知られてしまった。
「……どうしました、シアさん」
プラズマフリゲートの甲板で海を見ていたらしい彼は、クロバットから飛び降りた私に振り向いて、そう紡いだ。
まだ、何も話してはいない筈なのに、彼は何もかもを把握しているかのようにそう尋ねるのだ。私は肩を竦めて笑ってみせた。
「どうして、解るんですか?」
どうして、何かあったと解るんですか。どうして貴方は、私のことを私以上に知っているのですか。
そんな問いかけに、彼も同じように肩を竦めて微笑み、私に歩み寄る。ふわりと紅茶の甘い香りがして、泣きそうになった。
「貴方はとても解りやすいですから。今だって、顔に書いてありますよ」
「……そう、ですか」
「というのは、理由の半分にすぎません」
楽しそうに付け足した彼に私は首を傾げる。そして、ああ、そうだったと納得する。
私は、この人が次に紡ぐであろう言葉を知っている。私達の中に宿った共鳴の等式を、私も彼も大事に抱えている。
それは彼が紡いだ優しい言葉だったけれど、紛れもない真実だった。
『では、きっとわたし達は似ているのですね。ですからこう考えてください。貴方がわたしを思っているように、わたしも貴方を思っているのだと』
私が彼と同じ目線に立てる、などと思い上がったことを考えている訳ではない。この人と同じ世界を共有することは、とても難しいことのように感じられていた。
彼は私よりもおよそ倍の長さを生きていて、私の何倍も広い世界を見ているのだ。
けれど、そんな彼と私の思いは、時に共鳴する。その尊さを私は知っている。
「言ったでしょう? わたし達は似ているのだと」そう紡いだ彼は私の頭をそっと撫でた。
それに縋り付いてしまった私はつまり、彼との時間を重ね過ぎてしまったのだろう。
それは果たして、許されることなのだろうか。
彼はきっと、許してくれる。彼はそうした、何処までも優しい人だった。彼が私のことを知ってくれているように、私も彼のことを知っていたのだ。
彼は許してくれる。けれど私は、許せるだろうか。私はまだその確信が持てない。
*
苺の香りのする紅茶に、角砂糖を一つだけ落とす。
何の模様もない、真っ白な陶器のティーセット。茶葉の缶を開けた時の、ふわりと漂う強い芳香。涙が出る程、安心する。私はこの時間に甘えている。
「毎日、ホウエンまで向かうのは大変でしょう。疲れてはいませんか?」
「それは大丈夫ですよ、私のクロバットなら1時間もかかりませんから」
アクロマさんのことを、恐ろしいと思ったことはおそらく一度もなかった。
彼はいつだって私に誠実で優しかったし、私もそんな彼に対して誠実であろうと努めたからだ。
彼に恐怖を抱いたことも、彼との会話に気まずさを見出したことも、一度もない。
ゲーチスさんとの会話を苦手とするように、彼との会話に緊張した心地で挑んだことなど、一度もない。
けれど時折、私の心臓は普段とは違う揺れを見せる。
それは彼の白衣から漂う紅茶の香りに気付いた時であったり、優しい笑顔を湛えて私の頭をそっと撫でてくれた時であったり、
または強く縋り付いた私の背中に手を回して、同じように強い力を込めてくれた時であったりした。
その現象が意味するところに私は辿り着けていなかった。彼なら知っているのかもしれないが、それを尋ねたことは一度もなかった。
「彼に、知られてしまったんです。私が、未だに怖がっていたこと」
私はそう切り出した。本当は一番にこのことを伝えたかったのだ。そして、それを彼も把握していた。
把握していながら、私が話を切り出すための心の準備が整うまで、待ってくれていたのだ。
「もう怖くない筈の彼のことを、私は未だに怖いと思う時があるんです。あの日のことが忘れられないんです。……そんな自分が少し、情けなくて」
「……それは、貴方だけのせいですか?」
彼はそんなことを言って、私の額にそっと手を添えた。私は息を飲んだ。
ガラスの破片で切られたその小さな傷は、もうかなり薄くなってきてはいるものの、しっかりとその存在を主張していた。
額に目立つ傷を付けて現れた私を見た時の、彼のあの表情が今でも忘れられない。
彼は何かを悔いるように、まるで自分を責めるように、怪我をした私よりも余程痛々しい笑顔を浮かべてみせたのだ。
彼は知っていたのだろう。この傷が誰に付けられたものであるのかを。私は言わない、彼も聞かない。けれど間違いなく、知っている。
そうでなければ、あんな顔をする理由が見つからない。
「シアさん、貴方がゲーチスのところへ通っていたのは、彼を死なせたくなかったからでしたね」
「……はい」
「今は、どうですか? 彼は然るべき医療機関に入院し、体調も好転しているようです。彼に生きるという選択をさせたのは、間違いなく貴方でしょう」
その言葉には「それでも、貴方が恐れる彼のところへと足を運び続ける、その理由は一体、何ですか?」という問いが言外に含まれているように思われた。
そして、その直感はきっと正しいのだろう。
「私は、彼等から多くのものを奪いました。私の正義が、誰かを苦しめていました。
私にはこの理不尽な世界を変える力はないけれど、でもせめて、私が苦しめた相手への責任くらいは自分で取りたいと思ったんです」
「だからといって、貴方がそこまで苦しまなければいけない理由は何処にもありません。前にも言いましたが、世の中には答えなどない問題の方が多いのですよ。
彼等が傷付き、多くのものを奪われたことを、全て貴方だけの責任だとするのはあまりにも傲慢だと思いませんか?」
彼の語気が僅かに強くなっていることに気付いた私は、沈黙した。
その通りだ、私は傲慢だった。思い上がっていた。
けれど傲慢だから、思い上がっているからと自らの手を引っ込めていたなら、あの人は死んでしまっていた。
「きっと私は、欲張りなんですね」
そして私は、考える。
もし今、彼への訪問を止めて、前のような日常に戻ったならどうなるだろう、と。
アクロマさんと一緒にこうして紅茶を飲みながら、難しい本の中に広がる世界に思いを馳せ、幸せな時間を共有し続けることができただろうか、と。
無理だ、と思った。無理だったのだ。その優しい時間に身を委ねることができないからこそ、私は彼を探そうとしていたのだから。
私がその優しい時間を取り戻すことを、私が振りかざした拙い正義は許さなかったのだから。
「私の為です」
「シアさん」
「ゲーチスさんの為じゃありません。プラズマ団の皆さんの為でも、ダークさんの為でもありません。
私の為です。私に、必要なことだったんです。だってそうしないと私は前に進めないから。そうして初めて、貴方との時間が何より幸せだって言える筈だから」
私は責任の取り方を探していた。その方法が、私が多くを奪った彼の傍でなら見つかるかもしれないと思ったのだ。
そこに至る過程で私が彼に傷付けられたとして、それは当然のことだったのだ。
そしてアクロマさんは、そんな遠回りをする私を咎めないと、知っている。優しく微笑み、待ってくれると信じている。私は彼に甘えている。
だからこそ、私はそんな欲張りな思いのままに歩き出すことができたのだ。
彼は静かに、困ったような微笑みを浮かべてから、私の頭をそっと撫でる。
「シアさん、わたしのことを好きですか?」
息を飲んだ。それはあまりにも彼に似合わない問い掛けであるように感じられたからだ。
けれど私は躊躇わなかった。
「好きです、大好きです」
それは偽りない私の本心だった。この人のことは大切だ。きっと何よりも、誰よりも。
すると彼は私をあやすようにそっと抱き締めた。ゆるゆると髪をとかれ、私は思わず目を閉じる。
「わたしも、貴方のことが好きですよ」
私は思わず顔を上げた。そして、微笑んだ。それはとても幸せなことのように感じられたからだ。私達は本当によく似ていたのだ。
『では、きっとわたし達は似ているのですね。ですからこう考えてください。貴方がわたしを思っているように、わたしも貴方を思っているのだと』
あの言葉を私は大事に抱きかかえていた。そんな私は、気付かなかった。
彼の目が不自然に揺れていたことに。私のそれと彼のそれとは、似ているようで全く似ていなかったことに。
「わたしも、あの頃のように憂いなく、貴方と紅茶を飲みたいと思っています」
「!」
「今、わたしが貴方にできることがないのでしたら、せめて貴方の拠り所であれるようにしておきましょう。
ですからシアさん、もう迷わなくていいんですよ。貴方は間違っていません。仮に間違っていたとしても、わたしが支えます」
いつかのように彼は笑った。私も同じように笑って、そして気付いた。
彼があの時と同じ顔をしていることに、笑顔だと思っていたその中に、隠しきれない不安と焦りがあったことに。
ごめんなさい、と紡ごうとした私の口を、彼は白い手袋を嵌めた手でそっと塞ぎ、笑った。
2015.1.12