17

「あれは肩からの出血でした。頭をぶつけたことによるものではありませんよ」

医師からその言葉を聞いた時、私がどれ程安心したかは想像に難くないだろう。
医学の知識が全くない私でも、頭を派手にぶつけてあのような出血を起こせば、大変なことになるということくらいは知っていたのだ。
最悪、意識が戻らないままになってしまうかもしれない。もしそうなれば、私はどうやって責任を取ればいいのだろう?
そんな風に思っていた私にとって、その報告が救いの言葉に思えたのだ。

『私は責任を取らなければいけないんです』
そう繰り返していたシアを思う。彼女も、こんな気持ちだったのだろうか。
自分のせいで奪われた多くの人の居場所に対する責任を、どうやって取ればいいのかと悩み続けていたのだろうか。
私は彼女のそんな「欲張り」を、彼女自身の意志だとして手助けすることはあまりしなかった。あんたが選んだことなのだからと、頼まれない限りは傍観を貫いていた。
けれど、彼女のその思いは無理もないことだったのかもしれない。もう少し、彼女に寄り添ってもよかったのかもしれない。
少なくとも、そうしておけば、彼女が此処まで追い詰められることはなかったのかもしれない。

私らしくない後悔を繰り返していた。だからその言葉に、息が詰まる程安心したのだ。
外傷は、肩の傷だけ。何針か縫ったようだが、それは彼女の命を脅かすものではない。私は本当に安心していた。それこそ、泣き出しそうなくらいに。
けれど泣くことはしなかった。どんなに錯乱し、恐怖に苛まれても、涙を零すことだけは絶対にしなかった。
私が無く時があるとすれば、私が誰かに涙を見せる時があるとすれば、それは「彼」の前でだけなのだと心得ていたからだ。

「頭も軽く打ったようですが、目立った外傷はありません。種々の検査もしましたが、特に異常は見当たりませんでした。
念のため、今日は入院して経過を見ますが、今のところ、命に別条はないと言えるでしょう。ただ……」

しかし、医師が最後に付け加えた「ただ」という言葉に、私の手の温度は3度ほど下がった気がした。
私は次の言葉を聞き逃さないようにと、医師の顔を真っ直ぐに見据えた。

「少々、記憶が混乱しているようです。この怪我をする前に、何か、ありましたか?」

私は安堵の溜め息を吐き、苦笑した。先程までのシアの様子なら無理もないことだと思ったからだ。
取り敢えず、病院から抜け出すなんて不作法をするような子ではない。これからゆっくり、あの二人に起こったことを説明していくつもりだった。
医師に「少し揉め事がありましたが、大丈夫です」と説明して、私は彼女の病室へと向かった。

「私はまだ、シアにとって「知らない人」だから、今はまだ顔を出さないほうが良いかもしれないね」

コトネは私と一緒に医師の話を聞いてくれた後で私にそう告げて、ヒビキが入院している病棟へと駆けていってしまった。
それが彼女の気遣いであることを知っていた。彼女は天真爛漫な笑顔の裏に、驚く程に繊細な気遣いを張り巡らせているのだ。私はそんな彼女を密かに尊敬していた。
小さく溜め息を吐いてから、入る。飛び込んできたのは、ベッドに大人しく上体を起こしているシアの姿だった。
私は苦笑してシアに歩み寄る。

「なんともないってさ」

「……そう、ですか」

「私のせいだわ。責めてくれていいのよ」

責められて当然だと思い、そんな言葉を口にした。しかしそれは彼女のための言葉ではなく、私のための言葉だったのだと気付いてしまった。
責めてくれた方が楽になれたのだ。彼女の手で私を裁いてくれた方がよかった。
彼女がそんなことをする筈がないと、知っているのに。

「すみません。何があったんですか?」

「え?」

その言葉に私はとても驚いてしまったが、直ぐにあの医師の言葉を思い出した。
『少々、記憶が混乱しているようです』
あまりの恐怖に苛まれた時、人はその時の記憶を抑圧し、忘れてしまうらしい。それは人間が正常な生活に戻っていくための、まともな防衛反応なのだという。
時間を掛けてそれを思い出すこともあるようだったが、シアのこれも似たようなものだろう。
さて、何処から説明しようか。私は少しだけ悩み、ありのままを伝えることにした。

「あんたはクロバットの背中に乗って、空へ飛び立ったの。それを私が強引に引き留めたんだけど、その弾みであんたは下へ落ちてしまった。
幸い、下は海の浅瀬だったし、高さもそんなになかったから、岩に肩をぶつけただけで済んだみたい」

「……」

「大丈夫よ、事故の記憶が吹っ飛んでいることなんてよくあることだから。何も不安にならなくていいわ。
でも、直接の原因は私にある。私が急に、あんたを掴んでいた手を緩めてしまったの。だから私が悪いのよ、あんたの不注意じゃないわ」

そう告げながら、私は違和感という名の恐怖がじわじわと私の心を蝕み始めていることに気付いていた。
淡々と事実を告げる私の言葉を、シアは驚く程に静かに、真剣に聞いていた。
何かが、おかしい。

つい2時間前、彼女は「アクロマさんが死んでしまう!」と、完全に落ち着きを失い、叫ぶように私へと訴えてきた。
そんな彼女の姿からは信じられない程に、今の彼女は落ち着いていた。落ち着き過ぎていたのだ。私はその姿に恐怖を抱いた。
けれどその恐怖を更に上回る衝撃が、次の彼女の言葉に待ち受けていたのだ。

トウコ先輩、私はクロバットにさらわれたんですか?」

記憶の、混乱。
私は心の中で医師に問う。「混乱」で、こんなことを口走ってしまうのかと。
彼女が譲り受けるでも託されるでもなく、自ら捕まえた唯一のポケモン。それがクロバットだった。どんなポケモンよりも早く先制を取るのだと、彼女は誇らしげに話していた。
そんなクロバットのことを、あろうことか彼女は「野生」のそれだとした。
「正常」な彼女なら、クロバットと聞けば自らのパートナーのことだと思うだろう。事実、私も「クロバットの背中に乗って飛び立った」と説明したのだから。
それなのに、彼女はそのクロバットに「さらわれた」とした。その理由に辿り着きたくはなかったが、他の結論を捻り出すことがどうしてもできなかった。
しかし私はその結論を強引に無視して、気丈に笑ってみせることを選んだ。

「何を言っているのよ、クロバットはあんたのポケモンでしょう?」

「私が、ポケモンを……?」

彼女は本当に驚いたように、その青い綺麗な目を丸くした。
私は今度こそ笑顔を作っていられなくなって、引きつった頬をそのまま硬直させて沈黙した。

シアが、クロバットのことを覚えていない。その事実は疑いようもなかった。
そして、今のシアの発言から察するに、彼女は自分がポケモントレーナーであったことを忘れているのだ。
おそらくはクロバットだけでなく、アララギ博士から貰ったミジュマルや、アクロマから託されたというロトムのことも覚えていない筈だ。
しかし、私のことは覚えている。トウコ先輩、と私の名前を呼んだ彼女は、私のことを忘れてはいないのだ。

私は衝撃とショックに鈍る頭を脳内で叱咤した。今は彼女に起こっていることをできるだけ正確に把握しておかなければならないと思ったからだ。
私のせいだと自分を責め、嘆くことは、それからでも遅くないのだから。

「今は何月か分かる?」

「え、2月じゃないんですか?」

シアはそう紡ぎ、病室の壁に掛けられているカレンダーが8月を示していることに驚きを示した。
予感が確信に変わる。私は声が震えそうになるのを押し留めて、彼女にもう一つの質問をした。

シア、あんたは何歳?」

「12歳です」

違う、本当なら彼女は今、13歳である筈だった。
私は「違うんですか?」と不安げに尋ねる彼女をそっと抱き締めて笑った。

「ちょっと記憶が曖昧になっているみたいね。でもきっと直ぐに思い出せるわ。一度には無理だけど、少しずつ、あんたの記憶にない部分のあんたを説明してあげる。
きっと驚くわよ、あんたはイッシュのポケモンリーグでチャンピオンになったんだから」

おどけたようにそう言って笑った。
きっと直ぐに思い出せる。その言葉はシアへ言い聞かせたものだったが、私自身を励ますための言葉でもあったのだ。
大丈夫、大丈夫だ。きっと彼女は記憶を取り戻す。今は少し、混乱しているだけ。その絶望に蓋をするために、少し余分なところまで塞ぎ過ぎてしまっただけ。
案の定、チャンピオンと聞いた彼女は驚きの声をあげる。その反応がおかしくて私は笑った。私のことを覚えてくれていたことだけが唯一の救いであるように思われた。

彼女の記憶は、1年半前の冬、アクロマと出会ったという3月の直前で止まっていた。

2015.2.18

© 2024 雨袱紗