ミルクパズル

3

自慢になってしまうかもしれないけれど、私はそれなりに、ポケモントレーナーとしての知識は持っているつもりだった。
草むらを歩いていて飛び出してくるポケモンの名前は、図鑑を取り出さずとも解るし、タイプだって、どんな技が効果的なのかだって知っている。
体力にも自信がある。お姉ちゃんのポケモン達と追いかけっこをして鍛えたスピードと持久力は、この旅でも活躍しそうだった。
私は、新米トレーナーの中でもとびきり優秀なスタートを切っていると自負していたのだ。

それがまさか、こんなところで足止めを食らう羽目になるとは思わなかった。

キキョウシティのマダツボミの塔。入った瞬間、目の前の大きな柱がゆっくりと動いている。その時点でおかしいと思うべきだったのだ。
何が大きな力が働いていることに、私は気付くべきだった。ましてや夜に足を踏み入れるだなんてこと、絶対にしてはいけなかった。

「こ、怖い……」

ポケモン図鑑を出さずとも、ふわふわと漂っているそのポケモンがゴースだということは知っている。しかし知っているだけだ。
足が竦む。喉に何かがつっかえたようになり、声が出ない。自分がこんなにも怖がりだとは思わなかった。

野生のポケモンが人に襲い掛かることもあることを、私は知っていた。それくらいのリスクは事前に把握していた。
しかし、反射神経と頑丈さには自信があったため、それなりに強力な技を繰り出されても避けられるだろうと思っていたのだ。
しかし、ポケモン達が繰り出す技は、人間が見切って避けられるような「物理技」だけではない。
目の前のゴースのように、私達に避けられないような「特殊技」を得意とするタイプも存在するのだ。

勇気は知識に付随するのよ、というのは、読書と勉強が好きなお姉ちゃんの言葉だったが、私はこの状況下でとてもではないがその言葉を信じる気にはなれなかった。
寧ろ、このゴースがゴーストタイプであることと、図鑑のおぞましい説明を把握していない方が、私は勇気をもって戦える気がした。
つまりはきっと、無知であることもまた、勇気を生むのだ。
勇気と無謀を混同していた当時の私はそう納得し、しかしその結論を出したところで、現状は何一つ打開されていないことに気付き愕然とした。
要するに、相当なパニックに陥っていたらしい。

つまるところ、私がこのゴースを恐れているのは、特殊技を扱うからでも、ポケモン図鑑に載っているゴースの知識を持っているからでもなく、
ただ単に「お化けのようなポケモンが怖いから」という、とても単純で幼稚なところに行き着く訳で。

「あ……」

ケタケタと笑いながら近づいてくるゴースに、チコリータは果敢にも怯まず飛び出した。
しかし指示を出さずに沈黙する私に気付くと、不安気にこちらを振り返り、小さく鳴いて私を呼ぶ。
いけない、と思う。ポケモンがトレーナーの感情の揺れ動きに敏感なことを、私はよく理解していた。
お姉ちゃんのポケモンは皆、気さくで奔放でマイペースだ。きっとトレーナーに似たのだ、と私は声にこそ出さなかったものの、そう思っていた。

ここで私が弱気になったり、怖がったりすれば、チコリータにもそれが移ってしまう。
怖くない、怖くない。だってゴースはポケモンだもの。お化けがポケモン図鑑に載る筈がないのだから。
胸に手を当てて、大丈夫、大丈夫と言い聞かせる。大きく息を吸い込み、ぎこちなく笑みを作る。
それは私が初めて抱いた、自分の心にさえ嘘を吐くという、少しだけ高等な感情だった。

「チコリータ、はっぱカッター!」

ゴーストタイプにノーマル技は効かない。私は知っている草タイプの技を叫んでいた。
何処からともなく魔法のように出てきた葉っぱが、ゴースの方へと飛んでいく。
何故かその時、私は「チコリータに任せきりにしてはいけない」という使命感に襲われた。
こんなにも怖いものとの戦いを、こんなにも小さなパートナーに押し付けてはいけない。お化けと戦うのが怖いのは、きっとチコリータも同じだからだ。
これがポケモン同士のバトルであることを完全に忘れ、私はそんな責務に駆り立てられていた。

私はその葉っぱの群れを見届けてから、鞄に手を突っ込んで、何か投げられそうな小さなものを探り当てる。
それが何かを確認すらせず、思いっきり振りかぶって、投げた。

「!」

半透明でガス状のゴースでも、モンスターボールは認識して捕らえるらしい。
ぽとん、と床に落ち、小刻みに揺れるボールを、私とチコリータは息を殺してじっと見つめる。

カチッ、という、あまりにも呆気ない音を立てて、ボールは揺れることを止めた。

「……捕まえちゃった」

ゴースを、捕まえた。初めて捕まえたポケモンが、ゴース。
それを認識するや否や、私は崩れるように膝を折り、床へとへたり込んでしまった。チコリータがとてとてと歩み寄ってくる。
どうしよう、どうしよう。こんな筈じゃなかった。私が初めて捕まえたかったポケモンは、もっと別にいたのだ。
それこそ、お姉ちゃんが連れていた可愛いレディアンや、美しいスイクンのようなポケモンを捕まえたかったのに。

「ど、どうしよう」

私は屈み、手に入れたボールを拾い上げる。チコリータも私の頭の上によじ登り、ボールの中を覗き込んだ。
赤と白のボールの中で、ゴースがニヤリと笑ってこちらを見上げている。さあっと血の気が引いた。どうしてこんな恐ろしいポケモンを捕まえてしまったのだろう。
しかし、捕まえて自分の手持ちにしてしまったポケモンを、ただ怖いから、だなんて身勝手な理由で、この小さなボールに閉じ込めておく訳にはいかない。
私はそっとボールを投げた。現れたゴースは周りをきょろきょろと見渡し、私と目が合うとケタケタと笑いながら迫ってきた。

「!!」

それは私が初めて抱いた、震え上がる程の恐怖だった。
声にならない悲鳴を上げて、マダツボミの塔を走り抜ける。
無理だ、絶対に無理!意思の疎通なんて絶対にできない!
ゴースはケタケタと笑いながら迫ってくる。下手なホラー映画なんかよりずっと怖い。
何度か転びそうになりながら、私はマダツボミの塔を走り回り、上へ行ったり下へ行ったりを繰り返していた。

そして最上階へと辿り着いてしまった私は青ざめる。もう後がない。いざとなったら窓から飛び降りるしかない。
しかし九死に一生を得るとはこのことか、私はこの絶体絶命の場で見覚えのある後ろ姿を見つける。
私と同じくらいの背丈、少し癖のある紅い髪、後ろに連れているヒノアラシ。

「シルバー!」

振り向いた彼は、私を見るとその紅い目を丸くして驚く。
私は彼の背後に回り込み、肩を掴んで背中に縋りついた。

「おい、何を、」

「助けて!何とかして、お願い!ゴースが笑いながら追いかけてくるの!」

見栄だとかとかプライドだとか、そうした類のものは走っている最中に落としてきてしまっていた。そんなものよりも命が大事だ。
彼もまた、こちらに迫ってくるゴースに驚いた顔をしていたが、私のように悲鳴を上げたりはしなかった。

「……?」

彼の背中から少しだけ顔を出して様子を窺うと、彼はケタケタと笑うゴースをじっと見ていた。
怖くないのだろうか。何も攻撃を仕掛けて来ないゴースに安堵しつつ、私はその様子を見ながら、自分の心臓が落ち着くのをひたすらに待った。

「もしかして、こいつ、お前のゴースか?」

「捕まえようとした訳じゃないの!チコリータに加勢しなきゃと思って、咄嗟に投げたのがモンスターボールで、それで……」

沈黙。ひたすら続く沈黙。
彼が生んだその静寂の意味するところが解らずに呆然としていると、唐突に彼は笑い出した。
落ち着いていた私の心臓が、また煩く跳ねていた。
しかしこれは恐怖だとかそうしたものではない。目の前を漂うゴースはまだ恐ろしいけれど、それに反応した鼓動ではない。
……なら、どうしてこんなにも煩いのだろう。今の私には皆目見当もつかなかった。

「なんでポケモンバトルに加勢しようだなんて思ったんだよ。そんなにお前のポケモンは頼りないのか?」

私を馬鹿にするように、私の取った奇行の滑稽さを噛みしめるように、彼は肩を震わせて笑い続けた。
私は得体の知れない感情を持て余していた。
何故笑われているのか、とか、そんな風にも笑えたんだね、とか、色々と思うところはあったけれど、そのどれもがふわふわとしていて覚束ない。
ただ断言できる思いがあるとすれば、

どうして、ヒノアラシを盗んだのが彼だったのだろう、

という、ただそれだけ。

2014.10.21
「虚勢」「戦慄」

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