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「やれやれ、ゲーチスの時には控え室に人が溢れ返っていたというのに、わたしの時には貴方しかいないというのも寂しい話ですね」

空色の髪をした女性は、鞄から二本のおいしい水を取り出し、一本をアクロマの方へと投げた。
片手で受け取り、蓋を開けて口に運ぶ。水を嚥下する音さえ響く程に、この空間はあまりにも静かだった。

結論から言えば、アクロマの裁判はこちらの優勢のままに幕を下ろした。
キュレムの力を使い、ソウリュウシティを氷漬けにした主犯として、彼は法廷の席に立った。
「科料は免れ得ないが、禁錮刑は科されないだろう」というのがクリスの見解だった。
求刑も罰金刑のみのものとなり、そして、その求刑通りの判決が下るだろうと彼女は予測していた。
あまりにも呆気なく終わった裁判に、誰よりもアクロマが驚いていた。その流暢な裁判運びの場に立っていたのが、この、若干20歳の女性だというのだから、恐ろしい話だ。

「ね、だから言ったでしょう? 私はできる仕事しか引き受けないんですよ」

「……貴方がわたしの弁護を引き受けた段階で、求めた刑以上のものが科されることはないと確信していたということですか?」

呆れたようにそう尋ね返したアクロマに、クリスはこてんと首を傾げて至極楽しそうに笑ってみせた。空色の髪がふわふわと揺れた。
一つの裁判をこなした後だというのに、彼女は全く心労を顔に見せない。それは彼女の仮面という訳ではなく、素の表情であるようだった。
そんな彼女の微笑みが、アクロマの問いに対する「肯定」を示していることに気付き、ただ苦笑するしかなかった。
この女性はアクロマの理解の外に在る。彼女を自分と同じ尺度で計ろうとするだけ、無駄なことだったのだ。

先日行われたゲーチスの裁判ですら、彼女は被告の優位に事を運ぶことに成功していた。
そんな彼女にとって、アクロマの裁判など、息をするのと同じような感覚でこなしてしまえるようなものだったのだろう。
まだ少女の面影すら残すこの女性は、しかし天を操ることすらできてしまうのではないかと錯覚するような、凄まじい力の数々を持っていたのだ。
その一つが彼女の言葉の節々に滲む「異常な程の自信」であり、それは彼女が「未来を読む」という稀有な力を持っていることに由来するものであると、彼はつい先日、知った。

「貴方は、本当に未来が読めるのですね」

「あれ、信じてくれていなかったんですか? 悲しいなあ」

至極悲しそうに眉を下げ、困ったように笑う彼女だが、アクロマはどうしても謝ることができなかった。
いきなり「私、未来が読めるんです」と言われて、直ぐに信じる人の方が少ないだろう。アクロマは至って一般的な反応をしていたつもりだった。
けれど彼女も、自分の言葉が突拍子もないものであることは承知しているようで、「でも、信じてくださったんですね」と、何処かほっとしたように竦めた肩を下ろした。

彼女の「未来を読む力」は、どうやら予知夢などのように突如として降って来るものではなく、彼女の脳内で「計算」することで能動的に導き出されているものらしい。
その小さな頭に恐ろしい程の知識を詰め込んでいた彼女は、それらを駆使し尽くすことで、あらゆる物事の先を読むまでに至ったのだ。
物事に取り組む前からその是非が判明する。あまりにも便利な能力だと思った。

「でも、シアちゃんが再興させた新しい組織のことに関しては、正直なところ、できないだろうなと思っていました」

「……プラズマ団のことですか?」

「はい。何度も計算したんですが、やっぱりシアちゃんの力は小さすぎて、イッシュに響かせるだけの威力にはとてもじゃないけれど、足りなかったんです」

しかし、物事の是非が解るということは即ち、「できない」ことも解ってしまうということだ。
無駄な努力をしなくて済む。それはとても喜ばしいことなのではと思っていたが、彼女の困ったようなその表情を見る限り、その予測はきっと正しくはないのだろう。
達成したいと思っていた事柄を「無駄なことだ」と切り捨てられる。それがどれだけ悔しいことであるのか、アクロマには想像することしかできない。

「できないと解っていながら、それでも貴方はシアさんに夢物語を持ちかけた。
……しかし、実際にはプラズマ団の再興は軌道に乗っているように見えます。貴方が予測できなかった何かが起こっていたのですか?」

「ええ、シアちゃんは旅をする中で、沢山の人と出会っていました。彼等の協力があって、初めて成功したことなんです」

「人との出会い、ですか。貴方はそうしたシアさんの背景までは読み取ることができなかったのですね」

そう相槌を打てば、少女はその言葉を、まるで初めから用意していたような流暢さで紡いだ。
そこにはアクロマにとっての「苺の香りがする紅茶」のような、強烈な愛着を感じる響きが含まれていて、
「私はその言葉が好きだ」と断言されずとも、クリスがその、たった一つの単語を宝物のように大事に扱っているのだと、確信することができたのだ。


「人との出会いは不確定要素が多すぎます。私は「縁」を読むことができないんです」


自分にとっての不可能を語っているとは思えない程に、彼女の笑顔はあまりにも無垢で、眩しかった。
そこに確かな誇りを見たアクロマは、それ以上深く追及することをせずにただ、頷いた。

シアちゃんはまだ13歳です。一人じゃ何もできないけれど、誠実で真面目で、伸びしろのいっぱいある、可能性の塊みたいな子です。
そんな彼女に手を貸してくれる人はきっと沢山いるって、確信できたんです」

「貴方のように?」

「そう、私のように」

歌うようにアクロマの言葉を引き取り、彼女はクスクスと笑った。
彼女のメゾソプラノの弾んだ声音は少し、あの少女のそれにも似ている気がした。

「けれど貴方は、できる仕事しかしないのではなかったのですか?」と、訝しげにアクロマが尋ねれば、
少女は「ああ、やっぱりそこには気付いちゃいますよね」と、少し照れくさそうに髪の一房を指先で摘まみ、クルクルと回しながら肩を竦めた。

「私、前にも一度こういうことがあったんです。弁護士になって直ぐの頃、私の力じゃどうすることもできないって直ぐに解るほどの、とても大きな刑事訴訟がありました。
それでも、やりたかったんです。どうしても、助けたい人がいたんです。本当に何かをしたい時って、駄目だと理屈では解っていても、やっぱり、諦められないものなんですね」

「……ああ、貴方にもそんな時期があったのですね」

「ええ、だからシアちゃんの、理不尽に屈するしかないと解っていても、どうしても屈することのできないことのできないって気持ちは、とてもよく解るんです。
シアちゃんにかつての私を見ていた……なんて、言ったら怒られてしまいそうですね」

誰に?と、アクロマは尋ね返すことをしなかった。
自分は、この女性があの少女に自身の姿を重ねたところで特に不快には思わない。寧ろ、納得さえできるような気がした。
彼女にはクリスのような稀有な力も突出した何かもないけれど、人との出会いを重んじるその姿勢や、努力を厭わないその性格は、この女性に似ているような気がしたからだ。

……とすれば、クリスのそうした発言に「怒る」可能性のある人間など、一人しかいない。
おそらく、聞けばその眉をひそめるくらいのことはしてのけるだろうと、アクロマにも簡単に予測することができた。その人物を確信していたからこそ、彼は何も言わなかった。
あの男はきっと、冬が訪れる頃にあの少女の元へと帰ってくる。この女性がそうだと断言したのだから、その通りになるのだろう。

クリス。わたし達の行く末を、貴方は……」

アクロマはそう言い掛けて止めた。
彼女の力を自分のいいように利用することこそ、この稀有な力を強い誇りの元に使役する彼女への侮辱となるような気がしたからだ。
口をつぐんだアクロマの、そうした心理背景すら読み取ってしまったのか、クリスは少しだけ驚いたようにクスクスと微笑み、「ありがとうございます」と紡いだ。
尊重したが故に口を閉ざしたのだと、クリスは解っていた。解っていたから、そのことに対する感謝の意を込めて、一つだけ教えてくれたのだろう。

「これからも、シアちゃんの隣にいてあげてくださいね」

「!」

「彼女は本当に沢山の人と関わって来たし、これからもきっとそうだと思うんです。
でも、どんなに多くの人と出会っても、どんなに多くの人に支えられても、それでも、貴方にしかできないことが必ずあるから。貴方はシアちゃんにとってそうした人だから」

その言葉に、耐えきれなくなっていよいよアクロマは笑った。

ああ、貴方はその目でゲーチスの姿を幾度となく見てきた筈なのに、彼の、あの少女に対する想いを全て知っている筈なのに、
あの男に対するシアさんの複雑な感情すら、貴方は全て解っている筈なのに、それでもわたしにそうしたことを告げてしまうのですね。
ゲーチスへの弁護、プラズマ団の再興、それら全てにおいて脇役でしかなかったわたしに、それでも、わたしでなければ駄目だと教えてくださるのですね。
それを嘘だと、冗談の類だと切り捨てることは簡単にできる筈なのに、……ああ、クリス。わたしは貴方が嘘を吐いているとはどうしても思えない。
貴方は、こんな質の悪い嘘を、そんな屈託のない笑みで紡げる人間では決してない。

「さあ、シアちゃんのところへ帰りましょうか。ゲーチスさんの帰る場所は、貴方の帰る場所でもあるんですから」

そう言って、クリスはポケットから銀色の鈴を取り出し、裁判所の外へと続く扉をそっと開ける。

2015.8.26

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