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月の始まり、夜明け頃。この地を必ず訪れる人影がある。息を弾ませながら駆けて来たその姿は、まだ幼い。

それもそのはず、「彼女」はまだ12才だ。
その年齢にしてプラズマ団を解散に追い込み、新しいチャンピオンに名を残す実力を持つ。
ポケモンワールドトーナメントにも積極的に参加しており、彼女の連勝記録は未だ破られていない。
そんな少女。誰もが憧れる立場をほしいままにしている少女。高揚と歓喜と幸福の絶頂に在ると誰もが思っていた、少女。
人は彼女を「小さな英雄」とも「イッシュの明るい太陽」とも「幼い救世主」とも呼ぶ。彼女を装飾する言葉は眩しく明るく、煌めいている。
彼女はそのまま、その名声の上に佇み続けることだってできる。笑顔を絶やさず、その幼さ故の飽くなき好奇心のままに、楽しいことだけをずっと、ずっと繰り返すこともできる。
彼女ならそれが許される。許されてしまう。

けれども彼女は時折、表舞台から姿を消し、このセッカシティにやって来る。彼女が好むものなど何もなさそうに思える、この涼しい山間の町に、月に一度の頻度で通ってくる。
相変わらず、泣きそうな顔をして。今にも「ごめんなさい」と泣き崩れそうな、痛切な眉の下げ方をして。細く吐き出す息すら震えていると思わせる頼りなさで。

「私達と戦え」

3人の男はそうした少女を歓迎する。少女は頷く。その小さな手の中に在るハイパーボールがサイドスローで勢いよく飛んでくる。
それは新しい月の始まりを告げる儀式であり、少女が受け続けることを選んだ「罰」であった。

前回と同じように戦い、同じように敗れた。3人の男が少女を負かしたことは一度もない。
日々、強さを増していくこの少女が、脅迫的とも思える熱意で特訓を続けているこの少女が、彼等に敗れることなど、もう在り得ない。
そんなところまで来てしまっている。この儀式が、この罰が、もう何の意味もなさないところまで来てしまっている。
それでも3人の影は戦いを止めない。それでも少女は罰を受けることを躊躇わない。

そうして鬱屈とした時間は、3人の影が冷たい風に押し流されるようにして消えるまで続いたはずだった。
……そう、あとは3人が姿を消すだけで「いつも」が完成されるはずであった。
けれども少女は「待って」と、最初に戦った男の腕を強く掴み、短い爪を食い込ませるようにして引き留めた。

「行かないでください」

その声は無敗のトレーナーにおおよそ相応しくない、細く静かな音であった。
しかし地の底を這うような、苦さと重さを感じさせる、今まさに命を絶とうとしている老人の喉から零れ出たような響きでもあった。

「私はこれまで、貴方達のやりたいことに付き合ってきました。だから貴方達はきっと、私のやりたいことにも付き合う義務がある。
それを終えるまで、貴方達は此処からいなくなってはいけない。そんなこと、もう許されない。私がもう、許さない」

「……」

「1回だけでいい、今日だけでいいんです、今日で終わらせるから。だからお願いします、行かないで」

3人は顔を見合わせた。一人が首を捻り、一人が沈黙し、一人は僅かに、頷いた。
バトルに敗れた今、もう此処にいる理由はなかった。だから去った。要件を終えれば即座に姿を消す。それはいつものことだった。
残された少女が何を思っているのかなど、彼等は考えもしなかったのだ。
この時間はただ、3人のために在るものだと、少女は3人のために此処へ通ってくれているのだと、彼等はそのように思っていた。彼等はこの小さな存在に「甘えていた」のだ。

けれども、甘えることをこれまでずっと許してきた少女が「もう許さない」と言っている。ならば従うより他にない。
甘え続けてきたその駄賃として、それくらいはしておくべきだろうと思ったのだ。
やや遅れてまた一人が頷く。更に長く時間を取って最後の一人がやはり頷く。それを見届けてから少女は、初めの一人を掴んでいた手をぱっと放した。
小さな手形と僅かな爪痕が、縋り付くような温かい痛みで一人の影へと絡み付いていた。

「……」

そして少女は思わぬ奇行に出る。冷たい土の上へと膝を折り、ガムテープを取り出して、自らの持っていたボールの開閉口を塞ぎ始めたのだ。
いつも彼女の周りを遊ぶようにくるくると回っていたロトムも、ボールに仕舞った。ダイケンキの入ったボールもガムテープの土色に隠れて見えなくなった。
最後に4枚の翼を持つポケモンの入ったハイパーボールに、もうすっかり慣れてしまったかのような調子で、ガムテープをぐるりと、巻きつけた。

「……何をしている」

一人が尋ねた。彼女が何をしようとしているのか、まるで見当もつかないといった様子であった。

「……トレーナーであることを放棄するつもりか?」

また一人が尋ねた。奇妙な行動に呆れつつも、隙あらば彼女を責め立ててやろうとする様子が見て取れた。

「……」

そして一人は何も言わなかった。踵を僅かに浮かせたその姿勢は、すぐにでも彼女のもとへと駆け寄ってしまいそうな様子に見えなくもなかった。

冷たい土の上に転がった、土色のボール。3つのそれを少女は一つずつ取り上げて、胸元に抱き寄せるようにして、小さく「ありがとう」と囁いて、それからまた、土に戻した。
一人は、やはり彼女が何をしようとしているのか分からなかった。
また一人は、彼女の訳の分からない行動にいよいよ嫌気が差し始めていた。
そして一人は、その行動が、人のするところの「別れの挨拶」のように思われて、浮かせた踵がひやりとする心地を覚えたのだった。

「私が負けたということにしましょう」

それはいつか3人が聞いた、あまりにも凛々しい響きに似ている気がした。
『これ以上、誰かの想いや願いを侮辱するのなら、許さない』
悪意を持つ者を慄然とさせる音、漫然と生きてきた者の背筋を凍らせる旋律。それと全く同じ調べで語られる「取引」めいたその言葉は3人を困惑させた。

「あの人のために何をすべきか、貴方達ならもう、分かっていますよね。……貴方達は、戦う手段を失った今の私に、向けるべき刃があるはずですよね」

一人は益々困惑し、何の冗談だと、何を言おうとしているんだと、混乱と恐怖に自らの思考を落としかけていた。
また一人は合点がいったように息を吐きながら、けれどもそんな彼女に対して何をすることも億劫に思えて、ただ目を伏せて沈黙を貫いた。
そして一人は思わず「ああ」と納得と同意の音を零しながら、それでもそんな選択はいっとう「彼女らしくない」として、すぐ傍に見えている結論に踵を付けることを躊躇っていた。

「受け入れます」

少女は笑った。笑おうとしていた。作った頬の上を水がコロコロと転がり、土色のモンスターボールの上に落ちて弾けた。
人の目から零れる水は、何故だか塩辛い。そして一人はそれを知識として知っていた。また一人はそれをとある女性から聞いて知っていた。一人は、知らなかった。
自らの目、海色をした目、そこから水が溢れていることを認めたくないかのように、少女は両手で乱暴に拭う。拭っても、拭っても、溢れてくる。
頬を滑る。コロコロと落ちる。落ちる。落ちる。

一人は、ああこの少女は我々とゲーチス様のために自らの命を投げ出そうとしているのだ、と気付き、
目の水はもうすぐ自らの命が消えてしまうことへの悲しみと、死ぬという惨たらしい行為への恐怖から溢れているのだろうと推測した。

また一人は、このどうしようもない世界でこれ以上生きていても仕方がないだろうと、少女の選択に共感しつつも、
誰にも負けない強さとさえ呼べるものを持ったこの少女が、よりにもよってこの3人に自らの命の幕引きを任せようとしているという、その選択をひどく哀れに思った。

そして一人は、この少女にとって死ぬことは「償い」の手段であると同時に、彼女にとってはとても卑怯な「逃げ」であることまで勘付きつつ、
その、償いや逃げの結果として訪れる「死」によって、大切な仲間や愛せていたかもしれない誰かと二度と会えなくなることが悲しくて泣いているのだろう、と、推察した。

「私は、誰かが必ず苦しまなければならないようになっている、この虚しい世界の仕組みを、もっと早く受け入れるだったのだと思います。」

けれども、3人のそれはただの推測に過ぎない。
彼等のそれは全て間違っているかもしれないし、一つくらいは当たっているかもしれないが、その答えを知る人間は、少なくとも彼等ではない。
彼女のことを本当に正しく理解できるはずの人間は、彼でも、彼でも、彼でもない。
彼女のことを、おそらくは彼女自身よりもずっと深く理解している人間は、此処にはいない。この寂しく寒い場所に、その海に手を伸べて拭うことのできる人間はいない。

「貴方達はその秩序の中で懸命に生きていたのに、私がそれを掻き乱したんですよね。
私が欲張ってしまったから、大事な皆と一緒にいたいと思ってしまったから、プラズマ団の人達は目的と居場所を失って途方に暮れているんですよね。」

「……誰かに、そう言われたのか」

「いいえ、誰にも。大人は子供を責めたりしません。誰も私を責めません。誰も、私に責任を取らせようとしてくれません。
誰に尋ねても、誰に答えを求めても、私のせいではないって、私は悪くないって、私に償いをする義務なんかないって、やっぱり大人は皆、私の目を塞ぐんです」

少女は笑った。笑おうとしていた。
その柔らかな、泡のように頼りない視線は、けれども一人とは交わらなかった。また一人とも交わらなかった。そして一人にも、その視線が何処に向いているのか分からなかった。

「旅に出ても出なくても、この点だけはやっぱり同じでした。大人が差し出すのは優しすぎる世界ばかりでした。
本当の世界を隠さずに見せてくれたのは、貴方達、プラズマ団の人だけでした」

何も映さないその瞳は、3人のよく知る男のそれによく似ていた。いや、敢えて似せようとしているのかもしれなかった。
少なくとも、3人の知るこの少女は、彼等の主とは似ても似つかない存在であるはずだった。
その誠実で世界を救おうとした彼女と、その不実で世界を統べようとしたあの男とは、何もかもが対極に在り過ぎていた。
だから、少女の瞳にあの男のそれを重ねるには、少女の瞳が「嘘」を吐くしかないのだ。何もかも諦めたふりを、何もかもを見限ったふりをしなければ、その瞳の様相は重ならない。

彼女は努めてあの男のように在ろうとしているのだ。彼女は努めて「悪」で在ろうとしているのだ。そうまでして、裁かれようとしているのだ。
優しすぎる大人の為した、易しすぎる世界という誤魔化しを糾弾するために、優しくない組織の、易しくない責任を取るために。

「だから私、此処に来たんです」

今、3つの影には、この少女を裁く権利が与えられている。
他でもない彼女に、頬を塩辛い水で濡らしながらも微笑もうと努める少女に、差し出されている。

2018.9.30(プロローグ加筆)

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