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運ばれてきたオレンジジュースを一口だけ飲んでから、少女はその口を開いた。
そこでクリスが耳にした事実は、13歳の少女が経験したとは思えない程に壮絶で、それでいてとても複雑な思いの連鎖による恐怖と悲しみを含んでいた。
アクロマさん、トウコ先輩、Nさん、ダークさん。彼女の話の中に登場する誰もが一様に悲しく、それ故に苦しみ、戸惑っていた。
その渦中に居た少女は、あろうことか自分を殺しかけた相手であるゲーチスに寄り添い、生きてくださいと懇願するに至った。

「上手く説明できなくて、ごめんなさい」

何故、自分を殺しかけた相手に、生きていてほしいと願うに至ったのか。その心情の過程を少女は上手く説明することができなかった。
けれど、クリスはその感情の推移を理解することができた。死というあまりにも大きすぎる罰に少女は戸惑い、咄嗟に「死んでほしくない」と願ったのだ。
それは至極当然の感情であるとクリスは思った。しかし驚くべきは、彼女のそんな懇願をゲーチスが受け入れたことの方にあった。
私も、どうして彼が生きることを選んでくれたのかはよく解りません。そう言って少女は困ったように笑った。
しかし少女が「解りません」と言ったその理由と、ゲーチスの心情を、クリスは知っている。察することができる。想いは時として盲目となるのだ。

ともかく、クリスコトネは長い時間を掛けて、ゲーチスと少女の間に起きたことを全て聞いた。
去年の冬に少女がゲーチスと再会してから、その小さな家に通うようになったこと。春にはホウエン地方の病院へと入院し、そこへも頻繁にお見舞いに向かったこと。
9月に退院する予定を少しだけ繰り上げ、その足でゲーチスは同じ組織で働いていたアクロマという人物を連れて出頭したこと。
大まかな流れを掴み、クリスは少女の言葉に頷きながら、それらの情報を手元のメモ用紙に書き連ねていた。

彼女の言葉には、「アクロマさん」というもう一人の大人が頻繁に登場した。
彼と少女は旅立つ前、つまり一年半前の春に、少女の生まれ育った町で出会ったらしい。
その彼が、ゲーチスに雇われる形でプラズマ団に所属していたという。世界は時に恐ろしい程の狭さを見せるものだと知ってはいたが、その偶然にクリスも驚いてしまった。
そんな少女の言葉から、アクロマという人物が彼女にとって大切な存在であるのだと悟ることは驚く程に容易だった。

恋や愛が何かを知らない無垢な13歳が、こんなにも大きすぎる想いを抱えて生きていることは、クリスに少なからず衝撃を与えていた。
この小さな少女をここまでさせる、その原動力とは一体、何なのだろう。彼女を貫く信念は一体、どのような色と重さを持っているのだろう。

シアちゃんは、どうしてそこまでするの?」

思わずクリスはそう尋ねていた。少女は少しだけ困ったように笑って首を傾げる。

「今のゲーチスさんの供述に任せてしまうと、彼が必要以上の刑罰を被ることになってしまうから、助けたい。理由としては何もおかしなところなんてないの。
でも私はまだ、貴方の動機を聞いていない」

「動機……」

「死の淵に会ったゲーチスさんに寄り添うことも、今のゲーチスさんを助けることも、「シアちゃん」がしなければいけない理由は何処にもない。
けれど敢えてそうすることを選んだシアちゃんの行動に、私は強い「信念」を感じるの。
ねえ、貴方はどうして、ゲーチスさんを助けようと思ったのかな」

長い沈黙が降りた。
誰かのグラスに残っていた氷が溶けて、カランと底に落ちる音がした。

クリスは今、自分が弁護士として此処に居ることを忘れていた。ただ一人の人間として、シアという13歳の少女の思いを知りたかったのだ。
この小さな少女が、もっと平穏に楽しく生きることだって簡単にできたはずの少女が、どうして今も尚、このような苦しい道を選び続けているのか。
その理由をクリスはどうしても知りたかった。少女に難しい選択ばかりをさせる、彼女自身に根付いたその信念を、どうしても聞いておかなければならないと思ったのだ。
そこには、昔の自分に共通する、大きすぎる理への反発があるように思えてならなかったのだ。

「私は、認めたくない」

そして案の定、少女が口にしたその言葉は、3年前のクリスの思いと見事に共鳴した。

「誰かが必ず苦しまなければならないようになっている、この理不尽な世界を、私はどうしても認めることができないんです。
この世界に屈するしかなかったのだと、思いたくない。私の大切な人達が屈してきたその理不尽に、私は抗いたい。
屈するしかなかったのだとしても、理由を知りたい。世界に目を塞がれたままで、終わりたくない」

理不尽、という言葉が出てきたその瞬間、クリスは息を飲んていた。
似ている。この少女はあまりにも、昔の自分に似ている。その既視感と眩しさにクリスは目を細めて微笑んだ。少女は不思議そうにクリスを見上げた。

少女はポケモン解放を謳っていた組織と真っ向から対峙し、その組織を解散にまで追い込んだ。
その勇気ある行動がイッシュのポケモントレーナーに与えた歓喜と安堵は計り知れないものがあったのだろう。もうこれでプラズマ団に怯えずに暮らせるのだ、と。
しかし少女が解散に追い込んだプラズマ団、そこに属していた団員達は、居場所を失い途方に暮れていた。
『ここでしか生きていけない人間もいるのよ!』というある団員の言葉が忘れられないのだと少女はクリスに語ってくれた。
私のしたことは正しかったのか、どんな選択なら誰もを救えたのか、それともそれは本当に不可能なことだったのか、その理不尽な世界に自分は屈するしかなかったのか。
少女はずっと、悩んでいた。その姿に、クリスは過去の自分を見た気がした。

クリスは弁護士として数え切れない程の人と関わり、彼等の一人一人の苦しみを目の当たりにしてきた。
この、あまりにも沢山の人が生きている世界には、一人では到底計り知ることのできない重さと暗さとが、確かな理不尽を持って渦巻いている。
利己的な人間は確かに居て、それに騙されて社会から追い出される人間も確かに居る。
それでも、世界から逃げる術を人間は持たない。
何処かで必ず生きていかなければならないのだ。それがたとえ、法に触れるようなことであったとしても、それが自分の本意ではなかったとしても。
人は必ず生きなければならない。それは生まれることのできた人間の権利であり、義務であった。クリスはそう信じていた。

そうして荒み続ける側面が世界にはあることを、クリスは痛い程によく理解していた。
しかしそうした現実を知れば知る程に、自分のできることの小ささを痛感し、理想を一つ、また一つと手放していった。
そうして人は大人になっていくのだ。大人になること、それはきっと諦めの連続なのだ。何らかの理由で、その理想を手放さなければならない時がいつかやって来る。
それは悲しむべきことではなくて、この社会に生きる人間に組み込まれた成長の一過程に過ぎないのだ。クリスはそう信じていた。
信じることで、諦めなければならないというその屈辱を受け入れようとしていた。
「理不尽」というその理への抗いも、クリスが大人になっていく中で手放してしまったものの一つだった。

20歳になり、そうした諦めに慣れ過ぎてしまったクリスの目に、この少女の「理不尽に屈したくない」という、少女の真っ直ぐな言葉と願いはあまりにも眩しすぎた。
眩しいと同時に、それは確かな羨望と共鳴をもってしてクリスの心を強く突き刺し、深く抉った。
そして、思う。

この少女を見てそのような羨望と共鳴を抱くのは、本当に私だけなのだろうか、と。

「変えよう、シアちゃん」

上擦った声でクリスはそう紡いでいた。少女はぎこちなくぱちぱちと二回瞬きをして、その目を真っ直ぐにクリスへと向ける。
あまりにも衝動的なその言葉に、クリス自身も驚いていた。けれどその思いに一片の曇りも嘘も存在しなかった。
心臓は走った後のように高鳴っていた。頬は花のようにほんのりと赤く染まっていた。
とんでもないことを言っているのだと、自分でも解っていた。これは弁護士としてではなく、一個人としての言葉で、その提案は今回の依頼の本筋からは逸れ過ぎていた。
けれど、もう止まらない。はやる気持ちを抑えるようにクリスは微笑み、ゆっくりと、しかしはっきりとその音を紡ぐ。

「私達で、その不条理を覆すの」

「!」

「貴方ならできる。私も力を貸す。私だけじゃない、私のようなことを考えている人は他にも大勢いる。一人なら変わらないことだって、いつか覆せるかもしれない。
だから、諦めないで試してみない?理不尽に抗いたいっていうその思いと力を、貴方の大切な人にだけじゃなくて、もっと大勢の人のために使ってみない?」

口から零れるその言葉は駆け足のように徐々にスピードを上げていった。
呆気に取られたように固まってしまった少女に、クリスはようやく我に返ったように言葉を止め、笑う。何をしているのだ、と心の中で自身を叱責する。
今、この少女が自分に頼んでいるのはゲーチスの弁護だ。それなのに、何を場違いな誘いをしているのだろう。この少女が本当に望んでいることは、そんなことではないのに。
忘れかけていた自分の理想が、少女の言葉により少しだけ蓋を開けてしまっただけのことだったのだ。

きっとこの衝動的な思いはいつか止んでくれる。自分が多くのことを諦めたように、いつかまた、同じように忘れてしまえる。
急にこんなことを言ってごめんね。そう紡ごうとした瞬間だった。少女が僅かに身を乗り出して、クリスに縋るように言葉を投げた。

「変えます」

時が止まった気がした。

「私は私と、私が出会った全ての人のために、抗います」

「……」

クリスさん、私に力を貸してください」

その決意の言葉を、クリスはきっと忘れることはないのだろう。
泣き出しそうな目を強く瞑り、瞬きをしてから右手を差し出す。その小さな細い手に似合わず、とても強い力で握り返してきた。
ああ、この少女は本気なのだと、その力強い手が雄弁に語っていた。またしても泣きそうになりながらクリスは微笑む。
ありがとう、と言おうとしたけれど、まだそれは言葉にならなかった。人はあまりの衝撃と感動に打ち震えると言葉を失うらしい。

2015.3.14

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