「ここが有名なウツギポケモン研究所……」
ジョウト地方のワカバタウン。そこには一人の少女が住んでいた。
彼女はほんの少し前、ジョウト地方とカントー地方を巡り、ジムバッジを16個集め、ポケモンリーグで2回の殿堂入りを果たしていた。
家族は5歳上の姉と、双子の弟。そして母親。ささやかな、けれど幸せな家庭。そんな家族に新しい人物が加わったのも、これまたほんの少し前の話だ。
そんな少女は、隣のウツギ博士のポケモン研究所を通り過ぎようとして、あまりの驚きに口をぽかんと開けたまま立ち尽くすことになる。
「……ねえチコリータ。こういうの「既視感」っていうのよ。難しい言葉だけれど、きっとこういう時に使うのね」
初めて出会った時の「彼」と同じ口調で、同じ窓から研究所を覗き込む人物がいた。
長い緑色の髪を一つに束ねている。ぱっと見た時には女性かと見間違えたが、その高身長と声の低さからして、おそらく男性だろう。
少女はその怪しい人物を、木陰から食い入るようにして見つめていた。帽子の上に乗っているチコリータも、同じように息を潜めていた。
……しかし。
「……おい、怪しいぞ」
「うわあっ!」
背後からいきなり声を掛けられ、少女は驚いて地面に尻餅をつく。
紅い髪と紅い目をした少年、今や彼女の「家族」と呼べそうなその相手が、呆れたように彼女を見下ろしていた。
この少年こそが今、コトネの家に居候しているポケモントレーナーであり、彼も少女と同じように、ジョウトやカントーを旅して、トレーナーとしての腕を上げていたのだ。
少年と少女の馴れ初め、そして今の関係に至るまでの経緯は、話せば長くなるので略そう。
結論から言えば、二人は既に心を許し合っていたし、誰よりも近い関係にあった。それを言い表す言葉を、まだ彼等は見つけられていなかったのだけれど。
「あ、怪しいのは私じゃないの。あのね、今、君にそっくりな人がウツギ博士の研究所の窓に張り付いていてね……」
そう言って少女は研究所の方を指差す。
しかしもう既に青年の姿はなく、地面に乾いた足跡が残るばかりであった。
「誰も居ないじゃないか」
「あれ、おかしいな。さっきまでそこにいたのに……」
そう呟いて首を捻る少女と、怪訝そうな顔をした少年の背後に、瞬間、長い影がぬうっと伸びた。慌てて振り返る二人の目の前には、先程の青年が立っている。
少女は再び慌ててひっくり返り、少年はその青年の背の高さにぱちぱちと瞬きをして驚く。
「キミのポケモン」
少女は言葉を失った。目の前の、穏やかに話す青年に、胸が締め付けられるような苦しさを感じた。
「今、話していたよね」
『なんだよ。人のことジロジロ見てんなよ。』
それは、そう言った青年の目があまりにも、初めて出会った時の少年に似ていたからだと思った。
最早懐かしささえ覚えてしまいそうな、あの頃の「シルバー」によく似た目で、よく似た抑揚で、この青年は冷え切った言葉を紡いだ。
青年があまりにも早口だったことと、いきなり喋り出したことと、その内容が理解できなかったこと。数々の驚きに二人は沈黙した。
その沈黙を「否定」と受け取ったらしい青年は、眉を下げて悲しそうに笑った。
「そうか。キミ達にも聞こえないのか。……可哀想に」
それは、Nがいつか「彼女」に向けて発した言葉であり、彼は意図的に同じ言葉を選んでいた。
どこの土地にも、ポケモンの声を拾うことのできる人間など存在しない。
そうしたNにとっての真実を、この場所で、この二人を相手に確かめたかったが故の言葉であった。
「声、っていうのが何なのか分からないけれど、でもポケモンのことは分かるよ」
しかし少女は首を傾げつつ、陽気な明るい、子供らしいはきはきとした声音で、Nのそうした悲しい確信を豪快に裏切ったのだ。
きょとんとした丸い目を、少女は青年に向けた。青年もその言葉に押し黙り、唖然とする。
聞き返されるか、はたまた笑われるか、そのどちらかだと思っていた。
彼はイッシュの世界を旅して、そうした人間が殆どを占めていること、そんな人間に理解を期待することは心を疲弊させるだけだと知っていたのだ。
こんなところで「裏切られる」ことなど、彼の計算のうちには入っていなかった。いきなり差し出された未知の解にNは驚き、狼狽えた。
「ふふ、信じてないんでしょう?」
「え、いや……」
予想外の言い方をされてしまい、Nは更に慌てる。
少女は楽しそうに笑いながら、青年のポケットを指差す。
「外に出たいみたいだよ。ボールから出してあげたら?」
その言葉を受けて、Nはそっとポケットの中に手を差し入れた。揺れるボールから発された声を彼は聞き取れば、それは彼女の発言に合致する内容だった。
先程まで空を飛んでいたレシラムはともかくとして、もう一つのボールの中に入っているポケモンは、ずっと出してもらえずに窮屈な思いをしていたのだ。
カレが「外の空気を吸いたい」「出してほしい」と願ったとして、それは当然のことであった。当然のことであると、この二人の子供は解ってしまえていた。
しかしNにとってそれは「当然」ではない。彼はまだ、言語を介さず心を通わせる術を知らない。
「可哀想だとかいう大口を叩く前に、自分のポケモンを労ってやれよ」
先程から顔を背けていた少年は、そんな棘のある言葉を青年に向けた。
青年は改めて、その二人を見遣る。12才か13才ほどの、幼さの残る子供だった。
少女の綺麗な栗色の髪はサイドで束ねられ、深い茶色をした目は、差し込んで来た日差しによって、琥珀の色にキラキラと瞬く。
少年の髪と目は深く落ち着いた赤色をしていた。このような色をした満月を、Nはどこかで見たことがある気がした。
琥珀と紅月。
そのような単語が彼の中にふわりと浮かんで、すぐに消えた。
Nは静かに笑い、ボールを投げた。出て来たのは、彼の幼い頃からずっと共に在った、パートナーとも呼べそうな存在だった。
数こそ少ないものの、イッシュではそれなりに有名なゾロアークだが、琥珀と紅月は揃って目を丸くして驚いていた。
「わ、ど、どうしよう、初めて見るポケモンだ……!」
此処がジョウト地方であることが頭から抜け落ちていた青年は、ああそうだったというように苦笑する。
先に長身の青年へと歩み寄ってきたのは、琥珀の方だった。
紅月は青年の方へと近寄るように、というよりはむしろ、琥珀と自身の距離を作らないようにと意識するような足振りで、用心深く一歩だけ、踏み出していた。
「初めまして、私はコトネ。ジョウト地方は初めて?このポケモンの名前は?何処から来たの?あ、それより、貴方の名前を聞かせて?」
自己紹介と質問を続けざまに重ねられて、流石のNも押し黙った。
隣の紅月が「おい、いきなり聞き過ぎだぞ」と注意する。我に返ったように「ごめんなさい」と謝る少女にNは首を振り、その質問に一つずつ答えていく。
「気にしなくていい。ジョウトは初めてだ。カレはゾロアークだよ。ボク達はイッシュから来たんだ。……名前は、N」
「Nさんにゾロアークだね、よろしく!」
「イッシュって、そんな遠くから来たのか?」
紅い髪の少年が驚いたように口を開く。
コトネと名乗った少女もその驚いた顔のままに、研究所の隣にある民家へと駆け出した。
「此処まで来るの、大変だったでしょう?私の家で休んでいってよ」
「いや、しかし、見ず知らずの相手にそんな世話になる訳には、」
驚きと焦りでそう紡ぐのがやっとだった青年に、コトネは振り返り、とびきりの笑顔で紡ぐ。
「大丈夫、もう知り合ったから。出会えたから、もう、遠慮なんてしなくていいんだって」
「?」
「お姉ちゃんが言っていたの。こういうの、「縁」っていうのよ」
聞き慣れない言葉を紡いで、コトネは「こっちだよ」とNを手招きする。
エン、とは何を意味するのだろう。それは偶然とはどう異なるのだろう。
サイコロを振るように決まるものなのだろうか。それとも生まれた傍からずっと、変わらずについて回る運命のようなものなのだろうか。
そうしたことを考えていたNは、余程難しい顔をしていたらしい。紅い髪の少年がぽん、とNの背中を叩いて「気にしないでくれ」と苦笑した。
「あいつはたまに難しいことを言うんだ。理解できなくても、それはお前のせいじゃない」
「……ああ、分かった」
「俺はシルバーだ。よろしく」
こちらを一瞥もしないままに、しかし優しい声音で紡いだシルバーは、コトネの後に続くように駆け出した。
Nも慌てて、その二人を追う。ボールから出たゾロアークがその後ろに続いた。
最初の出会いは複雑で、それ故に鮮烈な鮮やかさで彼の心に焼き付くに至ったのだ。
2014.11.6