのかもしれない。
神経を擦り減らしながら、それでも彼の元へ赴く彼女を、止められるとしたら、それは自分だけだったのかもしれない。
しかし、アクロマは少女を止めることができなかった。
それはかつて、彼が少女に贈った言葉が起因していた。自分の振りかざした正義への呵責に苛まれていた彼女に、アクロマはこんな言葉を紡いだのだ。
『迷ってもいいんですよ。悩んでもいい。それは悪いことではありませんから。
その迷いに答えが出なかったとして、それは当たり前のことなのですよ。世の中にはそうした問いの方が遥かに多いのですから』
答えなどない問題の方が多い。
それは彼女よりも十数年、年を多く重ねた大人が持ち得た優しい諦念だったのかもしれない。
それと同じものを、自分の半分程しか生きていない彼女に差し出すのは酷だったのかもしれない。
けれど彼女はそれを噛み締めていた。その言葉を受け取り、涙を止めた。
『シアさん、もう、貴方の旅を脅かすものは何もないのですよ。
貴方とポケモンを引き離そうとする組織も、貴方に危害を加えようとする人物も、もうその力を失っているのですから。
貴方は自由に、思うままに生きることができるのですよ』
『……自由、に』
『シアさん、貴方はどうしたいですか?』
アクロマは、すでに彼女の背中を押してしまっていたのだ。
自らの自由を自覚した彼女が、その思案の結果にゲーチスの元を訪れてしまったとして、アクロマにそれを止める権利はなかったのだ。
彼女に起こる未来を確信していながら、彼はただ笑って、彼女に「間違っていない」と紡ぐしかなかったのだ。
この少女はいつか、あの男に絆されるだろう。分かっていた。分かっていながら、止められなかった。
アクロマは机の引き出しを開けて、先程の手紙にもう一度目を落とす。
離れた二人を、彼女の活字が繋いでくれていた。
真っ白の便箋の上で踊る、彼女らしい、濃い筆圧のしっかりとした美しい字が、どれ程アクロマを支えたか、きっと彼女は知らないのだろう。
毎日のように出会い、あの頃のように話をしている今でさえも、こうして彼女からの手紙を読み返していることを、彼女は知らない。知るはずがない。
『私は今まで、そうした存在を持つことは、とても幸せなことだと思っていました。
しかしそれは、必ずしも幸福なことばかりではないのだと、私はこの旅で知りました。
かけがえのない存在だからこそ、その存在が脅かされた時、彼等は盲目となります。それは凄まじい憤りを引き起こす火種にもなり得ます。
大切だという思いが過ぎて、それが彼等の足枷となっているようにも感じられました。
けれど、それでも彼等はかけがえのない存在を想うことを止めません。自らが怒り、傷付き、苦しんでも、それでも彼等は大切だと紡ぐのです。
だからこそ、その思いは素敵な輝きと温かさを持っているのだと、私は思います』
その言葉を、そっと指でなぞる。
どうか、彼女がその優しさに押し潰されませんように。
2014.12.13