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私は呆然と立ち竦み、何処かへ消え去ってしまった恐怖を、ぼんやりとした頭で必死に探していた。
しかし見つからない。あんなにも恐ろしかった筈のゴースが、今だって目の前に居るというのに、震えは起きないし、心臓も跳ねてはいない。
それはきっと、目の前の彼がいきなり笑い出したからだ。
彼が笑ったことが、迫り来るゴースよりも恐ろしいと言っているのではない。
ただ、何故笑われているのかがどうしても解らなくて、しかし私の理解に及ばないところで彼はまだ笑い続けていて、私はどうしようもなくなって、呆然とするほかになかったのだ。
「で、その頼りないポケモンに加勢した結果、ゴースを捕まえたんだろ？」
「そうよ。どうして追い掛けてくるのか解らなくて、困っているの」
「じゃあ聞くが、お前はそのチコリータが駆け寄ってきたら、悲鳴を上げて逃げるのか？」
「逃げる訳ないじゃない。私はこの子のトレーナーだよ？」
そこまで紡いで、はっとした。先程とは全く違う理由で私は青ざめ、その顔色のままにゴースを見上げる。
大きな目がこちらをじいっと見ている。ふわふわと漂いながら、やはりケタケタと笑っている。
このゴースはもう、私のポケモンなのだ。捕まえたのは事故だったとはいえ、モンスターボールを投げたのは私だし、ゴースも私だと認識して、ボールに収まってくれたのだ。
この子はただ、トレーナーである私に置いて行かれないように、必死についてきてくれていただけだったのだ。
「……じゃあどうして、あんなに怖い笑顔をしていたの？」
「いや、ゴースは元々がそんな表情なんだよ」
尚も訝しげにそう尋ねた私に、彼は溜め息混じりに説明してくれた。
そこまで理解して、私の頬は病気みたいに真っ赤になってしまった。盛大な勘違いとゴースへの無礼に顔から火が出る勢いだった。
それは私が初めて抱いた、恥ずかしさだなんて生易しいものではない、心を抉るタイプのショックだった。
彼は私を認めてボールの中に入ってくれたのに、私はそのことを完全に忘れ、ただ彼の顔が怖いからというだけで、悲鳴をあげて逃げていたのだ。
「ご、ごめんなさい……」
トレーナーであることを忘れ、逃げ回ってしまったことに対する謝罪をゴースに、私の馬鹿な勘違いで迷惑を掛けてしまったことへの謝罪をシルバーにするため、私は深く頭を下げた。
1匹はケタケタと笑いながら私に近付き、1人は大きく溜め息を吐いて「見苦しいから顔を上げろ」と吐き捨てるように紡いだ。
しかし顔を上げれば当然、ゴースと目を合わせることになる訳で。
「……」
無言の睨めっこが続いた。……暫くすると、私の中にも余裕が生まれてきた。
慣れてきたような気がする。こうしてよく見てみれば、彼の顔はとても愛嬌があって、可愛い。……うん、可愛い。
私はそっと、ゴースに手を伸ばしてみた。ガス状であるゴースに触れることは叶わないが、彼の周りの空気はとても冷たい。
「ひんやりしていて気持ちいいね」と笑うと、ゴースは空中でくるくると嬉しそうに回ってみせた。
「おい！」
「え、は、はい！」
ゴースをモンスターボールに戻そうとしていた私に、彼が一喝する。私とゴースがシュールな睨めっこをしている間、チコリータやヒノアラシと一緒に待っていてくれたらしい。
反射的に大声で返事をしてしまった私に、彼はとても不機嫌そうな顔を向けた。
「まさか、俺にかけた迷惑に対して取るべき責任が、謝罪だけで果たされるとでも思ったのか？」
その言葉に反応したのは、私ではなく、彼のパートナーであるヒノアラシだった。チコリータと向き合い、臨戦態勢を取る。
俺に掛けた迷惑の分は、ポケモンバトルで帳消しにしてやる。挑発するような彼の声音にはそんな言葉が隠れていたのかもしれない。
勇んで飛び出したチコリータに急かされるようにして、私はシルバーの方へと向き直った。
私も、彼ともう一度ポケモンバトルがしたいと思っていたのだ。
「頼りない方のポケモンでいいのか？」
馬鹿にしたようにそう言うので、私も同じように皮肉を込めて言い返した。
「大丈夫だよ。その頼りない方のポケモンで、君に勝ったんだもの！」
「……大口叩いていられるのも今の内だぞ！」
ヒノアラシの「ひのこ」と、チコリータの「はっぱカッター」の応酬が続いた。
威力にムラがあるらしいはっぱカッターを読み切れず、ヒノアラシは劣勢に追い込まれていく。
しかしシルバーはあくまで冷静に、的確に指示を出す。ヒノアラシも懸命にそれに応える。
あ、ほら、笑った。
皮肉気でもなく、馬鹿にしたようにでもなく、彼はポケモンバトルをしている時、一瞬だけ、本当に嬉しそうに笑う。
その瞬間の彼の紅は、とても綺麗だ。まるで夜にひっそりと佇む月のよう。真昼に音を立てて私達を呼ぶ小波のよう。
「……戻れ、ヒノアラシ」
しかしそれは本当に一瞬で、その美しさは、次の瞬間の冷たい目に消し去られてしまう。
「いいか、お前が勝ったのは、俺のポケモンが弱かったからだ」
傷付いたヒノアラシをボールに戻し、彼は踵を返して立ち去ろうとする。
私はそんな彼を慌てて呼び止めた。とても不機嫌そうにこちらを振り返るので、私は彼に掛けるべき言葉を喉の奥で組み立て、音にする。
私が、忠告しておかなければいけない。もうこれ以上ポケモンを盗まないでと、彼に伝えなければならない。
その為に私は彼を探していた筈だった。
「ありがとう」
しかし組み立てられた音は、予定とは全く異なるもので、私は勿論のこと、シルバーも驚いたように目を丸く見開いていた。
その音に付随するように、私の胸にとある感情がそっと落ちる。
それは私が初めて抱いた、もどかしい程の膨大な質量を持ちながら、何処か捉えどころに欠ける、ぎこちない、けれど心からの感謝の気持ちだった。
「ゴースのこと、ちゃんと説明してくれてありがとう。私だけだったら、あのまま逃げ続けて、きっと、もっとあの子を傷付けていたから」
「……俺は何もしていない。お前が勝手に気付いて、勝手に謝ったんだろう。俺を巻き込むな」
冷たい声が、続く私の言葉を鋭く遮った。
全てを拒絶する目、全てを嫌う目。私も拒まれている。解っている、解っていた。
ごめんなさい、と小さく呟く。彼に聞こえたかどうかも危うい程の小さな謝罪で、しかし冷たい目と声に気圧された私には、それ以上に大きな声を出すことはできそうになかった。
「ゴースにこれ以上、謝ったりしない方がいい」
「え？」
「追いかけっこをしていたとでも思っているんだろう。あいつはただお前にじゃれついて、遊んでいただけだ。お前が自分を怖がって逃げたなんて、きっと思っていない。
だから、お前もあいつの追いかけっこに付き合っただけだと、そのつもりだったと、そういうことにしておけ」
私はあまりの驚きに言葉を失った。
それはきっと真実だった。その真実は私の心を軽くした。しかし私は決して、その真実に驚いたのではない。
彼がゴースのことをよく理解していたことに驚いたのでもない。私も、ゴースへの恐怖がなければ、彼のようにゴースのことを冷静に見ることができただろうから。
そうではなくて、私が驚いたのは、
「どうして君は私にそんなことを、言ってくれるの？」
「……」
彼は答えてはくれなかった。今度こそ止めていた足を進め、マダツボミの塔から立ち去ろうとする。
私はもう一度彼を呼んだ。今なら、先程の言葉を紡いでも咎められない筈だ。
2014.10.21
「羞恥」「謝意」