W 夏ー1

まだ薄暗い空気に、朝の匂いが霞み始めていた。
青年は、リュウラセンの塔を訪れていた。この最上階は、彼と伝説のポケモンとの邂逅の場所だったのだ。
そして彼にとって、この場所はもう一つ、特別な意味を含んでいた。

『自分を大事にできない不器用なあんたの思いは、私がちゃんと拾ってあげる。
私は私の為に戦うけれど、そのついでにNのことだって救ってみせるわ。』

外の世界で出会った不思議な少女。彼女のその言葉が、青年の心に焼き付いて離れなかった。
彼女がその、少々荒っぽい言葉で紡いだその理想は、けれども確かな時を経て真実へと変わり、青年を救うに至っていた。

カツカツという足音が聞こえる。Nにはそれが「誰」であるのか、おのずから解ってしまう。
初老の男性のポケット、そこに入っているボールから、その男性を呼ぶポケモンの声が聞こえてくるからだ。

しかし彼、アララギもまた、この場所にNがいることを予測していたようで、
早朝のリュウラセンの塔、その最上階に先客がいることにも、その先客が、イッシュから忽然と姿を消した筈の青年であることにも、全く驚いた様子を見せなかった。
アララギは「やあ」と片手を上げて微笑む。目尻のしわが優しくすっと細められた。

「君がN君だね。こうして話をするのは初めてかな」

「……あなたはアララギだね」

「おや、知っていたのかい。いつものように「私もアララギなのだよ」と自己紹介しようと思っていたのだが、いや、失敗してしまった」

その言葉に、青年は電気石の洞穴での会話を思い出した。
『あなたの意見もひとつの考え方なら、私の願う所も、同じくひとつの考え方よ?ポケモンとどう付き合うか。それは、一人一人が考えて、決めればいいんじゃない?』
そう言った娘と同じく、陽気で優しい笑顔の中に、鋭い光を宿した人物だった。「彼女」と同じく、譲れない何かを宿した人物だった。

「君の後ろにいるレシラムに会っておきたくてね」

「レシラムに、何か用があったのかい?」

「いいや、そうではないよ。でも折角、伝説と呼ばれるポケモンが近くにいるんだ。一目見ておきたいと思うのは当然のことだろう?」

Nは振り返った。彼の真後ろに控えていたレシラムは、その言葉に閉じていた青い目をすっと開く。
白い身体は音を立てずに舞い上がり、アララギと名乗った男性の目の前に、まるで羽を落とすかのような静寂をもって着地した。

「……綺麗だね」

その大きさに圧倒されることもなく、彼はレシラムの翼にそっと触れた。
吸い込まれるように見入っていた彼と、翼に触れられても微動だにしないレシラムを暫く見つめている内に、Nは自分が微笑んでいる事に気付く。

「あなたは聡明な人だ。そして勤勉でもある。今の地位を手にするまでに、途方もない努力を重ねたのだろう。
もう表舞台は次の世代に譲るべきだ、と考えているようだけれど、あなたが弟子に、娘に、教えてあげられることはまだまだ沢山ある。謙虚になりすぎないことだ」

「おやおや、どうしたんだい?いきなりそんなことを言うなんて、いや、照れるなあ」

「……と、レシラムが言っている」

アララギはその照れたような笑顔のままにずっこけて、豪快に笑う。
その後でゆっくりと視線をレシラムに戻し、そんなことを言っていたのかい、と歌うように紡ぎながら、心地よさそうに目を細める。
その細めた目のままに、尋ねる。

「レシラム。君の選んだ英雄は、どんな人だい?」

沈黙が降りた。レシラムは、少なくともアララギの耳にはただ黙しているように思われて、アララギもまた同様に沈黙し、Nもまた、声を発さなかった。
しかし当然のことだが、その沈黙はNにとっては「沈黙」ではない。Nにはレシラムの声が聞こえる。この白いポケモンが何を言っているのか、分かる。

しかしアララギには聞こえない。聞こえる筈がない。ポケモンの心を読むという力、声を聴くという能力を、この男は持っていない。
にもかかわらず、聞こえない筈の声を伝えようとするように、アララギはレシラムの前でじっと目を閉じている。
レシラムもまた、声を届けようとするかのように、その白い翼でアララギの背にそっと触れる。
けれども双方の為す行為を、「不毛なことだ」とは思えなかった。それはただ不思議な光景として、長くNの目蓋の裏に焼き付くこととなった。

例えば、「ボクにはポケモンの声が聞こえる」と、この青年が口にした言ったとする。
信じない者が殆ど、馬鹿にするものが大半、感心するものがほんの僅か。
そして、自らも同じように、その声を求めようとポケモンと向き合い、……ポケモンもそれに答えようとしたのは、Nの知る限り、目の前のアララギで二人目だった。

『私は、貴方に負けたくない。でも勝てる筈がないの。だって私には武器がないのよ。貴方と戦うための武器が、何も。』
目を閉じれば、目蓋の裏で彼女が泣いていた。
ポケモンの心を読む力、それを「武器」と称し、それを振りかざすNを「狡い」と糾弾し、「悔しい」と泣いた彼女は、まだ鮮やかなまま、Nのすぐ傍にいた。

「……私には、レシラムの声は聞こえない」

「だろうね」

「だが、私の沈黙に応えようとしてくれるレシラムに救われたよ」

そのあまりにも優しい言葉に、Nは、自分が想定していたのとは全く異なる世界が、このイッシュには花開いていることを知る。
そこには確かな優しさと、ポケモンを求める気持ちがあり、言語を介さずとも彼等は確かに通じ合っているようであった。
そのような心の通わせ方を、残念なことにNは知らない。言語を介するという便利を極めた力をずっと行使し続けてきたのだから、今更、その力を手放しようがない。
手放した先のことなど、想像するしかない。

そうした、ヒトとポケモンとの間に生まれた絆を目の当たりにしながら、敢えて見えない振りをし続けたこともあった。
それに薄々気付きながら、自分に課された使命の為に、その優しさを否定し続けたこともあった。

しかし、それらはもう全て過去の話である。
今、此処にいる青年はもう、プラズマ団の王でもチャンピオンを越えた存在でもない、ただの、たった一人のポケモントレーナーなのだ。
彼はようやく、「彼女」と同じところに靴底を揃えることが許されたのだ。それは何もかもを失ったかに見えた彼の、確かな世界の広がりだった。

「これから、君はどうするんだい?」

そう言われてNは考える素振りを見せたが、これから向かう場所はもう、決まっていた。

「ジョウト地方へ行く」

「ジョウト?」

「そこでは、此処にはないポケモンとの関わり方があると聞いたから」

彼が思っていたより、外の世界は複雑だった。
美しい数式が意味を為さず、論理的でない個々人の欲望が一人歩きしていた。そうかと思えば、異なる命に歩み寄り、解ろうと接する優しさにも溢れていた。
世界は単純ではない。白と黒にはとてもではないが、分けられない。しかしそれ故の美しさが、もっとずっと遠くにも、広がっている。
彼はそう確信していた。そんな複雑で美しい世界を、彼自身の目で見たくなったのだ。

「そうか、ジョウトか……。あっちにはウツギ君やオーキド君っていう私の知り合いも居るんだ。気が向いたら、訪ねてみるといいよ」

Nはそれに頷き、レシラムの背中に飛び乗った。
大きな羽ばたきの後に、ふわりと舞い上がる。空へ向かって急上昇しようとした、まさにその時、アララギはNを呼び止めた。

「N!」

アララギは右手をヒラヒラと振り、Nに別れの挨拶をする。

「お腹が空いたら、カノコの研究所においで。君の好きなものをご馳走するよ」

ボクは果たして何が「スキ」なのだろう。Nはそう考えながら小さく頷いた。
その言葉が、身寄りを失くしたNへの精一杯の気遣いであったことを、彼が理解するのはずっと後のことだ。

レシラムは空へと舞い上がる。早朝の涼しい風がNの髪を乱暴に舞い上げる。
視線を落とせば、リュウラセンの塔の前景が一望できた。アララギは先程までと変わらぬ位置に佇んでおり、Nを見上げて大きく手を振っていた。
その顔には、朗らかな、陽気な笑みが湛えられていて、Nは少しばかり混乱する。

「別れはヒトを傷付けるものだと思っていたけれど、必ずしもそうではないみたいだね。

それならば、何故「彼女」は泣いたのだろう。何が「彼女」をあのように泣かせたのだろう。

レシラムに乗り、プラズマ団の城を離れたNを見送りながら、あの少女は必死に涙を堪えていた。
豆粒ほどの小ささにまで遠ざかった彼女が、泣き崩れるように膝を折った姿を、彼は見てしまっていた。
Nはそんな彼女のことが不思議でならなかった。彼女は事あるごとにNを変だと称したが、彼もまた、同じように思っていたのだ。

傷口を冷水に晒すように、自らの首元に爪を立ててさめざめと泣く少女の姿は、Nの記憶の中にまだ鮮明な色をもって留まっていた。
今のNにはその答えが出せない。しかしそれはもっと先、これから訪れる複雑な世界が教えてくれる筈だ。

これはそんな青年の旅。彼女に救われた自分の世界を彷徨い、答えを探すための旅。


2014.11.6

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