寒い場所、冷たいものは何よりも嫌いだった。
冬には大量の防寒具を着込まないと外に出られなかった。春になっても、朝や夜の空気の冷たさが怖かった。ヒウンアイスだって、数か月前までは食べられなかった。
それらはあの時の確かなトラウマとして、少女の心に深く刻まれていた筈だった。少女に死を突き付けたあの冷たい一瞬を、少女はいつまでも忘れられない筈だった。
勿論、今だって忘れてはいない。忘れられる筈がない。けれど、いつのまに克服していたのだろう。
少なくとも春の雨ですら恐ろしかったのだから、つい最近である筈だ。
ああ、ゲーチスさんが右腕の痛みを感じなくなったのも、こんなプロセスを辿ってのことだったのかな。
少女はそう思考する。痛みで頭を働かせることなどできない筈なのに、ひたすらにそんなことを考えている。
しばらくの沈黙の後、トウコがナースコールのボタンを叩きつけるように押した。「早く来て!」と、半ば叫ぶように懇願している。
Nは廊下に飛び出し、職員を直接呼びに行く。2人のダークもそれに続いた。アクロマは少女に駆け寄った。
そんな中、ジュペッタのダークだけは、真っ直ぐにレパルダスを連れた少年の元へと駆け寄った。
自分の大切な少女を傷付けてしまったことへの驚きと恐怖から、彼の顔からは血の気が引いていた。そんな彼の手首をダークは軽く捻り、身体の自由を奪った。
「よく見ていろ」
「!」
「あれが、お前が憎んだ男の姿だ。欲望のままにイッシュを掌握しようとした男の姿だ。かつて人間の情を一笑に付した、愚かな男の姿だ」
突き飛ばされた衝撃からようやく立ち直った男は、目の前の光景に愕然とする。
それは、いつか望んだ光景だった。一年前ならハッピーエンドに限りなく近い光景だった。
氷タイプのめざめるパワーを食らい、左の上半身を棘のような氷に覆われた少女が、その腕から大量の血を流して倒れている。
しかし男が受けた衝撃は、その惨状によるものではなかった。
少女はその激痛に悲鳴を上げることも泣くこともせず、ただ、自分の名前を呼んでいたのだ。
男の恐怖はそこにあったのだ。
「ゲーチスさん、大丈夫ですか?」
その言葉に、アクロマは少女へと伸ばしかけていた手をぴたりと止めた。
これは何の冗談だと男は思った。少なくとも、半身を凍らされて大量に出血しながら言う言葉ではないことは確かだ。
この子供に突き飛ばされた衝撃の他には、自分は全く無傷だ。それが益々、彼を苛立たせた。
「馬鹿な事を……!」
氷の割れ目を流れる赤の異質さに恐ろしくなった。自分も経験した筈なのに、どうしたらいいのか解らず呆然とする。
鈍く回転する頭で、出来る部分は止血しようとようやく思い至る。立ち上がりかけ、しかしそれは少女の右手により遮られた。
震える手で服の裾を掴んでいる。指先が白くなっていることから、相当強い力で握っているのだと分かる。
「聞いてください、ゲーチスさん」
「……今はそれどころでは」
「いいから聞いて!」
血の流れが緩やかになった。それが良い兆候ではないことを男は知っている。
直ぐにナースが駆け付けるこの環境ではあり得ない筈だったが、その経過は自分がキュレムに食らったそれと全く同じだった。
もしこの子供が、自分と同じように片腕を無くしてしまったら。
そんな想像は男に強い目眩を引き起こさせた。絶望という名の目眩だった。しかしそんな心配を目の前の少女は許さない。
「ゲーチスさん、私は貴方を守ります。貴方が好きだとか、そういうことを言うつもりじゃありません。
貴方が自分の命を簡単に捨ててしまえるような人だからです。自分を簡単に殺してしまえる貴方が、私を守ると言ってくれたからです」
その言葉にゲーチスは目を見開く。あの時少女はいなかった筈だ。
そしてようやく、あの時のダークの不自然さが氷解する。
『いいえ、ゲーチス様。我々が知りたいのは真実ではない、貴方があのようなことを言わせた理由です』
ダークは何としてでも男の口から本音を言わせたかったのだ。それは他でもない少女の為だった。
自分が直接なら言う筈のないことを、ダークを介して伝えさせるためだったのだ。
自分はそうまでさせなければ、この子供に伝えるべきことを伝えられないような人間なのか。
嫌気が差した。ひたすらに悔しいと感じた。しかしそれら全てを飲み込んで少女は笑う。
「だから私は貴方の傍にいます。貴方が私を大切だと言ってくれたから、私は貴方を守ります。誰に何を言われようと、傍にいます。ずっと!」
やっとのことで少女が紡ぎ終えた全ての言葉を、男は一つ残さず拾い上げる。
「……馬鹿な子だ」
それだけ紡いで、彼はその顔を伏せた。
氷の表面が少しだけ溶け、そこに小さな水溜まりを作った。
アクロマは少女に駆け寄り、その身体を抱き起こす。少女はその金色の目を見上げて微笑んだ。
ごめんなさい、と紡いだその謝罪の正体を、太陽の目をした男だけが知っていた。
*
「別にあんたに何かしようなんて思ってないわ」
トウコは病院の待合室でうな垂れるヒュウに言葉を投げた。
彼女は驚くことに、その少年を責めなかった。
「私も、あいつを殺してやろうと思ったことがあったもの」
「……」
「でもね、私はもう17歳になったの。出会った頃のNの年齢と同じ。超えてはいけない一線は、あんたと違ってわきまえていられる年齢になったつもりよ。
誰にも人を傷付ける権利はないの。たとえ傷付けられた側の人間だったとしても」
惜しむらくは、トウコにはヒュウの気持ちが理解できる。憎しみが生む怒りと力の強さを、彼女は誰よりも知っている。
しかし超えてはいけない一線は等しく引かれるべきなのだ。
『誰にも不正を働く権利はない。例え不正を働かれた側の人間だとしても』
それはトウコが読んだ、数少ない本の中の一節だった。理不尽な世界で生き抜く為のルールは厳粛で、しかしそれ故に尊いのだと彼女は知っていた。
「じゃあ、なんであんたは警察に通報しないんだよ」
「通報? どうして私が、そんな面倒なことをしなきゃいけないのよ。そういうのはシアの役目。あの面倒な男に寄り添うと決めた、あの子の仕事。
私は余計な口出しをせずに、シアを見守るって決めているの。部外者は引っ込んでいなさい」
そう言い捨てて立ち上がり、トウコは病院の廊下にある自動販売機へと向かった。
Nもミックスオレでいいよね、と尋ねるトウコに頷きながら、彼は沈黙を貫く少年に話しかける。
「キミにとって、カレが憎むべき人間だということは知っている。
でも、シアにも、ボクにも、ダークトリニティにも、カレは必要みたいだ。だから、もう少し時間をくれないかな。それまで、待っていてくれると嬉しい」
バタン、と手術室の扉が開く。合わせる顔が無いのだろう、ヒュウは慌てて外へ飛び出して行った。
出てきた少女の腕は10針、縫われている。痛々しい姿だが、彼女の腕は失われることなくしっかりと存在していた。
肩を竦め、困ったように笑う少女を、駆け寄ってきた白衣の男が壊れそうな程の力で抱き締めた。
「シアさん、貴方は何も解っていない!」
少女はその、喉の奥から絞り出すような掠れた声に目を見開く。
「貴方が大切だと思う人物の数だけ、貴方も同じように思われているのだと、どうして気付かないのですか」
その言葉は確かな温もりをもって少女の胸に突き刺さった。
けれど、と少女は思う。けれど私は、また同じことをするだろう。これ程までに私を案じてくれている人がいるにもかかわらず、私はまた繰り返すだろう。
だって私は、欲張りだから。
それで何かしらの不自由を被ることになったとしたら、それはきっと、求めすぎた私への罰なのだ。
「ごめんなさい」
少女は彼の言葉を聞き入れることができなかった。にもかかわらず、この人を悲しませたくはないと願っていたのだ。
その欲張りな願いは、これからも手放されることなどないのだろう。だからこその彼の手がそこにあり、つまるところ、少女は愛されていたのだ。
しかしその温もりの正体を彼女が知るのは、もっと、ずっと後の話だ。
2013.6.15
2015.1.21(修正)