W 夏ー5

その後、3人はコガネシティのデパートに足を踏み入れた。
「Nさんはこれからも旅を続けるんでしょう?それなりに荷物を持っていないと危ないよ」
そう言ってくれたコトネの厚意により、Nの旅道具を簡単に買い揃えることになったのだ。
購入したポケギアに、コトネは自分の番号を登録してNに渡した。「何かあったらここに電話して」と伝え、Nはポケギアの簡単な使い方を教わる。

購入した旅道具は、全てコトネとシルバーの出費だ。Nは無一文で、財布すらも持っていなかったからだ。
二人も持ち合わせが多い訳ではなかったため、ポケギアを購入すると、文字通り財布の中身は空っぽになってしまった。
「3人揃って無一文だね」というコトネの言葉に苦笑しながら、Nはデパートを出る。手にはシルバーが押し付けた、買い物のレシートが握られていた。

「返せるようになったら連絡するよ」

「……なるべく早く頼む」

シルバーにそう念押しされたが、Nにはどうすればあの通貨が稼げるのか、まるで見当が付いていなかった。
それもきっと、これからの旅で知ることになるのだろう。まだ彼には知らないことが多すぎた。それはポケモンとトレーナーとの関係だけの話ではなかったのだ。

一度、ワカバタウンに戻り、夕食を食べた後で、Nは彼等と別れることにした。いつまでも彼等の厚意に甘える訳にはいかなかった。
旅をする上で、彼等のような気さくで親切な人とばかり出くわせるわけではないことを、Nはよく知っていたのだ。
もう行っちゃうの?そう掛けられた声に、Nは頷く。

「また、困ったことや聞きたいことがあったら、いつでも連絡してね」

「ああ、分かった」

「それと、さっき話したお姉ちゃんのことだけど、お姉ちゃんは今、弁護士っていう仕事をしていて、ジョウトやカントーのあちこちを飛び回っているの。
だから何処かで会えるかもしれないね。空色の髪に空色の目で、黒いスーツを着ていて、ちょっと変なことをしている人がいたら、間違いなくお姉ちゃんだから」

その言葉にシルバーが苦笑し「それは流石にクリスさんに失礼じゃないか」と呟く。どうやらクリスという人物が彼女の姉の名前らしい。
覚えておくよ、と答えて、Nはレシラムに乗った。大きな翼を羽ばたかせ、夜の空へと舞い上がる。

「また来いよ!」

「!」

Nは去り際に掛けられたその言葉に驚き、慌てて下を向くと、シルバーが片手で大きく手を振っているのが見えた。
その隣では、負けじとコトネも両手で大きく振っている。Nも片手で大きく手を振った。
そして、彼が夜の闇に紛れて見えなくなるまで、二人の手は止まらず、その笑顔が変わることもなかった。

Nはレシラムの背中で考えを巡らせる。
……やはりそうだ。サヨナラという挨拶は、誰かを傷付けるものでは決してない。
それなのに「彼女」は泣いた。あの強気な彼女が泣き易い性質を持っているようには思えなかったが、Nの前では随分と涙脆いように感じられた。
Nは彼女の涙を、2回、見たことがあったからだ。

『私は、貴方に負けたくない。』
ライモンシティの観覧車で聞いた彼女のそうした言葉、あの時の涙の理由は少なからず察することができる。
無力な自分を不甲斐なく思う気持ち、やるせなさ。そうしたものをNは知っていたのだ。
しかし、別れに付随する涙の理由を、彼は突き止めることができずにいた。自分がポケモンの解放に葛藤していた、あの頃の感情とはまた随分と異なっている気がしたのだ。

Nは目を閉じて考え込んだ。
世界を変えるための数式よりも、「彼女」という一人の人間を理解する数式の方が難しい気がしたからだ。

また、難題を抱えてしまった。

それはあまり歓迎すべきことではない筈なのに、何故だかNは絶望していなかった。寧ろその思案には、若干の愉悦が含まれているように感じられたからだ。
その理由さえも解らずに、Nは益々考え込む。
複雑な世界を美しいと感じたその本質が、すぐ傍で輝いているような気がしたが、まだNはそれに掴むには及ばなかったのだ。

それからNは、隣町のヨシノシティにあるポケモンセンターで一泊した。
夜明けとともにポケモンセンターを出て、北に進む。途中のポケモントレーナーにバトルを申し込まれ、勝利すると僅かな賞金を手にした。
まだポケモンバトルに抵抗があったNは、その日を凌げる金額を手にした段階でバトルを止め、野生のポケモンの声を聞き、町に住むポケモンと話をした。

ジョウトではどの町でも、ヒトとポケモンとが同じ数だけ歩き回っており、とても賑やかだ。……イッシュはもっと静かだった。
Nが抱いたその印象は正しくもあり、間違ってもいた。
住む人の人数からすれば、圧倒的にイッシュの方が多い。しかしその人混みは一様にして静かだ。Nにはヒトの心を読む能力は備わっていなかったからだ。
しかしジョウトでは、ヒトの数だけポケモンがいる。彼等の声はいつだって明るく、楽しそうだ。
ポケモンの声が聞こえない人間にとって、ジョウトはイッシュよりも遥かに静かで、落ち着いた場所だ。
しかしNに見えた真実はそうではなかったのだ。Nは賑やかなこの土地をとても気に入っていた。

キキョウシティから南に向かうと、アルフの遺跡があり、そこでは大量のアルファベットを模したポケモンに遭遇した。
彼等はずっと昔から此処に住み付いていたらしい。古代の文字が意志を宿したらしいそのポケモンは、複数で空中にふわふわと並び幾つかの単語を形成していた。
そこにNは彼等の「寂しさ」を読み取る。その心の空白を埋めてくれるのは、やはりトレーナーでしかないのだろうか。
こんなにも多くで群がっているポケモンですら、ヒトと触れ合えないことに寂しさを覚えているという事実は、Nに衝撃を与えた。
元々、ヒトが作った文字から生まれたポケモンだから、そうした思いが強かったのかもしれない。
しかし彼等はNが此処にやって来たことに心から喜んでいる様子だったし、声からもそれが読み取れた。

そんな不思議なポケモンと別れ、Nは更に南へ進み、暗闇の洞穴へと足を踏み入れた。
真っ暗だと思っていたその中は以外にも明るく、一人のトレーナーがその事情を説明してくれた。

「あそこにいるトレーナー、いつも此処で修業をしているんだけど、そいつのロコンがフラッシュを使ってくれているんだ。
おかげで俺達は、こうして安全に洞穴を進めるって訳さ」

Nはそのロコンに話を聞くために、トレーナーに承諾を得ようとした。

「少しいいかな。キミのロコンと話がしたいんだが、構わないかい?」

「ロコンと?……変わったことを言うね。まあ、別にいいけれど」

その男性はやはり困ったように首を傾げ、しかし話をすることは許可してくれた。
Nは彼の足元にいるロコンの目線に近くなるように膝を折り、屈んでその声を聞こうとする。

「キミがこの洞穴を明るく照らしてくれているんだね。ありがとう」

そして聞こえてきた声にNは微笑む。
「有意義な話はできたかい?」と尋ねるトレーナーに、彼は大きく頷いてみせた。

「カレは、この洞穴を自分が照らして、此処を通るトレーナーを助けていることにとても誇りを持っているよ。
そしてキミともっと強くなりたいとも言っていた。道行くトレーナーが喜んでくれるのも嬉しいけれど、やはり一番見たいのはキミの笑顔だから、と」

「……へえ、驚いた。本当に話ができるのか」

修行の邪魔をしてすまなかった、と告げれば、彼は笑顔で首を振った。

「いやいや、礼を言うのは俺の方だよ。こいつの声なんて、俺はいくら聞きたいと思っても聞けないからな。貴重な経験をさせてもらったよ、ありがとう!」

その言葉にNは驚きを隠せなかった。
ポケモンの声が聞こえるという自分の力は、人を不快にさせるものでしかないとばかり思っていたからだ。
人を笑顔にさせたり、ましてやそのことで礼を言われたりしたことなど、殆どなかったように記憶していたからだ。

Nはまだ知らなかったのだ。
トウココトネが呟いた「狡い」という言葉には、ある種の羨望が込められていたことを。
彼に深い影を落としたプラズマ団という組織に属する団員の中には、Nのその力を崇拝し、尊敬していた者も確かに居たことを。
彼は何もかもを知らなさ過ぎたのだ。純粋で無垢を極めすぎた青年の苦悩はまだ、尽きない。


2014.11.6

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