B 夏ー2

旅って、こういうものだったのかしら。私の旅は何だったのかしら。
渦巻く感情に取り敢えず蓋をした。今は何も考えたくなかった。
ただ、この醜い土地に取り上げられてしまった私の旅を取り戻したいという、その思いだけは直ぐに浮かんできた。
だから今、私はこうして荷物を纏めている。

考えに考えた末、私は4つのボールをポケットに入れた。全てモンスターボールで捕まえられた、あるいは譲り受けた仲間達だった。
最初に貰ったダイケンキ。フキヨセシティで彼と話したランプラー。双子の兄、トウヤから譲り受けたバニプッチ。そして、ゼクロム。
鞄の中にボールを放り込んで、ひょいと肩に提げて、私は軽快に階段を駆け下りた。

「おはよう、トウコ

既に朝食は用意されていた。トーストにジャムが塗られる。
このジャムはトウヤの手作りだった。オレンの実の酸っぱさがトーストによく合う。外に出られない彼は彼で、家での楽しみ方を私の何倍もよく知っているのだった。
私はジャムなど作れない。私は自分より遅く起きてきた相手の朝食を用意するだけの気配りができない。
このうんざりするような土地で、英雄だ、救世主だと騒がれる私なんかよりも、トウヤの方がずっと立派だと、私は本気で思っている。
そして、そうした私の解釈が世間の見方と相容れない位置に在るのだということを、ちゃんと解っている。仕方のないことだと諦めている。

「この朝食もしばらく食べ納めね」

そう言って笑った。

「今度の旅は、何処へ行くんだ?」

「取り敢えず一番道路から順番に回っていくつもり」

一番道路から順に回る。
そのようなこと、本来なら一度目の旅で果たしていることであった筈だ。現に私は一番道路も、そのずっと向こうの町も、森も、海も、知っていた。
それでも今一度、回らなければいけなかったのだった。一度目の旅を、今日から始まる二度目の旅で上書きしなければいけなかったのだった。
その理由を、言葉の足りない私は上手く言語化できない。けれども言葉にならない気持ちを私は確信していた。そして、その気持ちを双子の兄である彼は見抜いていた。
ホットミルクがコトンと音を立てて置かれた。冷房の効いた部屋しか知らないトウヤならではの行動だが、私は気にせずに口に運んだ。

「いろんな場所に行って、いろんなものを見ておいで」

その言葉に私は持ち上げたマグカップを不自然に宙で止めた。
彼は笑顔でそんなことを言うのだ。
私なんかよりも余程世界を見たい筈の彼が、ポケモンと一緒に旅をしたい筈の彼が、こうして、いつだって笑って送り出してくれるその意味を、私は苦しい程に理解している。
だから、弱音を吐いたり、ましてやみっともなく泣くことは許されないのだ。

「今、どうしてこいつは笑っていられるんだ、とか考えただろ?」

私は苦笑した。同じ血を分けたトウヤにはお見通しだったらしい。

トウコは悩むのが好きなんだな。俺が病気がちなのも、旅ができないのも、トウコのせいじゃないのにさ」

「……」

「誰よりも楽しそうな顔をして、でも泣きそうな顔をして、……でも、それでもトウコは泣けないんだよな。全く困った妹だよ」

トウヤは悲しそうにそう言った。

「泣けない」のだ。悲しみや淋しさが胸の内を支配して、息が止まりそうなのにも関わらず、上手くそれを吐き出せない。
物心ついた時から、誰かの前で涙を流したことなど一度もなかった。物陰に隠れるようにして泣いたことはあったのかもしれないが、それも最近では皆無だった。
今では「泣けない」のか「泣きたくない」のか「泣かない」のか、自分でもよく解らなくなっていた。

自分を偽ることは簡単だった。見栄を張り、理解される自分を演じるのはもっと簡単だった。
しかしそれを日常としてしまった私には、当たり前のことが見えなくなっていたのだ。
自分が吐き出したありのままの言葉や、ありのままの感情、それらが誰かに不快感を与えることなく受け入れられるということを、私は経験しないままに育った。
ありのまま、が受け入れられるということを、私はずっと、忘れていたのだ。ずっと、気付けずにいたのだ。

「きっと俺のせいだ」

「それは違う」

私は反射的に、彼のその言葉をばっさりと否定した。トウヤは驚きに目を見開く。

「じゃあ、私がチェレンやベルと打ち解けられないのも、本当の自分を出せないのも、泣けないのも、全部トウヤのせいだっていうの?
違うよ、そんなことない。これは私の持っているもので、私だけのもので、だから、」

「誰にも渡せない」

最後の言葉を、彼は見事に代弁してみせた。
驚いたような、しかし何処か嬉しそうな笑みを浮かべる。

「嬉しいよ。トウコもそんなに我を張れるようになったんだな」

「……」

「きっと春の旅がトウコを変えたんだ」

そうだろうか。私は思案した。あの旅は私にとってどんな意味があったのだろう。
得たものは沢山あった。それは確かに言えることだ。逆に失ったものなど特に思いつかなくて、旅が私を変えたと言われれば頷かざるを得ない。

しかしそれ程に多くのものを得たにも拘わらず、胸を締めつける喪失感は拭えない。
その正体は解っていた。しかしそれに浸り続けるのはあまりにも苦しいことだった。
だから私は自分の手で、物語を上書きする旅に再び出なければならない。その思いが、私を突き動かしていた。
だって、得たものは本当に多かった筈なのだから。私はそれを、思い出さなければいけない筈なのだから。


食器を片付けてから、荷物を持って玄関の扉を開けた。
勇んで駆け出そうとしたその時、見送りに来てくれたトウヤが私を呼び止める。

「今度の旅は、トウコが自分で選んだ旅だ」

暑い日差しが容赦無く照りつける。しかし不快ではなかった。寧ろ外が好きな私は、その痛い程の日差しを肌に受けて、満足そうに目を細めさえしたのだった。
旅立ちの日は桜吹雪が待っていた。時間の流れを感じ、太陽に向けて思わず目を細める。

「今ではもう、君の旅に干渉しようとするものは誰も居ない。ダークストーンを押しつけたチャンピオンも、君とポケモンとの絆に目を付けたあの英雄も」

「やけに私を敵対視してくる幼馴染も?」

「その通り」

チェレンやベルのこと、このどうしようもない土地のチャンピオンのこと、言いたいことだけ言っていなくなってしまったあいつのこと。
彼はそのほとんどを知らない筈なのに、私もあまり語ってこなかった筈なのに、全てを見透かしたように言うのだ。
トウヤは勘が鋭い方では決してない。きっと「私」が相手だからだ。同じ血を分けて、全く同じ月日を生きた私だからこそ、彼はここまで、読んでしまうのだ。
その、いっそ気味が悪い程の看破は、けれど私を安心させた。
言葉が足りなくとも、何の努力をしなくとも、どこまでも正反対な性格をしていようとも、私達は双子で、分かり合えて、許し合えていたからだ。

「だからさ、今度こそ、これは君だけの旅だよ」

解っている。これは私だけの物語。誰にも渡さない。
……大丈夫だ。もし迷っても、私にはポケモンが居る。
この子達と一緒に居る未来を、私は確かに一度目の旅で勝ち取ったのだ。だからきっと、何も恐れることなどないのだ。

「当然よ!」

私は気丈に笑ってみせた。帽子を深く被り直して、駆け出す。
夏の風が頬を掠める。ランニングシューズの底は既に磨り減っていた。


2014.10.31

© 2024 雨袱紗