現れた彼はその、血走ったようにも見える目で歩み寄り、私の手を乱暴に引いた。
男の子にパワーで叶うとは思っていなかったが、私はその場に踏み留まり、一歩も動かずに済んだ。人間、いざという時には予想以上の力が出せるらしい。
「止めて、ヒュウ。……離して」
「なんでだよ! シア、お前は間違っている、こんな……」
「前にも言ったよね?それは私が決めることだよ」
頑として動かない私の手を、ヒュウは一瞬の躊躇の後で放す。
その怒りの矛先は、今度は私ではなく、奥にいたゲーチスさんに向けられた。ヒュウは彼に駆け寄り、その胸倉を掴んだ。
「お前の! お前のせいだ! チョロネコを奪っただけじゃ足りないのか、シアまで俺等から奪おうっていうのかよ!」
「ええそうです。ワタクシはそういう心ない人間だと、お前は知っている筈ですよ」
私は息を飲んだ。
彼の右腕をヒュウが掴んだ瞬間の、宙を掴むような感覚にその赤い両目が見開かれた。
ゲーチスさんは気付かれたことへの不快感を露わにし、左手でその手を振り払う。
……否定すると思っていた。どうしてそんなことを思ったのか、未だに解らない。
今まで彼が否定したことなどなかったのに、いつだって、沈黙や皮肉交じりの言葉で、私に肯定を伝えてくれていたのに。
あの子供が勝手に決めたことだ、と言い放つのだと思っていた。そう言ってくれた方が楽になれた。
……彼は優しい。そう言うことをやはり許さなかった。簡単に私から荷物を奪っていく。それは彼の十八番だった。
しかしそれではいけない。この問題は最終的に私が背負わなくてはいけないのだ。そうすることで初めて、私は自らに立てた誓いを守れる気がした。
「ねえ」
トウコ先輩が口を開いた。私は彼女がヒュウと面識があったことに驚く。一体、いつ出会ったのだろう。
これも私のせいだろうか。私のせいでトウコ先輩を巻き込んでしまった。大切な人に余計な重荷を背負わせてしまった。
……それでも、私は迷わない。
『貴方は自分が無力であることを知っています。しかし、それでも力を求めるのなら、誰でもいい、頼りなさい』
アクロマさんの言葉が脳裏を掠めた。そして私はその言葉の通りに、あらゆる人物に手を伸ばした。
それでも、誰に何を言われようと譲れないものは確かにあって、今の私の場合、それが「彼」だったのだと。
「チョロネコはいいとして、この場合、あんたが怒っていい理由が何処にあるの?
第三者からすれば、好きな女の子がおっさんに取られたことを僻む少年にしか見えないんだけど」
彼女は本当に楽しそうに笑った。
……好きな女の子。それは私のことだろうか。それは私も同じだった。同じ町に住む、一つ年上の幼馴染を私は慕っていたし、彼も私を大事にしてくれた。
けれど、それだけだった。それ以上でも以下でもない。彼は私を止める理由を有しているのかもしれないけれど、私には、彼に止められる理由などない。
だって、これは譲れないことだから。たとえ彼を敵に回すことになったとしても。
トウコ先輩の辛口に彼は怯み、しかし直ぐに反論した。
「そうだよ、悪いか! 俺は身勝手な人間だよ。でもゲーチス、お前だってそうだろ!
自分の都合の良いようにNさんを育てて、自分の思うように世界を手に入れようとした。俺はその被害者だ!」
彼はゲーチスさんの胸倉を掴んでいた手を放し、もう一度、私に詰め寄る。
「なあ、シア。俺や俺の妹が奪われたものは、そんなにちっぽけなものだったっていうのかよ。違うだろ? それなのにお前達は、そんな俺の怒りを容易く切り捨てるのか?
シア。俺は間違っているのか? もしそうだとして、それをお前は正せるのか?」
いいえ、君は間違ってなんかいない。君は私の気持ちなんて解っちゃいけない。
誰も、何も間違ってなどいないのだ。誰もが誰もを救うことができなかった。ゲーチスさんを虐げたのは、そうした理不尽な世界だ。
その理不尽さを私は理解している。誰かが必ず苦しまなければならないようになっているこの世界を、私は知っている。
それでも私達は、そんな世界で生きなければならない。
「ヒュウは間違っていないよ」
「だったら……!」
「きっと、間違っているのは私なんだよね。君にとってはそうなんだよね。でもね、私は間違っていても、貫きたい。だから君の思いには従えない」
何処まで行っても平行線だ。どう足掻いたって譲れないものが直ぐそこにある以上、私達はもう交わらない。交われない。
ヒュウがしようとしているのは、交わらない筈の平行線を曲げようとする行為だ。
だからなのだろう。私が頑なに引かないのは。一見矛盾のない彼の言動が許せないのは。
「帰って」
いつかも、同じ言葉を投げた気がする。
アダンさんは笑顔で去っていったが、それと同じ対応を彼に求めるのは余りにも酷だった。
それでも、早く帰って欲しい。私が酷いことを言ってしまわないうちに。彼をこれ以上傷付けていまわないうちに。
……贅沢なことに、彼も大事な人の一人だから。
ただ、それ以上に譲れないものがあった。私の場合、それが彼だった。それだけのことだったのだ。
「ごめんなさい」
ヒュウはしばらくその場に立ち竦み、伏せられた目をあげて、私を見つめた。
……ああ、私はその顔を何処かで見たことがある。もうずっと前、チョロネコを奪われた時も、理不尽を与えた世界に絶望していた時も、彼は似たような顔をしていた。
違うの、ヒュウ。あの時も今も、君が無力だからこうなった訳じゃない。
誰も、何も間違ってなんかいない。
踵を返して、彼はゆっくりと部屋を出て行く。レパルダスもそれに続いた。
トウコ先輩は大きく溜め息を吐き、飲み残しのアイスコーヒーを手に取った。Nさんとアクロマさんは顔を見合わせ、軽く肩を竦めて笑った。
ゲーチスさんの顔色を伺うように視線を向ければ、同じようにこちらを見下ろす視線とぶつかった。
「背、高いですね」
「今更何を言っているのですか」
彼の背はこんなにも高かったのだと、私は今更、思い知る。もう半年もの時間を共有してきたのに、そのことに気付かなかった。
呆れたように笑った彼の顔が、しかし次の瞬間、強張る。
「レパルダス、めざめるパワー!」
ドアに向かって歩いていたレパルダスがくるりと向きを変え、青白い光弾を放った。
視界の隅でアイスコーヒーが入ったコップが割れた。トウコ先輩がポケットからボールを取り出した。アブソルのダークさんが駆け出した。
誰よりも近くにいた私は、迷う間もなく咄嗟に一歩を踏み出す。
瞬間、冷たい風が肌を撫でた。氷タイプのめざめるパワーは真っすぐに彼を狙っていた。私を殺そうとした、あの冷たい刃に似た温度だった。
けれど私の足は、その記憶に留まることをしなかった。そのまま左腕を延べ、勢いよく彼を突き飛ばした。
この瞬間。
このようなことを考えるなんて、正気の沙汰ではないのかもしれないけれど、愚かなことだとまた笑われてしまうかもしれないけれど、私は、嬉しかった。
恐れ続けていたあの記憶を振り払い、彼を庇うように左腕を差し出して、そうして凍り付いた「それ」の冷たさは、私の心を妙に落ち着かせた。
そんなことは在り得ないと分かっているけれど、これは私のめでたい幻想だと知っているけれど、
今度こそ、彼の右翼になれる権利を得た気がして、ようやく彼と飛べるのではないかなどと思えて、少しだけ誇らしくなってしまったのだ。
2013.6.15
2015.1.21(修正)