B 夏ー3

サクッ。サクッ。
クッキーをかじる音ではない。草むらを踏む度に足元から聞こえる乾燥した葉の音だ。
後ろから、まだ生まれたばかりで戦い慣れていないバニプッチがトテトテと付いて来る。彼が動く度に氷が水の中で揺れるような、涼しく優しい音が聞こえる。

サンヨウシティの中心から遠く離れたこの場所は、人の喧騒が届かない静かな場所だ。
そのせいか、静寂を好む多くのポケモンが住み着いている。
遠くでムンナが数匹固まって眠っているのが見えた。強い風が彼等をゆっくりと押し流していて、バニプッチと顔を見合わせた私は思わず笑った。
起きたら知らないところに流れ着いていた、なんて、さぞかしびっくりしてしまうことだろう。狼狽えるムンナの群れを想像しながら、私は歩を進めた。

目を瞑ると、静かな中にも沢山の音があるのが解る。風が草むらを撫でる音、靴が落ち葉を踏む乾いた音、ポケモンの鳴き声、遠くで聞こえる人の歓声。
躓いて枯れ葉の山に飛び込む音と、身体が揺れたことで一際大きな、リンリン、という鈴めいた音が響く。どうやらバニプッチが転んでしまったらしい。
起き上がろうとしてもがいているであろう、その小さな身体を探す。
しかし如何せん、草むらにすっぽりと覆われてしまう程の小ささなので、なかなか見つけることができなかった。
ようやく見つけた彼は、未だにわたわたと転がっていた。慌てて起こすと、拗ねたように音が鳴る。
冷たい息を顔に掛けてきた。冷凍庫に顔を突っ込んだような冷たさだ。

「わあ、冷たい!ご、ごめんね、許してよ」

ついと顔を背けていた彼だが、暫くしてカラカラと音が鳴る。どうやら許してくれたらしい。
その冷たい身体を腕に抱いて、歩き出す。

「……」

当たり前のように、沈黙が続いた。
私も無言であり、バニプッチも話していないのだから。

その「当たり前」を疑うようになったのは、いつからだろう。


『キミのポケモン、今話していたよね。』


あの日、強烈な早口で紡がれた彼の言葉は、旅だったばかりの私の世界を、全く予想もしていなかった方向に突き動かしたのだ。

「……」

草むらをよけて、コンクリートの日陰に寝転がった。この真夏に陽向へ座るのは、とくにバニプッチには自殺行為だ。
目を瞑ると、沢山の音が聞こえる。ポケモン達があらゆる所に居ることが解る。
しかしそれらの鳴き声が、私の耳に「声」として届くことはない。

『そうか、キミたちにも聞こえないのか。……可哀想に。』

私を完全に見下したその視線と言葉に、先ず私の中に湧き上がったのは憤りだった。
見ず知らずの人間に「可哀想」などと言われる筋合いはない。私からすれば、そんな風に他人に突っかかる彼の方が余程可哀想に見えた。
しかし、その言葉の意味に、私は旅を続けていく中で、嫌でも気付くことになる。
気付いて、憤りではない他の感情が次々と生まれてくるのだ。

「……」

徐に上を見上げた。廃墟であるこの建物には、歪に欠けたコンクリートの壁や天井が数多くある。
私は丸くくり抜かれたコンクリートを通して空を見上げる。
こんな囲まれた、狭い空の下に居るはずがないと思いながらも、私は堪らずに手を伸ばした。

彼は何処に居るのだろう。

……そして行き場をなくした私の手は、隣で同じように転がっているバニプッチに行き着く。その冷たい身体を、そっと撫でる。
静かだ。誰も喋っていないのだから、当たり前だ。
此処には私とバニプッチ、草むらに野生のポケモンがいる位で、それらと自然の音の他には、声など、此処にはない。

本当に?
そう耳元で、彼に囁かれた気がした。

「あいつみたいに、君の声が聞こえたらいいのに」

抉られるように開いた喪失感を埋めたくて、私はバニプッチに話し掛けていた。

「話し掛けてくれていたんでしょう?さっきも、今も」

リン。リン。
バニプッチの鳴き声は言葉にならない。

「ねえ、声……」

何と言っているのか解らない。

「喋っているんでしょう?私に」

どうして、どうして聞こえないの。どうして解らないの。
それは苛立ちだった。誰かにできて私にできないことを、そんな生まれ持った能力などで完全に仕切られてしまう、そのことが苛立たしかったし、情けないとも思った。

そして、同時に悲しかった。
もし私にも彼のような力があったなら、どれだけ素晴らしいだろうと思ったのだ。
私が彼と同じ力を持っていれば、こんなにももどかしい思いをしなくて済む。あいつを羨ましく思う必要もなくなる。……彼だって、馬鹿なことを考えなかったかもしれない。
そんな簡単にことが運ぶ筈がないことを、私は彼との一件で嫌という程に思い知っているのだけれど。

『可哀想に。』

そう、あの悲しい言葉を掛けられたその日から、私達の運命は袋小路になっていたのだ。
でも、それじゃあ一体、どうすればよかったというのだろう。

きょとんとした顔で私を見つめるバニプッチ、その冷たい身体に触れていた手で、私は強引に自分の腕へと引き寄せた。

「ごめんね。私には何の力もないの。英雄だとかなんだとか、世間は勝手に私を持ち上げるけれど、私はただのポケモントレーナーなのよ」

勿論、腕の中のバニプッチは身体をリンリンと揺らすだけで答えない。
答えてくれたのかもしれないが、それを私が言葉として拾い上げることは決してない。
それでいいのかもしれない。だってそれが普通なのだ。ただちょっとおかしな人が私の近くに居ただけ。私は彼に毒され過ぎていただけ。
……だからほんの少し、こんなにも悲しいだけ。

リン、リン。
聞こえる音はただ苦しい。私はその冷たい体をぎゅっと抱きしめて沈黙した。
この悲しみを外に吐き出す術を知らない私は、ただ自分の中に渦巻くものが静かになるのを、こうやって待つしかなかったのだ。


2014.10.31

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