24

12歳だった筈の私は、目が覚めると13歳になっていた。
2月だった筈なのに、カレンダーは8月のページになっていた。
私の背は少しだけ伸びて、髪も記憶していた時よりもかなり長くなっていた。

鞄の中には見覚えのないものが沢山、入っていた。
ダイケンキ、クロバット、ロトムがそれぞれ入った3つのボール。彼等との旅で手に入れたという綺麗な8つのジムバッジ。少しの空欄を残したポケモン図鑑。
使い古された、イッシュに暮らすポケモンの生態が記された小さな本。緑と青が異様に短くなっている、24色の色鉛筆。スケッチブックと、2通の手紙。
私はそれら全てを思い出せないまま、その持ち主が私であることを信じられないまま、病院で一人、夜を明かした。
一睡もできなかった。

トウコ先輩が夕方に帰ってから、私は一人で自分の鞄を漁っていた。
その中で一際大きな荷物として、そのスケッチブックは鎮座していた。ビニール袋に包まれたそれを取り、そっと開けば、鮮やかな海の絵が私の目に飛び込んできた。

「わ、綺麗……。これを私が?」

驚きと感動に、私は夢中になってそのスケッチブックを捲った。
絵を描くのは好きだった。一人っ子だった私は、よく家で絵を描いて遊ぶことが多かったのだ。小さな手をクレヨンで汚して、沢山の絵を描いた。
しかしあの時からは信じられない程に上達したその絵に、私はここ一年半の間に何があったのかと気になった。そして、それを知る術を持たない自分に苛立ちを感じた。
沢山、練習したのかしら。私は旅に出ていたようだけれど、その合間にこうして毎日、絵を描いていたのかしら。

そのスケッチブックの各ページには、小さく鉛筆で日付が刻まれていた。殆ど毎日のように更新されるその絵に、私は自分のことである筈なのにひどく感心していた。
言葉こそないものの、毎日のように描かれるその絵は日記のように思えた。
この時の記憶があったなら、きっとこのスケッチブックを懐かしみと愛おしさをもって捲ることができるのに。
そんなことを思いながら、しかし私はその捲る手を止めなかった。自分が描いたとは思えない程にその海は美しく、不思議な引力があったのだ。

……何処の景色なのかしら。ふと、そんな疑問が頭をよぎった。もしかしたらトウコ先輩が何か知っているかもしれない。
明日、聞いてみよう。私はそんな期待を込めながらページを捲り続けた。
殆どが同じ場所から見える海を描いたものだったが、ふと、気になることがあって私は思わず呟いていた。

「この時の私には、海が緑色に見えていたのかな」

そう、海に混ぜられた緑の色が、私にはどうしても納得がいかなかった。
海にこのような緑を見たことはない。海は紛れもなく、青いものだった。
ヒオウギシティは海に面しておらず、そもそも、海を見る機会が少なかった。だから私は写真や絵で見る青い海を、そのまま海のイメージとして焼き付けていた。
かろうじて、トウコ先輩の自宅があるカノコタウンから海が見えたが、それだって、透き通った綺麗な青をしていて、夜になると真っ暗な闇となって色を飲み込んでいた。
その海に、緑を見つけることはとても困難であるように感じられたのだ。
どうして私は、海に緑を混ぜようと思ったのか。……しかしやはり、その答えはどうしても見つかりそうになかった。

そのスケッチブックには、海以外のものも描かれていた。
透き通る空の周りを丸く囲む崖、ツリーハウスが並ぶ不思議な町、立派な三角の山のふもとから頂上に伸びるロープウェイ、沢山のクレーター跡がある山道。
イッシュを旅した時の景色だろうか。それこそ絵日記のように、鮮やかにその景色を切り取ったそれらの絵に私は見とれていた。
ずっとそれらを眺めながら、ああ、これらを懐かしむための記憶があればどんなにいいだろうかと思ったのだ。

「!」

私は次のページを捲って、息を飲んだ。そこには景色ではないものが描かれていたからだ。
ベッドに腰掛け、本を読む黒服の人物。長い緑の髪が柔らかく、肩に背中に流れている。その手元には分厚い本があった。
その人がどんな顔をしているのかはこの絵から読み取ることはできなかったが、伏せられたその目には僅かに赤が使われていた。この男性は赤い目をしているのだ。
私はあれ、と考え込む。私はどうして、この絵の中の人物を男性だと思ったのだろう。こんなにも髪が長いのだから、女性であってもおかしくない筈なのに。

「……」

この人は、誰だろう。
思い出せる筈もなかった。そのことがひどく、悔しかった。

手紙を見つけたのは偶然だった。それは鞄の中敷きの裏に貼られていたのだ。余程大切なものだったらしく、雨に濡れても大丈夫なようにビニール袋に包まれていた。
そしてその便箋には、不思議なことに、住所が書かれていなかった。宛先のないこの手紙は、どうやって私の元へと届いたのだろう。
その疑問に答えを出せないまま、私はそれを剥がし、中身を取り出して読んだ。そこにはとても綺麗な字が、流れるように綴られていた。
やはり宛名は私になっていたけれど、私はどうしてもその記憶を思い出すことができなかった。
失った一年と半年を埋め合わせるように、私は夜中、その手紙を何度も、何度も読んだ。

『早速、手紙を書いてくださったのですね。届いていますよ。ありがとうございます。
タマゴから孵ったロトムとも仲良くしてくれているようで、とても嬉しく思っています』

『旅のことについて、とても詳しく書いてくださっているので、シアさんがこれまで歩んできた旅の過程を、詳細に想像することができています。
聡明で努力家な貴方は、これからも全てにおいて手を抜かずに取り組むことでしょう。しかし、無理はしないように。
貴方のことを心配しているポケモン達が、いつでも傍にいてくれることを忘れないでください』

その手紙の内容によって、私は鞄の中に入っていた本の送り主がこの人物であったことを知ることができた。
更に、私はこの人に、何度か旅の途中で手紙を送っていたのだ。私が送った手紙へのお礼の言葉が、その綺麗な字で綴られていた。
そして私は、手紙の最後に書かれた名前を、何度も繰り返し呟いた。

「アクロマさん」

覚えがある。私はこの音の響きを覚えている。
確かに、何度も、何度も繰り返したのだ。私はこの人を知っている。私は確かに、この人の名前を覚えている。
けれど、それだけだった。その手紙に綴られた綺麗な字が、それ以上の記憶を呼び起こしてくれることはなかった。
私は少しでも手掛かりが欲しくて、2つ目の手紙を慌てて取り出し、読み始めた。

シアさん、くれぐれも無理はしないでください。貴方がどういう人間か、わたしはある程度把握していたつもりです。
しかし、これから貴方の身に起こることの予測はできても、それを貴方がどう感じるかという点については、全く予測ができないし、確証もありません。
ですが、わたしは貴方の感じたままを受け入れようと思います』

『それから、質問に答えてくださり、ありがとうございます。
貴方が答えてくれたのですから、わたしも、あの手紙の質問に答えなければいけませんね。

それは貴方のことだと答えたいけれど、答えられない。これが答えです』

その手紙には、不自然にしわが入っていた。ぎゅっと握り締めた時に付いたような、不自然な紙の歪みが残っていた。
私はこの手紙を握り締めたのかしら。どうして、そんなことを?
疑問に思いながら、もう一度、その一文に目を通した。

『それは貴方のことだと答えたいけれど、答えられない。これが答えです』

この言葉は、何を意味するのだろう。「それ」とは、何のことなのだろう。
「アクロマさん」が私にした質問とは一体、何だったのだろう。私はその質問に何と答えたのだろう。
どうして「アクロマさん」は、私に繰り返し「無理をしないように」と告げていたのだろう。私はそんなに無理が好きな人間だったかしら。それとも、何かに焦っていたのかしら。

私は「アクロマさん」といつ、何処で出会い、いつの間に手紙を交わし合う程に親しくなったのかしら。
彼は、私にとってどんな存在だったのかしら。

悔しい。何も思い出せない。

その悔しさは答えを捜し出そうと躍起になった。たとえそれが真実でなくとも、一先ずはそれでよかったのだ。
今はただ、この悔しさと寂しさを払拭してしまいたかった。もやの掛かった記憶に、私なりの結論を出してしまいたかったのだ。
私は暗闇の中を手探りで進んだ。そして私は一つの答えに辿り着いた。

先程のスケッチブックに描かれていた、一人の男性の姿。手紙の中の「アクロマさん」という人物。
その二人を同一視することはひどく簡単だった。この時の私には、それ以上に合理的な結論が思いつかなかった。

私がこの一年半で出会った「大切な人」は、緑の柔らかな髪に赤い目をした「アクロマさん」という人物。
そんな結論を下せた頃には、東の空が明るみ始めていた。
悔しさと恐怖と不安に押し潰されそうになっていた私を、その「仮の結論」が安心させ、落ち着かせてくれた。私はようやく微笑むことができた。
必ず、思い出してみせると誓った。こんなにも思い出せないことを悔しいと思う存在を、思い出せないまま終わらせる訳にはいかない。終わらせたくない。
私はようやくベッドに横になった。目蓋は直ぐに降りてきた。

2015.2.20
これからは彼女の盛大な「勘違い」の元に話が進みます。混乱なさらないようお気をつけて。

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