5

冬は火傷をしそうな程に、人の温かさを感じる時が、確かに存在するらしい。

私は瞬きをした。目が痛くなる程に繰り返して、それでも目の前の光景は変わらない。
ようやく事実を事実だと信じられた私は、ぎこちない笑顔を彼に向けた。

「お口に、合いましたか?」

いかりまんじゅうの包みが、机に無造作に置かれたままになっていた。

「ジョウト地方で売られている名産品なんです。甘いもの、嫌いじゃなかったんですね。よかった」

「……」

「また、机を借りてもいいですか?」

怖くない。怖くない。なるべく自然に笑顔を作る。
やはり彼は私を一瞥しただけで、何も言わない。それでいい気がした。

スケッチブックを広げ、昨日の続きにペンを入れていく。
木にマメパトが並んでとまっている。あまりにもその様子が可愛いので、彼等も絵に収めようと描き足していく。
すると、強く吹き付けた風に驚いたのか、そのマメパトが一斉に飛び立った。
小さな翼で大きな空を飛んでいく。とても気持ちよさそうだった。
私は窓に駆け寄り、彼等の飛んでいった空を見上げた。

「小さい頃、翼が欲しいってサンタクロースにお願いしたことがあるんです」

徐にそう紡ぐ。後ろでいつものように本を読んでいるのであろう、ゲーチスさんの顔を確認することはしない。
聞いてくれているかもしれないし、聞いていないかもしれない。どちらでもよかった。

あの時のお母さんの困惑した表情は、今でも覚えている。
どうしてそんな表情をするのか分からず、首を傾げた私に、お母さんは「うーん、それはちょっと無理かな」と言って、その戸惑いを誤魔化すように笑った。
サンタクロースの正体を知らないが故の笑い話だった。一瞥して、また手元の本に視線を落とすのだろうと思っていた。
その口元が、拙い話に緩んでいればいい。そうでなければ、しかしそれはそれでいい。そう思っていた。しかし、

「叶わないことを平気で言えるのは、無知な子供の特権だ」

息が、止まる。
その声音は、あの夏の日に聞いた、彼のそれと同じ声のはずで、けれども全く違っていた。
寒い洞窟の奥に轟いたあの声、私を殺そうとしたあの声。あの声のような力強さが、鋭さが、何処にもなかった。
驚き、弾かれたように振り返れば、彼は手元の本に視線を落としていた。しかしその顔が、僅かに上げられ、私を見据える。

私の拙い頭は、なんとかして次の会話を捻り出すために必死に思考を巡らせようとする。この人との間に生まれる沈黙は、とても恐ろしくて、苦手だ。
けれどもそれは、私が知恵を絞らずとも、私の底から引きずり出されるように、予め用意されていた言葉のように、紡がれた。

「でも今は、クロバットが私を空へ運んでくれます」

「……」

「ポケモンが、私の守った世界が、私に翼をくれます」

彼の顔を見られなくなった。慌ててスケッチブックに視線を落とす。
マメパトはまだそこに留まっていたので、私は震える手で気兼ねなく続きを描くことができた。

また来ますね、と言い、扉を閉める。
やはり力が抜け、しかし今度は崩れ落ちる前に、ダークさんが腕を掴んでくれた。

「……」

「どうした」

言いたいことは、沢山あった。
彼の前ではもうポケモンの話はしない方が良いのか、とか、もう来るなと言われたらどうしよう、とか、私はまだ彼が怖いみたいだ、とか。
しかし私はやはり微笑む。

「ゲーチスさん、いかりまんじゅうを食べてくれていたんです」

良かった、と笑う私に、ダークさんは呆れた表情を見せた。
しかし家を出る前に、彼は思い出したように言葉を紡ぐ。

「嫌いではないようだ」

「?」

「……だから、いかりまんじゅうを」

私の笑顔からぎこちなさが消えたのは、言うまでもないことだ。

さく、さく、と枯れ葉を踏む音が響く。
この樹海を今まで知らなかった私は、訪問のついでにこの近辺を散策することにした。
人の手が殆ど入っていないので、適当に道無き道を進んでいく。
生きることを諦めた人のための場所、野生のポケモンが激しい縄張り争いを繰り広げている戦場、霊的な何かが棲みついていて、一度入ったら出られなくなる迷宮。
そんな噂とは裏腹に、この樹海はとても静かで、小さな鳥ポケモン達の鳴き声や、葉の擦れる音が僅かに鼓膜を揺らす、優しい場所だった。

この一帯に生えている木は落葉樹が多い。雨が降るかのように赤や黄色の葉がひらひらと落ちてくる。
それがまた、楽しさを一層掻き立てた。
ざあっと落ち葉を巻き上げていく冷たい旋風、その美しい光景に見とれる。

「!」

しかし肌を突き刺した冷気に、一瞬で血の気が引いた。唐突に、ほんの小さな刺激で訪れるフラッシュバック。
震える手で、肩を強く抱いた。

「大丈夫」

大丈夫。
此処には彼はいない。いたとして、もう彼は私に危害を加えたりしない。

怖くないと言い聞かせてきた。大丈夫だと唱えてきた。
それは洗脳のように私の身体を支配し、彼の前で笑顔を作る私を生み出す。
それ程までに神経を擦り減らしながら、それでも私は、きっと明日もあの場所へ向かうのだろう。

そうまでして、何故、私は彼の元へと足を運ぼうとしているのだろう。
あのひどく恐ろしくて、とても悲しい彼の元へ、どうして私は赴いているのだろう。
何故、私はあの許せない人に悲しさを見出したのだろう。

夏のあの日に見た、私が恐怖を抱いた彼のことを、私はもう、はっきりと思い出すことができずにいた。
今の彼は、その目や髪の色こそ同じだったが、全く違う彼の姿だったのだ。
顔色は驚く程に悪く、今にも凍り付いてしまいそうだった。頬はこけていて、目の下には分厚い隈が彫られていた。
ベッドに上半身を起こした、その布団に伏せられた手は枯れ木のように細かった。
私はこの人に殺されようとしていたのだろうか?
その確かな事実が信じられない程に、今の彼は弱々しく、その目は完全に力を失っていた。

死んでしまうのではないかと、思った。そして、それはひどく悲しいことなのではないかと思ったのだ。
だからなのだろう。私が恐怖に苛まれながらも、彼も元へと足を運ぶのは。許せないはずのあの人に、悲しさを見出してしまったのは。

「……次は、」

私は呟いて、笑った。笑えば、不安も恐怖もなかったことにできるような気がしたのだ。

「フエンせんべいをお土産にしようかな」

2012.11.24
2014.12.11(修正)

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