25

「……」

私は驚きのあまり、声が出なかった。
駆け寄ってきたトウコ先輩が、私の手から勢いよくスケッチブックを奪い取ったのだ。
その顔色は、私が今まで見たどんな彼女のそれよりも悪かった。けれど同じような顔色を、私はいつか見たことがあるのではないかと思った。
あれは、いつのことだったのだろう。

「……なんだ、スケッチブックだったのね。朝日の逆光で、あんたが刃物を持っているように見えたのよ」

彼女は笑いながらそう言った。けれどその声音は少しだけぎこちないものだった。
きっと、彼女が取り上げようとしたのはナイフではなく、このスケッチブックだったのだろう。彼女は私に、このスケッチブックの中身を見てほしくなかったのだろうか。
そうだとして、それは何故だろうか。

彼女に、そのスケッチブックの中に見える海を尋ねてみても、彼女はさあ?と肩を竦めて答えを濁した。
海の見える町なんて、世界中に幾つもある。それは解る。けれどトウコ先輩は、この景色を知っているのだ。私はそう確信していた。
けれどこの場で追及するのはどうしても躊躇われて、私は彼女の言葉に苦笑するだけに留めた。

もしかしたら、あの緑の髪をした赤い目の「アクロマさん」は、私にとって「思い出してはいけない記憶」の中にいる人なのかもしれない。
そんな風に思い始めていた。そう危惧した私は、彼女にこの人物のことを尋ねることを諦めた。
それ故に、自分で何とかして思い出してやろうと思ったのだ。その記憶がどんなに苦しいものであったとして、忘れてしまうなんてとても、悲しいから。
その苦しささえ、無くした記憶にいた私は背負うと覚悟した筈なのだから。

私はスケッチブックを丁寧に畳んで、鞄の中へと仕舞った。
鞄の中には3つのボールとポケモン図鑑とバッジケース、そして色鉛筆と2通の手紙が入っていた。

それから私はトウコ先輩に連れられて、ジョウト地方のとある一軒家に向かった。
トウコ先輩の友達であるコトネさんとシルバーさん、彼等に私を紹介する目的でこの町にやって来ていたらしい。
クロバットからの落下はその時に起きたのだとトウコ先輩は説明してくれた。
コトネさんとシルバーさんは私を歓迎してくれた。
コトネさんの双子の弟が入院していて、彼女のお母さんもそれに付き添っているから、今は少し寂しかったのだと、私達が長期間、滞在することも許してくれた。

どのみち、私は肩の怪我の抜糸が済むまであの病院に通わなければならない。記憶の混乱があったということで、3日に一回は通院するようにと医師にも言われていた。
それに、一年半分の記憶がなくなってしまった状態で、皆が私をよく知るイッシュに戻っても、皆を混乱させてしまうだろう。お母さんには泣かれてしまうかもしれない。
だから全てを思い出すまで、イッシュに戻ることはしたくなかった。私の大切な人の悲しい顔はこれ以上、見たくなかった。
昨日、気丈にも笑ったトウコ先輩の声が震えていたことに気付いた私は、そんな決意をもってこの家への滞在を申し込んだのだ。

コトネさんとシルバーさんは私よりも2つ年上の15歳だった。二人に血の繋がりはなく、シルバーさんが彼女の家に居候しているらしい。
トウコ先輩とNさんの関係によく似ている、と思った。
シルバーさんはとても料理が上手で、5人分の料理をとても手際よく作る。私も手伝おうと思ったが、キッチンに立った経験などなかったので、食事後の洗い物に徹した。

トウコ先輩はパソコンを広げて、頻繁に調べものをしていた。
何度かその画面を覗き見ようと思って近付いたのだが、「あんたが見ていいものじゃないのよ」と言って追い出された。
私にはそれが、大人が私にする振る舞いと重なり、少しだけ悔しかったのを覚えている。

私は大人が嫌いだった。世界を隠して綺麗なものだけを子供に与え続ける、生易しい彼等の選択が大嫌いだった。
意味を過剰に砕いて猫なで声で紡がれる言葉も、甘口に作られたカレーライスも、2頭身の可愛いキャラクターが随所に描かれた算数のドリルも、全部、全部嫌いだった。
いつからかしら。私はふと、考える。
素直に甘えることが出来なくなったのは。与えられるものだけをそのまま受け取ることが嫌になったのは。
きっと、あの日からだと思った。一つ年上の男の子が、悔しさに嗚咽を零していたあの日から。妹のチョロネコが奪われたのだと、泣きながらそう伝えてくれたあの時から。

世界が甘くないことを私は知っていた。生易しいもので誤魔化せる、そんな単純明快なものではないと理解していた。
そして、そんな大嫌いな世界で強く生きたいと願っていた。
遠く、イッシュの空で紡がれた神話のように。その神話のポケモンを従え、争い、答えを導き出した「彼女」のように。


私は、そんな理不尽な世界で強く生きたいと思っていた。


「……」

その時、一瞬だけ生じた違和感を私は逃さなかった。
理不尽な世界で強く生きたいと思っていた。その言葉に、嘘はない。けれど、本当にそれだけだろうか。
理不尽への対抗心は、本当に「綺麗ではない世界」を強く生き抜きたいという思いだけから生まれたものなのだろうか。
仮にそうだとして、それならば何故、この一年半でその理不尽への対抗心は、こんなにも大きく膨れ上がってしまっているのだろうか。

頭が記憶を忘れてしまっても、身体はモンスターボールの投げ方を覚えていた。
頭が一年半の経緯を忘れてしまっても、心はその理不尽への思いを覚えていた。

私は考えていた。それだけではなかった筈だった。この理不尽な世界に屈することができなかった理由が、私には他にも、あった筈だ。
けれど、それを思い出すことがどうしてもできなかった。私は苛立ち、焦っていた。焦りながら、この焦りは前にも一度経験したことがある、と思い、また悔しくなった。
私はこの世界に対して、特別な思いを抱いていた。それは私自身の軸となる、とても重要なものであった筈なのだ。
しかし、思い出せない。私の記憶は、現れてくれない。

私はそれがとても悔しくて、コトネさんの家の外に出てそっと嗚咽を零していた。
悔しい、悔しい。早く思い出したい。けれど思い出してくれない。
そして何故だか解らないけれど、トウコ先輩は私が全てを思い出すことを望んではいない。

この日々には「嘘」がある。私はそう確信していた。けれどそれが何を意味するのか、どうしても解らなかった。
そして、トウコ先輩が思い出してほしくない記憶を、必死になって探している私は、もしかしたらいけないことをしているのかもしれないと思い始めていた。
それでも、無くした一年半を探さずにはいられない自分に嫌気が差していた。けれど、どうしても、思い出したかったのだ。
悔しかった。私は泣き続けていた。

その瞬間、肩に白い手袋を嵌めた手が触れた。


『大丈夫ですよ』


やわらかなテノールが私の鼓膜を揺らした。遠くで雷の大きな音が聞こえた気がした。私はあの時、誰かに縋り付いた。差し出された傘は風に煽られて飛んでいった。
あの日は冷たい雨が降っていた。暦の上では春だった筈なのに、その雨はとても冷たくて、私は慌てて駆け出して、転んで、そして。

二つの太陽が、私を見ていた。

「!」

顔を上げた私の目の前で、ロトムがふわふわと心配そうに漂っていた。
そう言えば、「アクロマさん」からの手紙に、ロトムのことが書かれていた気がする。
この子は「アクロマさん」から譲り受けたタマゴから孵ったポケモンだ。彼の手紙にはそう記されていた。
彼は何故、この子を私に託してくれたのだろう。

『大丈夫ですよ』
あれは、誰の声だったのだろう。

「ごめんね、大丈夫だよ。君のことを思い出せなくて、少し、悔しかったの」

その冷たい体をそっと抱き締めた。間違いない。私はこの冷たい温度を知っていた。
記憶は少しずつ紐解かれてきていたけれど、その中に「アクロマさん」の姿を見つけることはできなかった。

だから私は、思い出したことをトウコ先輩に伝えた。
ダイケンキやクロバット、ロトムのこと。初めてのジム戦のこと、旅の途中に出会った人のこと。
小さなものを契機として思い出される記憶を貼り合わせて、私はそれらを組み立て、自分の記憶とした。彼女は徐々に色んなことを思い出す私を喜んでくれた。
そして、ポケモンのことや旅のことを、私は熱心に彼女に尋ねた。

けれど、「アクロマさん」について、私は声に出すことも、尋ねることもしなかった。「アクロマさん」という人に関する情報を、私は何も手に入れていない振りをした。
鞄の中敷きの裏に、大切に隠されたその二通の手紙を、私は読んでいない。スケッチブックのたった1ページに書かれた「アクロマさん」の姿も、見ていない。
そういうことにしておいた。彼女にとって「理想」の記憶の復元が行われているのだとしておきたかった。
もし私が彼に対する何かを知ろうとしている、思い出そうとしていると彼女に知れれば、彼女はきっとそれを止めるだろう。

それが私を守るための行動なのだと知っていた。強くて優しい、彼女が私を思う最善の選択なのだと解っていた。けれど私は、受け入れられなかった。
だから私は、優しすぎる嘘で固められたこの穏やかな日常の中に、私の嘘を少しだけ混ぜてみることにした。

2015.2.20

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