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クロバットの入ったボールを勢いよく投げ、その背中に乗って飛び立った。
素早さに自信のある彼は物凄いスピードで宙を駆ける。
まさか、どうして予測できただろう? こんな近くに「彼」がいたなんて、どうして想像できただろう?
灯台下暗しとはこのことかもしれないと、私はヒオウギの西にある樹海を飛びながらそんなことを思った。

この樹海は、大人達に「危ないから入ってはいけない」と言われていた場所だった。
生きることを諦めた人のための場所、野生のポケモンが激しい縄張り争いを繰り広げている戦場、霊的な何かが棲みついていて、一度入ったら出られなくなる迷宮。
そんな様々な噂が、私が小さな頃からずっと飛び交っていた。
それらを鵜呑みにしていた私は、潜在的にこの樹海に踏み入ることを避けていたのだろう。

けれど私はその樹海の中に、一軒の家を見つけてしまった。
クロバットに降りるように促して、樹海に降り立つ。開いていたドアから中へ入った。
玄関に靴を脱ぎ捨てて駆け出した。一番奥のドアを、迷わずに開けた。

その赤い目は、真っ直ぐに私を見据えていた。

「ゲーチスさん」

震える声で紡いだ自分のそれを、私は他人事のように聞いていた。

足は動かない。私を支配したのは恐怖だった。
安全ではないと心得ていたはずの旅で、初めて「死」を覚悟したあの一瞬が脳裏を過ぎる。それは確かに私に刻まれたトラウマだった。
しかし「大丈夫」だと、私はそう言い聞かせてみた。

キュレムはもう彼の元にいない。プラズマ団員も多くは散り散りになってしまった。
圧倒的な力を失った彼と向き合うことは、そう難しいことではないはずだった。
大丈夫。……大丈夫。そう唱えながら、私は一歩、二歩、踏み出した。

「……」

夏のあの日に見た、記憶の中の彼を思い出す。
その目や髪の色こそ同じだったが、全く違う彼の姿がそこにあったのだ。
顔色は驚く程に悪く、今にも凍り付いてしまいそうだ。頬はこけていて、目の下には分厚い隈が彫られている。
ベッドに上半身を起こした、その布団に伏せられた手は枯れ木のように細い。

私はこの人に殺されようとしていたのだろうか?その事実が信じられない程に、今の彼は弱々しく、その目は完全に力を失っていた。
だから私は、そんな言葉を紡ぐことができたのだと思う。

「此処にいたんですね。よかった」

冷たい床に崩れ、声を殺して泣いた。

私は彼に会いたかったのだ。彼をずっと、探していたのだ。
それは、Nさんに居場所を教える為でも、警察に突き出す為でもない。他ならぬ私の為だった。
会わなければ、前に進めない気がした。

プラズマ団は姿を消し、代わりにポケモンと向き合おうという前向きな風潮が今のイッシュに浸透して随分経つ。
町ではポケモンをモンスターボールから出して連れ歩く人が増えた。
それらの声が一様に明るいものになりつつあることに、Nさんは本当に喜んでいる。

「行ってきます」

青いダッフルコートを羽織って、家を出た。
クロバットの背に乗って、飛び立つ。朝の冷たい空気が肌を突き刺す。彼はヒオウギの西に広がる樹海へと向かう。
およそ3分で、小さな屋根が見えてくる。その家のドアを小さくノックすれば、ダークさんの1人が顔を出した。

「来たのか」

私は笑う。

「はい、来ちゃいました」

分かっていたんでしょう?
無口な彼の目は雄弁だった。大丈夫、と頷けば、黙って屋内に招かれる。

彼は、分かっていたのだろう。私がまた来ることを、そのために居場所を知りたがっていたことを。
Nさんに知らせる為でも、警察に突き出す為でもない。誰にも言わない。そんな事の為に彼を探していた訳じゃない。
それを分かっていたから、彼は私に口を割ったのだろう。
私は廊下の奥の扉を開ける。

「おはようございます」

ベッドに上体を起こし、手元の本に落としていたその視線が一瞬だけこちらに向けられ、しかし直ぐに落とされた。
何も言わない。それでいい気がした。
彼の隣にはもう一人のダークさんが立っていた。私はその彼が勧めてくれた椅子に座る前に、鞄から箱を取り出した。

「あの、……これ、ジョウト地方のいかりまんじゅうです。よかったら、ダークさん達と一緒に食べてください」

8個入りのお土産を机に置く。それはロイヤルイッシュ号に乗った際に渡されたものだった。
彼はそれを一瞥し、直ぐに手元の本に視線を戻した。
家具の少ない簡素な部屋で、ページを捲る乾いた音がやけに響く。

「静かな場所ですね」

「……」

「こんな場所が近くにあるなんて、知りませんでした」

読書の邪魔をしてごめんなさい、と付け足し、沈黙を落とす。彼は黙って、またページを捲った。
ダークさんがやってきて、甘い匂いのするマグカップを持って来た。湯気が立っているココアを、お礼を言って受け取る。
私は箱からゲーチスさんの分のいかりまんじゅうを2つ取り出して机に置き、6つ入った箱ごとダークさんに手渡した。
1人2個ですよと付け足せば、そんなに食い意地は張っていないと呆れたように言われてしまった。
その口から短く紡がれたお礼の言葉に、自然と顔が綻む。

彼はベッドから全く動かない。
ずっと視線は手元の本に落とされていて、しかし時折、思い出したように、開け放たれた窓を身遣る。
マメパトの群れが遠くの空を飛んでいた。
早朝には霜が降りていた地面の草も、登った太陽により鮮やかさを取り戻しつつある。

綺麗だ。そう思った瞬間、私の手は鞄の底に伸びていた。
それはこの重い沈黙を、押し潰されそうな質量を持った沈黙を誤魔化すための、苦し紛れの策だったのかもしれない。
それでもよかった。私はこの恐ろしい人から逃げてはいけないのだ。その為なら、これくらいの小道具は許される気がした。

「ゲーチスさん、机を借りてもいいですか?」

スケッチブックを取り出して、そっと彼の名前を呼ぶ。

パタン、と扉を閉める。
途端に力が抜けて、冷たい廊下に座り込んでしまった。
一体どれくらいの間、私はあの部屋にいたのだろう。30分だろうか、1時間だろうか。
震える手でライブキャスターを取り出せば、時計は正午を示していた。2時間近く、あの椅子に座っていたらしい。
何処からともなく現れたダークさんが、無表情で私を見下ろしていた。

「立てるか?」

「……今は、無理です」

乾いた私の笑いが廊下に響く、
……あの部屋で、別段、何をしていたという訳でもないのだ。
ただ窓から見える景色をスケッチブックに写して、マグカップの中身を飲み干し、また来ますと言って部屋を出た。
ただそれだけ。それなのに手は震え、足は力を失って使いものにならない。

「ゲーチス様はもうお前に危害を加えたりしない」

ダークさんが屈んで、私と同じ目線でそう呟いた。
何故かせきを切ったように溢れ出す涙に私は勿論、ダークさんも当惑する。

「あ、あれ。どうして」

止まらない。

脳裏に何度も点滅するのは、キュレムと対峙したあの瞬間だ。
死ぬかと思った。死ぬらしい、と覚悟した。それは確かにトラウマとして、私の脳裏にずっと焼き付いていたのだ。
怖い。……怖くて怖くて堪らない。

ああ、それなのに、私は止まりそうにない涙を拭いながら、差し出されたハンカチを受け取って微笑むのだ。

「明日も、来ていいですか?」

2012.11.23
2014.12.8(修正)

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