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記憶障害には、事故などの外傷によるものと、心因性のものとがあるらしい。
頭に派手な外傷がなくとも、激しい揺れによる脳震盪でこうした記憶障害が起こることがあるのだという。
今回の場合、大きなショックと、頭をぶつけた事故とが同時に起こってしまった。彼女の記憶の退行は果たして、心因性のものだったのか、それとも外傷によるものだったのか。

私が改めて話した彼女の状態を聞いた医師は、「精神性のものであるという可能性の方が大きいでしょう」と紡いだ。
「事故で頭を軽くぶつけたのはきっかけに過ぎない」という彼の説明が、医学的な観測によるものだったのか、それとも私を庇うための言葉だったのかは私には解らない。
けれど外傷によるものか、精神的なものか解らないという事実、そして医師の「精神性のものであるという可能性が高い」という言葉は、確かに私の心を軽くした。

「転落の恐怖に引きずられるようにして、そのお二人が消えてしまったショックをも忘れようと脳が働いたのでしょう。
もう一度検査をしましたが、やはり脳の方に異常は見つけられませんでした」

「……」

「直ぐに全てを思い出すかもしれません。数か月かけてゆっくりと思い出していくかもしれません。
あるいは彼女にとって本当に辛い記憶であるのなら、もう思い出すことはないのかもしれません。……記憶障害については、今の医学でも解らないことが多いのです。
いつ記憶が戻るのか、果たしてそれが本当にシアさんにとっていいことなのか、それらを私が断言することはできません」

頭に白髪の混じった、経験豊富そうな男性医師は私にそう告げてくれた。
私はそれらを脳内で咀嚼し、頷き、……そして、思い出さないままの方がいいんじゃないだろうかと思い始めていた。

これ以上、シアが大きな荷物を背負う必要なんか、何処にもないのだ。
ゲーチスがシアを殺そうとしなかったなら、彼女がプラズマ団と戦わなかったなら、彼女がアクロマと出会わなかったなら、私が彼女を旅路へと送らなかったなら。
全て、何もかもが起こらなかったなら、こんなことになることもなかったのだ。彼女は、旅に出ない方がよかったのかもしれない。私はそう、思っていた。
だから私は、最低な選択をした。

医師の説明を聞き、私はシアが入院している個室のドアを勢いよく開けた。
シアはその音に少しだけ驚いたが、やがてクスクスと笑い出したのだ。

「私の家に遊びに来てくれる時も、いつもそうやって乱暴にドアを開けていましたよね」

その言葉に私は笑った。……そうだ、シアは私のことを覚えている。だからきっと、何の問題もない。
私はシアが腰かけているベッドにころんと転がった。私のそんな、いつもの堂々とした遠慮のない行動に彼女は安心したようにまた笑った。
私はさて、何から説明しようかと悩み、取り敢えずはシアがポケモントレーナーだったことを話すことにした。

「あの年の夏、あんたはアララギ博士からポケモンを貰って、旅に出たの。イッシュの8つのジムを巡って、ジムバッジを手に入れた。
そしてポケモントレーナーの最高峰であるポケモンリーグに挑戦して、チャンピオンになったのよ」

シアの鞄からバッジケースを拝借し、8つのキラキラ光るバッジを見せれば彼女は本当に驚いたようで、「わあ、綺麗……!」という感嘆と共にそれを受け取った。
一つ一つ、手に取って、病院の真っ白な蛍光灯にかざす。その輝きに目を細め、綺麗ですねと繰り返して微笑む。
全てを手に取り、丁寧にバッジケースに仕舞った後で、彼女はやはり首を傾げた。

「これを、私が?」

「そうよ。シアと、シアの連れていた3匹のポケモンが戦った証」

「私は、どんなポケモンを連れていたんですか?」

私はシアの、海に濡れてまだ乾ききっていない鞄を放り投げた。慌てて手を伸ばしてそれを受け止めた彼女に「自分で確かめてみなさいよ」と肩を竦めてはにかむ。
シアは鞄のあちこちを探し、ようやくサイドポケットから3つのモンスターボールを取り出した。
そして、その一つをあろうことか振りかぶって投げようとしたのだ。大きく横に振りかぶったその手に、私はいつものシアを重ねて、驚く。
次の瞬間、彼女は肩の傷口を思い出したように小さく悲鳴を上げて、ボールを取り落とし、うずくまった。
ダイケンキの入っているボールが、病室の床にコトンと落ちてゆっくりと転がる。
私は慌てて駆け寄り、呆れたように彼女の額を指でピンと小突いた。

「また手術室に入りたいの? 縫ってくれた傷が開いちゃうわよ」

「そ、そうですよね、すみません。でも、モンスターボールってこうやって投げるものですよね」

私は目を見開いた。
ボールの投げ方には個性が出るが、私は基本的に野球選手のように投げる。大きく上に振りかぶるのだ。それが一般的なモンスターボールの投げ方だとされている。
しかし、シアの投げ方は少し違っていた。所謂、サイドスローなのだ。自分の目線の高さ程に手を掲げ、それを大きく手前に引いてから横に投げる。
彼女曰く「これが一番、素早く投げられるのだ」と言っていた。
プラズマ団との戦いなどでは、ボールを投げる時間の差さえもバトルに影響を与える。彼等はこちらがボールを投げる暇など待ってはくれないのだ。
故にその投げ方は、彼女が独自に編み出した、彼女だけのものだった。それを彼女の心は忘れてしまっても、身体にはしっかりと染みついたまま残っていたのだ。

「……どうかしましたか?」

コロコロと転がっていったダイケンキのボールを拾った彼女が、不思議そうにそう尋ねる。
彼女が全てを思い出すのは、そう遠くない未来の話なのかもしれない。

「……」

瞬間、私の中に湧き上がった感情は最低なものだった。
思い出してほしくない、なんて。何も思い出すことなく、シアが大切だとするあの二人のことなんか忘れて、このまま平和に暮らしてほしい、なんて。

思い出さないでほしい。
私はその正直な感想に蓋をして、おどけたように笑ってみせた。

「それはあんたの投げ方よ。あんたみたいなサイドスローをする人間を他に見たことがないもの」

「え、」

「身体はちゃんと覚えているのね。思い出すのにもそう時間は掛からないかもしれないわよ」

瞬間、とても嬉しそうに微笑んだ彼女の顔を見ていられなくなって、私はダイケンキの入ったボールに視線を落とした。
ポケモン、出してみないの?と尋ねれば、彼女は「そうでしたね」と笑い、今度は左手でそっと宙にボールを投げる。
出てきたダイケンキは、躊躇うようにそっとシアへと歩み寄った。彼女も少しだけ恐れるようにその青い体に触れ、微笑む。

「私はミジュマルを貰ったんですね。トウコ先輩も確か、初めてのポケモンはミジュマルでしたよね」

私は相槌を打ちながら、次のボールを渡す。
デザインの違うそのボールに、シアは首を傾げて「ボールには色んな種類があるんですか?」と尋ねてきた。
まるでポケモントレーナーになりたての人間のような質問に私は苦笑しながら答えていく。
そのハイパーボールの中には、クロバットが入っていた。彼はシアを海へと落としてしまったのは自分のせいだと言わんばかりに消沈した態度でボールから出てきた。
シアが海に落ちてしまったから、責任を感じているのよ。そう告げればシアは驚きに目を丸くして、クロバットの翼をそっと撫でる。

「貴方のせいじゃないから、落ち込まないで。心配してくれてありがとう」

その言葉だけ聞けば、シアが何もかも思い出しているのだと錯覚してしまいそうになる。
けれどシアは、このクロバットのことも覚えていない。ハイパーボールのことも、貰ったミジュマルのことも、覚えていない。
もし何かを思い出すとすれば、それはきっと、残り一つのモンスターボールの中に眠っているのだろう。

シアはそのボールを私から受け取り、そっと投げた。
現れたロトムも、先程の二匹と同じように、心配そうにシアを見つめている。
シアはそのロトムにとても驚いたような表情を見せた。私の心臓は大きく跳ねた。思い出すな、と、私の心が悲鳴をあげていた。
思い出させたくない。けれどきっと、シアはそれを望まない。私はどうすればいいのだろう。

「……」

しかしシアはロトムを目の前にして、ダイケンキの時のようにその身体に触れることも、クロバットの時のように声を掛けることもしなかった。
その青い目は、瞬きを忘れたように真っ直ぐにロトムを見ていた。私は声を掛けることができなかった。
思い出させたくない。けれどきっと、シアはそれを望まない。

「きっと、私にとってとても大切な子だったんですね」

私は息を飲む。

「だって思い出せないことが、こんなにも悔しいから」

思い出させたくない。そして、きっとそれは間違っている。そんなことは誰よりも解っている。
けれど、無理だと思った。私の口から、あの二人のことを伝えることはできそうにない。私には、できない。
彼女が望んでいることだとしても、彼女が傷付くと解っている記憶にシアを放り込みたくはなかったのだ。どうしても、それだけはできなかったのだ。

だから私は、シアの記憶が取り戻されることを誰よりも望むであろう人物が、彼女の元へと戻って来る日を待つことにした。
それは、私が想定していたよりもずっと早くやって来ることになるのだけれど。

2015.2.18

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