ミルクパズル

2

私が彼について知ったこと。
名前はシルバー。パートナーはヒノアラシ。紅い目と紅い髪を持つ少年。きっと、私と同じ、なりたての新米ポケモントレーナー。
……まさか、そのヒノアラシがウツギ博士の研究所から盗まれたポケモンだったなんて、考えもしなかったのだけれど。

ポケギアにウツギ博士からの連絡が入ったのは、彼の名前を聞いた直後のことだった。
大変なんだ、直ぐに戻って来てくれと言われ、ぷつりと切れたその音に首を傾げ、……その間に、彼は姿を消していた。
きっとヒノアラシを連れてポケモンセンターに向かったのだろう。そう判断した私は、さっき来た道を戻ってワカバタウンへと向かった。

ウツギ博士の研究所は騒然としていた。
割れた窓ガラスの破片が散らばっている。野球のボールより少し小さめの石が転がっていた。
窓は当然割れていたが、人が通り抜けられる程の空間はない。
「窓を割った人物を見つけようと、研究所の職員が外へ飛び出した。その隙に犯人は侵入し、ポケモンを奪ったのだろう」と警察の人は説明していた。

「誰に渡す予定もなかったポケモンだから」「悪いことに利用されさえしなければいいんだけど」と言って、ウツギ博士は笑っていた。
警察の人を呼んだのは、博士の助手さんだったらしい。
警棒を腰に下げた警察官が、とても怖い顔をして私に詰め寄る。私は思わず後退ったが、彼が口にしたのは私への追求ではなくただの質問だった。

「そんなトレーナーと戦った?」

「は、はい。ヨシノシティで」

「名前とか、言っていませんでしたか?特徴は?」

彼の、名前。紅い髪、紅い目。
喉まで出かかったその名前を、私は何故か音にすることができなかった。

「……ごめんなさい、聞いていません。特徴も、その、初めてのバトルだったので、夢中で……。
私と同い年くらいの、男の子だったことは覚えています」

それは私が初めて抱いた、我が儘を叶える為に嘘を吐こうとする感情だった。

ヒノアラシを連れた、紅い髪のトレーナー。私が先程戦った彼で間違いないだろう。
彼のしたことは所謂ポケモン泥棒であり、それは悪いことで、だからこそこうして警察がやってきて事情聴取をしているのだということは、12才の私にも理解できる。
そして、犯人を捜し出す為に、彼の名前がとても大切な情報になるだろうということも容易に想像できた。
解っていた。解っていながら私は彼の名前を伝えなかった。伝えられなかった。

この人は彼からポケモンを奪うだろう。それが当たり前だし、そう在るべきだ。本来ならあのヒノアラシは彼に託されるべきではなかった。
いずれ託されるにしても、勝手に奪い取るという手段を彼が取ることは許されない。
それでも、と思った。それは私の身勝手な我が儘だった。弁護士を目指すお姉ちゃんの妹でありながら、こんなことを考えるなんて間違っているとも思った。
それでも、どうしても伝えられなかった。この怖い顔をした警察官に、彼を追いかけてほしくなかった。
彼から、ポケモンを奪ってほしくなかった。

だって、彼はボールを投げる時、ほんの一瞬だったけれど、とても楽しそうに笑ったのだ。

警察官が研究所を出て行ってから、私はウツギ博士と一緒に割れた窓ガラスの掃除をしていた。

「犯人がまだその辺りをうろついているかもしれないと思ったら、慌ててしまってね。
コトネちゃんが彼と接触する前に、安全なところへ呼び戻しておこうと思ったんだ」

「でも、既にバトルしていましたけどね」

「そうだね。……それにしても、コトネちゃんがその少年に勝っていて本当によかったよ。もし負けていたら、君のポケモンも奪われていたかもしれない」

その言葉に私ははっとした。
彼はこれからもポケモンを奪うのだろうか。そんな疑念が頭をもたげたからだ。
『俺は世界で一番強いポケモントレーナーになる男だ』と彼は言った。強くなるために、彼はまた、誰かのポケモンを奪い、自分の力とするのだろうか。

さあっと血の気が引いた。警察官にちゃんと彼の名前を伝えなかったことを、今頃になって私は悔い始めていたのだ。
もし、第二第三の事件が起きてしまったら、私のせいだ。
それは私が初めて抱いた、どす黒い色をした、息の詰まるような後悔だった。

私は勢いよく立ち上がった。ちり取りの中のガラスが鈍い音を立てる。
どうしたんだい、と笑いながら尋ねるウツギ博士に、私は慌てて説明した。

「私、彼を追いかけます」

「え、どうしてだい?君が責任を感じる必要はないんだよ」

「彼を実際に見たことがあるのは私だけです。特徴は、その……あまり覚えていないけれど、また会えばきっと彼だって分かると思います。
彼、これから強くなるんだって言っていました。もしかしたら、お姉ちゃんみたいにジムを回るのかもしれない」

早口で、上ずった調子で話す私に、ウツギ博士は暫く考え込む素振りをした後で立ち上がり、奥の机に置いていたタマゴを私に差し出した。
チコリータのタマゴよりも一回り小さいそれは、時々中で動いている。青と赤の可愛い模様が入っていた。

「知り合いのポケモンじいさんから譲ってもらった、珍しいポケモンのタマゴらしいんだ。きっと、コトネちゃんの力になってくれると思うよ」

「あ、ありがとうございます!」

貰ったばかりのタマゴを抱え、私は踵を返して駆け出した。
助手さんが「私からも、これを」といって、ポケモン用の傷薬とモンスターボールを私にくれた。
空のモンスターボールをポケモンに投げると、ポケモンを捕まえることができるらしい。
捕まえたいポケモンが現れた時は、少し戦って疲れさせてからの方が捕まえやすいことを助手さんは説明してくれた。
私は彼にもお礼を言い、研究所を出ようとする。するとウツギ博士がもう一度私の名前を呼んだ。
慌てて立ち止まり、振り返ると、彼はひらひらと手を振って笑った。

「無理をしてはいけないよ。旅先でコトネちゃんが危ない目に遭うと、悲しむ人が沢山いることを忘れないようにね」

その言葉に、私の小さな世界が脳裏を過ぎった。
お母さんやお姉ちゃん、ヒビキ、遠くで働いているお父さん。彼等を悲しませたくはない。
皆に心配を掛けないようにしよう。そしていつか、お姉ちゃんのように笑顔で戻って来るのだ。

「はい!行ってきます!」

研究所を飛び出し、再び走り出す。
強い風が、二つに結わえた私の髪を巻き上げて頬を掠めさせた。背中を強く撫でて、抱き上げるようにふわりと吹いた。

ワカバタウンは、始まりを告げる風が吹く町だ。
私の大好きな小さな世界。私の大好きな人達と私が楽しく暮らせる、小さな町。
その町に吹く風が、私を外の世界へと押し出す。

早く、彼に追いつかなければ。
それは使命感に似ていた。責任を果たしたいと願う気持ちにも似ていた。
私があの時、警察官にきちんと彼のことを伝えていたなら、私はこんなにも慌てて町を飛び出さなくてもよかったのだ。

しかしそれと同時に、私はわくわくしていた。
早く彼に追いつきたい。もう一度彼に会いたい。あの荒んだ眼が柔らかく細められるところを見たい。紅い目が美しく在るその瞬間を見逃したくない。
それは私が初めて抱いた、世界の色が変わる程の胸の高鳴りだった。

「だって、名前を教えてくれたんだもの。一度きりなんて、きっとそんなことないよね」

ポケモンバトルに勝利した時に「約束したからな」と不機嫌そうに言った彼の顔を思い出して、私は笑った。
いつ、何処で彼に会えるのかは解らない。だからこそ、踏み出す一歩一歩が楽しみだった。
きっと会える。だって、私は彼を呼ぶための名前を知っているもの。

これは小さな罪を償う為の旅、私のささやかな我が儘を叶える旅。

2014.10.21
「狡猾」「背徳」「高揚」

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