W 夏ー3

「あらあら、イッシュから来たのね、ご苦労様。此処まで大変だったでしょう?」

コトネの母は楽しそうに笑いながら、Nの分のシチューも用意してくれた。

「……ありがとう」

「ふふ、礼儀正しい子ね。おかわりもあるから、沢山食べて頂戴」

コトネの家は、ウツギ研究所の隣にある、ごく普通の民家だった。
近くにある海辺には、ポケモン達が遊んでいて、コトネが彼等に向かって手を振ると、彼等も鳴き声や仕草で返事をした。
彼等の声を聞いて分かったことだが、あのポケモン達はコトネの姉のトモダチらしい。
家の中は以外にも広く、開放感のあるリビングには四角い木のテーブルに、5つの椅子が並べられていた。
その内の一つにNは座り、コトネから差し出されたスプーンでシチューを口に運ぶ。……そう言えば、最後に食事を摂ったのはいつだっただろうか。

「丸2日くらい、何も食べていなかったような気がする」

「え、2日も?……イッシュ地方から此処まで来るのに、2日も掛かるの?」

驚いた様子でそう尋ねられたコトネに、Nは苦笑して首を振った。
そんな筈はない。確かにイッシュとジョウトは遠く離れているが、ゼクロムに乗れば日を跨がずとも此処までたどり着くことができる。
彼の言う「2日」は、プラズマ団が解散して、「彼女」と別れたあの日から数えたものだった。
イッシュ地方でNは有名になっていたため、人通りのある場所に出れば目立ってしまう。
それ故に、彼はリュウラセンの塔という、人気のない場所を選び、これからのことについて考えを巡らせていたのだ。
……勿論、単身でプラズマ団の城から離れた彼が、食料を持っている筈がない。

「ゼクロムは半日で此処まで運んでくれたよ。ただ、食べるものがなかったから」

その言葉に益々驚いた様子を見せたコトネに対し、シルバーは冷静だった。彼はNの様子をまじまじと見つめ、考え事をしていたのだ。

彼の身なりや言葉遣いは、貧しい、荒んだ世界で育ったそれではなかった。にもかかわらず、彼は「食べるものがなかった」と口にする。
更にはイッシュから来たというのに、彼はモンスターボール以外、何も持っていなかった。普通、それだけの長旅をするのなら、大きな鞄くらい、持っていても良い筈だ。
しかし彼が身に付けていたものといえば、シンプルな衣服と、普通の靴、腕と腰についた奇妙なアクセサリーだけだった。軽装にも程がある。
その「おかしさ」にシルバーは気付いていた。彼に対する違和感を見据えてはいたが、その正体に辿り着ける程に彼はまだ聡明ではなかったし、何より情報が少なすぎた。

そのため彼は、Nに対する追及を今この場では飲み込んだ。
今、彼がこの温かい家で、自分をも救ったこの屋根の下で食事を摂れている、それが全てであるように思われたからだ。

「キミ達に聞きたいことがある。答えてくれるかい?」

「どうしたの?」

「ウツギ研究所の博士と話がしたい。どうすれば中に入れるのかと思ってね」

Nがこの、ワカバタウンという田舎町にやって来たのは、リュウラセンの塔でアララギ博士が言っていた「ウツギ君」に会う為だった。
しかし「どうすれば中に入れるのか」というくだりに、コトネとシルバーは首を捻る。

「何もしなくていいよ。ただそのまま入ればいいだけ。助手さんが、ウツギ博士のところまで案内してくれるよ。ご飯を食べ終えたら、一緒に行ってみる?」

Nはその誘いに頷く。頷いてから、驚いてスプーンを動かす手をぴたりと止める。
ポケモンの事を知るための施設。旅に出る子供にポケモン図鑑とポケモンを渡し、冒険の一歩を手助けする場所。
その場所が誰にでも開かれていることに彼は驚き、しかし直ぐにその表情を微笑みに変えた。いつかのアララギの言葉を思い出したからだ。

『あなたの意見もひとつの考え方なら、私の願う所も、同じくひとつの考え方よ?ポケモンとどう付き合うか。それは、一人一人が考えて、決めればいいんじゃない?』
きっとポケモン研究所というところは、そうした変化を許す場所なのだ。
ポケモンとの在り方の手本を押し付けることなく、個人の探求と結論に委ねる強さと優しさを持つ場所なのだ。

Nは思う。きっと「こちら」の世界が真実だったのだと。
彼が暮らしてきたあの小さな世界は、酷く歪んでいて、しかしそこで過ごした時間の長さと、ポケモンの声に飲まれた自分は、こちらの世界を受け入れることを恐れたのだと。

「ごちそうさま」

そして目の前の少年、シルバーは、Nにとって聞き慣れないその挨拶を紡いだ。
しかし「それは?」と尋ねることが何故か憚られて、Nはシルバーと同じように両手を合わせた。

「……ごちそうさま」

ウツギ研究所では、見慣れないポケモンが自由気ままに廊下を歩いていた。
コトネがそれぞれのポケモンを指差して、説明をしてくれる。
大きな葉っぱの付いたポケモンがチコリータ。目の細い子がヒノアラシ。大きな顎を持っている水色のポケモンがワニノコ。
キミのチコリータも此処で貰ったのかい、と尋ねると、彼女は苦笑して首を横に振った。

「……ああ、コトネにはお姉さんがいるのか。彼女のメガニウムのタマゴから生まれたんだね」

思わずいつもの癖で、チコリータの声を拾い上げたNはしまった、と思う。
そうして拾い上げた声のせいで、好奇と嫌悪の視線を浴びることを知っていたのに。
しかし彼女はぱちぱちと瞬きをして、ふわりと優しく、しかし少しだけ悲しそうに笑ってみせた。

「私もチコリータとお喋りしてみたいなあ。Nさん、狡いよ」

その言葉に、Nはいつかの「彼女」を重ねる。『狡いわ』と絞り出すように紡がれたその言葉を、彼はすぐ傍で聞いた気がした。
『私とフタチマルはもう何日も一緒に居たのよ。Nはほんの数回この子と会っただけでしょう。
それなのに、貴方は目の前でこの子の声を拾うじゃないの。
そんな力を持った貴方がトモダチの幸せ、なんて言うと、私はどうすることもできないのよ。だって私には声が聞こえないから。』
コトネはとても彼女に似ている。しかし彼女と違って、別段、苦しそうな様子はない。

「しかし、キミは声がなくともボクのトモダチの思いを汲んだじゃないか」

その言葉に、コトネは嬉しそうに「ありがとう」とお礼を言う。
何故、自分が彼女を励ますようなことを言ったのか、そして何故、それに対して彼女が「ありがとう」と言ったのか、今のNにはまだ分からなかった。

「やあコトネちゃん、それにシルバー。またポケモンの遊び相手をしてくれるのかな?」

そう言って、本棚の影から姿を現した男性に、コトネとシルバーはぺこりとお辞儀をした。

「こんにちは、ウツギ博士。この人、Nさんっていうんです。博士に会いたいらしくて、連れて来ちゃいました」

「おや、珍しいね、僕にお客さんだなんて」

彼は二人の後ろに居たNに視線を向けた。はじめまして、と手を伸ばされたので、Nもその手をそっと握る。
ウツギの方がNよりも背が低かったが、手を握るその力はウツギの方が力強く、そういう握手の仕方をする人だと把握できていないNは僅かに焦った。
どういった御用かな?と尋ねる博士に、落ち着きを取り戻したNは口を開く。

「この地方に、イッシュにはないポケモンとの関わり方があると聞いてね。何か知らないかい?」

すると、ウツギとコトネが一瞬にして互いの顔を見合わせた。
連れ歩きのことでしょうか?とコトネが呟く。そうかもしれないね、と笑い、ウツギは再びNに向き直った。

「知っているも何も、その関わり方を作り出したのは僕なんだ。ジョウト中にそれを広めてくれたのはコトネちゃんなんだけどね。
……とは言っても、このワカバタウンにはあまりトレーナーがいないから分かり辛いかもしれないね。コガネシティに行ってみたらどうかな?」

彼がそう言い終わるや否や、コトネはNの手を強く引いた。

「じゃあ、コガネシティに行こうよ。そこで詳しく教えてあげる。博士、それでいいですよね?」

「そうだね。年の近いコトネちゃんやシルバー君と一緒の方が話も弾むだろうし、気を付けていっておいで」

ひらひらと手を振ったウツギ博士に背を向け、コトネは外へと駆け出した。シルバーもそれに続く。
新しい町で、一体何を見られるのだろう。Nは自分の心臓が不自然に跳ねていることに気付いていた。しかしその理由を突き止めるには至らず、首を捻ってから、二人の後を追った。


2014.11.6

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