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少しだけ、緊張した。この心臓の締め付けられるような感覚は、冬のあの日に似ていた。
私を殺しかけた彼の元へ、毎日のように通った日。彼のいる部屋へ通じるドアを開ける時にも、同じような緊張感があった。
愚かなことだと一笑に付されるだろうか。馬鹿げたことを叱られるだろうか。お前に守られる程落ちぶれてはいないと、いつかのように皮肉が飛んでくるのだろうか。
私は彼の病室へ続くドアを開け、彼へと歩み寄る。

彼はその隻眼をこちらに向けた。
そして投げられた彼の言葉は、私の予想していたどれとも違っていた。

「痛みますか」

その言葉に私は少しだけ驚く。そっと私の左腕に手が伸べられた。
興味のなさそうな冷たい目をしているが、もう彼の心中を察することが出来ない程、私は愚かではなかった。

「いいえ。……でも、もう少し触れていてください。いつか、私が貴方にしていたように」

そう返せば、今度こそその目が大きく見開かれる。
しかし彼は何も言わなかった。その細く大きな手で、私の腕をそっと包んだ。

「細いですね」

「そうですか?」

「こんな腕に突き飛ばされたのかと思うと情けなささえ込み上げてきます」

強く眉をひそめた彼に苦笑した。
私も成人男性を片手で突き飛ばせるとは思っていなかったが、やはり人間は、いざという時には思った以上の力を出せる生き物らしい。

「あの子供はどうしました」と尋ねる彼に、先に帰ったらしいというトウコ先輩の言葉をそのまま伝えると、彼は不自然に会話を切った。
何か気掛かりなことがあるのだろうか?しかし私はその不自然さに気付かない振りをした。
今の私は、とてもではないがその全てを抱えきれる程の余裕を持ってはいなかったからだ。
沈黙を持て余し、外を見る。冬なら真っ暗になっているであろう夕方の空はまだ少しだけ太陽を残しており、綺麗な赤を放っていた。
海は夕日の色を吸って真っ赤に燃えている。キラキラと光るそれは、氷の断面にも似ていた。

「お前に言いたいことがあります」

徐にゲーチスさんが呟いた。慌てて視線を戻すと、彼は私の左腕から手を放し、その指を真っ直ぐに私の頬へと向けた。
そして、走る痛み。容赦無く頬をつねった彼に、10針縫う怪我の時とは比べものにならない程の悲鳴をあげる。

「盗み聞きとは感心しませんね」

「痛い! 痛いですゲーチスさん!」

無表情でそう告げる彼に、私は大声で抗議する。ごめんなさいと涙ながらに訴えればようやく放してくれた。
どうやら彼が怒っているのは、彼とジュペッタのダークさんがしていた会話を私が盗み聞きしていたことの方にあるらしい。
アブソルのダークさんだって共犯ですよ、という言葉を飲み込んで私は苦笑した。
彼がつねった頬の痛みを代償として、あの時、私の耳にあの言葉が届いたのだとするならば、それはしかし、代償としては小さすぎるくらいだと思った。

「何か不安要素があるなら、直接言いなさい。世間はお前に注目してくれる人間で溢れている訳ではないのですよ」

私の鈍い頭は数秒遅れて、ようやくその内容を咀嚼し終える。

「直接って、ゲーチスさんに?」

「他に当てがあるのですか」

「いいんですか?」

その確認に、彼は沈黙という名の肯定を返した。そのことに私は安堵していた。胸の奥でくすぶる不安を、見逃していた。
この時、聞いておけばよかったのだ。貴方はもう生きることが屈辱だとは思っていないのですかと、尋ねておけばよかったのだ。
彼から完全に死の影を取り払うには、それしかなかったのだ。それなのに私は、そのチャンスを自ら逃してしまった。
もっとも、そう尋ねたところで、私の望む答えを彼が返してくれるとは限らなかったのだけれど。

もう夏も終盤に差し掛かっていた。
秋にはジョウト地方へ行ってみよう。そこには鮮やかな紅葉に彩られた小道があるらしい。
Nさんが旅先で見つけたらしいそこは鈴音の小道といい、伝説のポケモンが降り立つ場所なのだとか。
それにジョウト地方といえば、いかりまんじゅうの故郷だ。彼へのお土産には困らない。

いつものドアをノックして、入る。検査に出ているのか、彼の姿はまだ見当たらなかった。
私がいつも座っている椅子には、スケッチブックが開いたまま、無造作に置かれていた。そのページには、随分前に描いた緑色の海が揺れていた。
ジュペッタのダークさんか、あるいはゲーチスさんが眺めていたのだろうか。私は小さく笑ってそのページを捲り、新しいページを開く。
『海や空を青で書かなければいけない決まりなどない。もっと色を混ぜてみなさい』
彼にそう言われて以来、スケッチブックには鮮やかな海が増えている。昨日、青と緑をまたしても使い切ってしまい、新しい色鉛筆を買いに走った。

朝、イッシュ地方からこの町へと飛んでいると、朝の霧がかかったような空気の中に、昼とは違った海の色を見ることができる。
その不思議な色彩を、私は緑の色鉛筆で表現していた。彼の元へ向かう時の海には、澄んだ緑の色が混ざっているのだと、彼に嬉々として説明した記憶はまだ新しい。
新しい色鉛筆はちゃんと自宅で削ってきている。鞄からそれを取り出し、ケースの中の短い色鉛筆と入れ替えた。
24色の色鉛筆が、それなりの長さで、金属のケースに綺麗に並んでいる。それを見るだけで心は浮き立つ。
けれどその時、私の中に浮き上がって来たのは、色鉛筆を手にした時の高揚感とは、全く別のものだった。

何かが、おかしい。

「……どうして、」

ガシャン、と色鉛筆のケースを取り落とした。私は震える足を叱咤して、部屋の中を掻き回すように探した。
何も、何もない。ベッドの下に置かれていた外履きも、ベッドの傍の引き出しに仕舞われていたNさんの写真も、その上にあったマグカップも、
患者用のカルテも、彼の黒いコートも、いつも読んでいた本も、全て、全てなくなっていた。

私が置き忘れた、3冊目のスケッチブックだけを残して。

ベッドの傍にあったナースコールに飛びつき、恐ろしい勢いでボタンを連打した。
無機質なコール音が鼓膜を揺らしていた。その時間は永遠に感じられていた。早く、早くと念じるようにそう呟いていた。

『はい、どうされましたか?』

「こ、此処にいたゲーチスさんは?」

『ゲーチス様なら、今日の朝早くに退院されましたよ。予定日は来週だったのですが、急に予定を変更されて……』

私はその受話器を放り出し、勢いよく窓を開け放った。
外に向かってボールを投げる。出て来たクロバットに縋り付いた。取り落とし、床に散らばった24の色のことを、私はすっかり忘れてしまっていた。

「ジャイアントボールに飛んで! 早く!」

私は焦っていた。脳裏でサイレンが鳴り響いていた。
どうして何も言わずにいなくなってしまったのか、どうして今、このタイミングだったのか。それらを吟味できる冷静な思考を、この時の私は持ち合わせてはいなかった。

私の中に根付いていたトラウマと呼べるものは、彼に殺されかけた1年前のあの瞬間だけだと思っていた。けれどどうやら違ったらしい。
夜中の海が彼の背中を飲もうとしていたあの瞬間、あの時の恐怖を私は忘れてはいなかった。
死んでほしくない。その一心で寄り添い続けてきた筈だった。退院も決まり、私は安心しきっていた。それなのに、どうして。

どうして今、この場に及んで、彼は再び死を選ぼうとしているのか。

私は油断していた。冬の時と同じように、今回も彼を見つけられるのだと思い上がっていたのだ。
偶然は2度続けて起こらないということを、私は忘れていたのだろう。

震える手が何かを握り締めていることに気付き、私はその左手をそっと開く。
短くなりすぎてもう手に構えることもできなくなってしまった、緑の色鉛筆がそこにはあった。私はそれを強く、強く握り締めた。
怖い。……怖い。

私は彼を止められないかもしれない。

2013.6.15
2013.1.21(修正)

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