エスプレッソのカップは、とても小さい。
私は自分の手元にあるカプチーノのカップの、半分ほどの大きさしかないそれをじっと見つめていた。
コーヒーよりも更に濃度が高いというそれは、しかし量はとても少ないらしい。
思わず「エスプレッソは量が少ないものなんですか?」と尋ねてしまった私に、ダイゴさんは楽しそうな顔で笑った。
「ボクも昔、同じようなことを思ったよ。こんな小さなカップ、喉が渇いている時なら一口で飲んでしまいそうだってね。
でも、いざ口を付けてみると、その小ささの理由が分かるんだ。これをコーヒーと同じように飲むことはできそうにない」
飲んでみるかい?と飲みかけのエスプレッソを軽くこちらへと差し出す彼に、私は慌てて首を振った。
紅茶ですら、角砂糖を一つ落とさないと美味しいと思えないのだ。コーヒーの、しかもそれより高濃度のものを飲めるはずがない。
私は正直に拒んでから「ああ、飲めないことが知られてしまった」と少しだけ絶望する。
できることなら、コーヒーが飲めないことは隠しておきたかった。私はそれを恥ずかしいことだと思っていたからだ。
コーヒーが飲めないことが、というよりも、その事実から転じて「子供っぽい」と評価されてしまうことが恥ずかしかったのだ。
「子供っぽいですよね、コーヒーが飲めないなんて」
先手を打ってそんなことを言う。
しかしダイゴさんは呆気に取られた表情で沈黙し、その後で笑い出してしまった。
そんなに盛大に馬鹿にされるとは思っていなかった私は、顔を赤くして彼を軽く睨み上げる。しかし彼の笑いの理由はそこにはなかった。
「いや、違うんだ。君がエスプレッソを断ったのは、もっと別の理由だと思っていたんだ。
君のような年頃の女の子は、こういうことに敏感なんだと思っていたからね。なんだ、そうか、コーヒーが飲めないのか」
「もっと別の理由……?」
そこまで聞いて私はようやく気付いた。
成る程、確かに相手が少し飲んだカップに口を付けることを、躊躇う人も多いのだろう。
この人は本当に、細やかな気遣いができる人だと思った。私もあと10年くらいしたら、こうしたことが自然とできるようになるのかしら。
「迷っているのかい?」
そしてもっと凄いことに、彼は気配りができるだけではなく、人を見抜く力にも長けているのだ。
「ゲーチスさんの傍に居続けることが、本当に正しいことなのか、迷っているように見える。……勿論、これはボクの想像にすぎない」
私は息を飲む。この人はきっと、私が投げた先程の質問が「建前」であることに気付いている。
『ダイゴさんはどうして、ゲーチスさんが本当にしようとしていたことを知っていたんですか?』
あの質問は前座だったのだと、彼は知っている。知っていながら、話を合わせてくれたのだ。
私はいつも、彼のような大人が私に向けてくれる気遣いに気付くのが遅すぎる。
迷っている訳ではない。私が彼に立てた誓いは揺るがない。ただ少し、足元が覚束ないだけ。
私は少しの逡巡の後で、そっと口を開いた。
「誰もが、誰もを苦しめずに済む方法があればいいのにって、……そんな風に思うことは、間違っていますか?」
私の願いは、とても傲慢で子供っぽい、欲張りなものであると自覚していた。
そんなユートピアはあり得ないと知っていながら、それでも私は、私が傷付けてしまった人間を諦めることができないのだ。
私はこれ以上、誰かを傷付けたくはなかった。誰かから何かを奪い取りたくはなかった。私と真逆の正義を選んだ、幼馴染に対しても同じことが言えたのだ。
ダイゴさんは、そんなみっともない私に優しく微笑む。
「その理想を、ボクは捨てないでほしいと思っている。君の思いは間違っていない。同じことを、君の周りの人も思っている筈だよ」
『ですからシアさん、もう迷わなくていいんですよ。貴方は間違っていません。仮に間違っていたとしても、わたしが支えます』
彼のその言葉は、私の大切な人の声を脳裏に過ぎらせた。苺の紅茶の香りが鼻を掠めた気がした。
私は小さく頷けば、ダイゴさんは満足そうに微笑んだ。
エスプレッソの小さなカップの持ち手を、人差し指で引っ掛けるようにして持つ。コーヒーの豆の香りがふわりとこちらにまで漂ってきた。
「でも、そんな君が、自分の思いに確信が持てないでいるというのなら、何か手助けをしなければいけないね」
どうして、と思う。どうして彼は、決して親しい間柄ではない私に対して、こんな風に手助けをしてくれるのだろう。
それはアダンさんにも同じことが言えた。
『レディ、もし大人の助けが必要になったなら、私達を呼びなさい。君の覚悟と彼の言葉に免じて、私はいつでも君の元へ駆けつけよう』
どうしてアダンさんは、私にそんなことを言ってくれたのだろう。危険な橋を渡っている私に手を貸しても、何の得もない筈なのに。
寧ろ、見ない振りをして遠ざかることが、自分の保身のためには最も安全な選択である筈なのに。
「君は賢くて強い。でもまだ13才だ。その年が背負うには、ゲーチスさんという存在はあまりにも重荷だと思う。
ただし、その重荷を背負ってまでのメリットが君にあるのだとしたら話は変わってくる。彼に寄り添うことで得られる手放し難い何か……。思い当たるものはあるかな?」
何故、彼のところに通うのか。
その答えはとても簡単なことのように感じられて、私は間髪入れずに口を開いた。
「私は、プラズマ団と戦いました。私の正義を貫くために戦いました。その正義が、彼の居場所と心を奪いました。
私はその責任を取らなければいけないんです。その取り方が、あの人の傍でなら見つかるかもしれない。だから、」
「本音は?」
時が止まった気がした。彼は真っ直ぐに私を見ていた。私は目を逸らすことができなかった。
「それも一つの理由だと、知っているよ。でもボクには違和感が残ったんだ。
他のプラズマ団員の誰でもなく、ゲーチスさんに寄り添う理由として、それだけでは少し足りない気がした。……違うかい?」
私はどこまでも、嘘と真実に対して不誠実だった。
何が嘘で、何が真実なのかを、考えないようにしてきた。どうせそれらは、積み重ねることで真実になってしまうと知っていたからだ。
けれど、きっとそれではいけないのだろう。何が建前で、何が本音なのかを見分けるには、先ず、自らの中にある嘘と真実を見分ける必要があった。
自分の真偽すら見分けられない私が、他人の真偽を見抜ける筈がない。
「……」
私は頭の奥からその本音を引っ張り出した。
傲慢だと一笑に付されるだろうか。考え過ぎだと咎められるだろうか。
しかしそれは、拙い私の頭がようやく弾き出した、私の考え得る全てを積み重ねた結果が生んだ真実だった。
「ゲーチスさんは一度、死のうとしたんです。今も、その思いが消えているのかどうか、解らないんです。
死んでしまいそうだから、死んでしまうかもしれないから」
「……そうか」
「死んでしまったら、私はどうすることもできないから」
もし、私が振りかざした正義の責任を取れたとして、しかし彼が死んでしまっては意味がないのだ。
居場所も、心も、取り戻せる。取り戻せると信じていられる。そのために足掻くことができる。
でも命は、取り戻せない。彼が死んでしまったとして、私の振りかざした正義が彼に死を選ばせたとして、私が彼を殺したとして、しかしそれを償う術を私は持たない。
きっと怖いのだろう。生きることを屈辱だとした彼が、一度は自ら死を選ぼうとした彼のことが。
それは以前のような恐怖とは全く別のものだった。すなわち私は自分の命が脅かされる恐怖にではなく、彼の命が消えてしまう恐怖に苛まれていたのだ。
彼に寄り添うことで得られるメリットがあるとするならば、それは間違いなく、「彼が死なない」という確信のことだ。
「シア、それは君にしかできないことだ」
「!」
「君が奪った彼等の居場所に対する責任の取り方については、ボクのような人間が手を貸すこともできる。逆に言えば、ボク達が手を貸せるのはそこまでなんだ。
だから彼のことに関しては、君の背中を押すことしかできない」
ごめんね、と彼は小さく謝罪の言葉を紡いだ。私は激しく首を振った。
彼のその言葉に、私がどれだけ勇気付けられたのかを、適切に伝えられる言葉があればいいのにと思った。
『それは君にしかできないことだ』
私はきっと、恵まれているのだろう。
こんな私の背中を押してくれる人がいる。勇気付けてくれる人がいる。支えてくれる人がいる。
私は、彼等に相応しい人になれるだろうか。
2013.4.5
2015.1.19(修正)