ミルクパズル

1

お気に入りの帽子、新調したバッグ、まだ使い慣れないポケナビ。
私の旅、私だけの旅。初めてのポケモン、初めての冒険。

「こんにちは」

見た事のない男の子。新しい出会い。

「なんだよ、人のことジロジロ見てんなよ」

同い年くらいの彼は、ぶっきらぼうにそう言って私を突き飛ばした。
転がった帽子をチコリータが拾って持ってきてくれる。お礼を言ってそれを受け取る。
こんなに小さな、生まれたてのポケモンでさえ、人を労り気遣うことを知っている。そのことに私は少しだけ驚き、嬉しくなった。
小さな小さな私のパートナーを抱きかかえ、ワカバタウンを後にした。

気にはなっていたけれど、冷たい態度を取る彼に執着する必要はなかったのだ。だって私の前にはこんなにも広い世界がある。
紅い髪、鋭い、射るような目。その少年のことを、私はすぐに忘れてしまう筈だった。
私はこれから数え切れない人と出会うのだから。彼はその中の、たった一人に過ぎない筈なのだから。

ワカバタウンの小さな家が、私の世界だった。
遠くの都会に働きに出ているお父さん、ワカバタウンで美味しいご飯を作ってくれるお母さん、5つ年上のお姉ちゃん、身体が弱い双子の弟。
決して裕福ではないし、家族が揃うことも滅多にないけれど、とても楽しくて、幸せな家族。

けれどそんな家を、7年前、お姉ちゃんが出て行った。
ウツギ博士にチコリータを貰って、伸ばしていた綺麗な青い髪を2つ結びにして、10歳の彼女は笑顔でワカバタウンを離れた。
当時5歳だった私は、突然お姉ちゃんが居なくなったことがとても恐ろしく、寂しさと憤りとの間を行ったり来たりする感情を持て余していた。

しかし彼女は思ったよりも早く帰ってきた。ジョウト地方とカントー地方を旅して、16個の綺麗なバッジを手に入れていた。
小さかったチコリータは、大きなメガニウムに進化していた。1つしかなかったモンスターボールは6つに増えていた。
「皆、旅先で出会ったポケモン達だよ」そう言って、彼女は手持ちのポケモン達を私に紹介してくれた。

ギャラドスの大きな青い身体と怖い顔にはとても驚いたけれど、とても人懐っこいポケモンだった。
エーフィやレディアン、デンリュウといった可愛いポケモンもいた。スイクンというポケモンはとても美しかった。
彼女は広い世界を旅して、沢山の人と出会い、沢山のポケモンを仲間にして帰ってきたのだ。

私も、旅に出たい。ポケモントレーナーになって、広い世界を見て、沢山のポケモンに会いたい。
そんな風に思い焦がれるのに、そう時間は掛からなかった。

それから7年。
弁護士を目指して勉強をしていたお姉ちゃんは、小さなポケモンのタマゴを私に託してくれた。

『メガニウムを育て屋さんに預けたら、タマゴが見つかったの。
コトネ、ずっと旅に出たいって言っていたでしょう。この子と一緒に冒険してみない?』

長い髪をバッサリと切ったお姉ちゃんは、もう旅を止めてしまっていた。
私はお姉ちゃんの旅を引き継ぎ、お姉ちゃんの代わりに7年後の世界を見ることに決めたのだ。
このまま、この小さな世界に留まり続けることもできた。ここに居ることはとても幸せだった。
でもそれ以上に、外の世界には、お姉ちゃんが旅した世界には、幸せが沢山詰まっている気がしたのだ。

お隣に住むウツギ博士から、新しいポケモン図鑑を貰った。お母さんは私の為に新しいバッグを買ってくれた。ヒビキも笑顔で見送ってくれた。
タマゴから孵ったチコリータはとても人懐っこくて、何処へ行くにも私も後ろをついて歩いてきた。
沢山の祝福を受けて私は旅に出た。私は皆に愛されていた。私も皆のことが大好きだった。

私は怒りや後悔、憎しみや妬み、そうしたものを知らずに育った。育つことが、できてしまっていた。

「そんな弱いポケモンを連れ歩いて、楽しいか?」

だから、彼の全てを拒絶し全てを嫌うその視線が、どうしても理解できなかったのだ。

「君はポケモンと一緒に居て、楽しくないの?」

「お前は道具を持っていて楽しいと思うのか?」

冷たい声がした。全てを拒む声がした。私も拒まれていると直ぐに解った。
しかし彼は私に視線を向けている。それは敵意だろうか。憎悪だろうか。それとも、もっと別の何かだろうか。
いずれにせよ、当時の私が解る筈もなかったのだ。どの感情も私が経験したことがないもので、彼の冷たい目に温度を分ける為の言葉を私は見つけられなかったからだ。

「……ごめんなさい」

だから、謝った。
彼はそれに酷く驚いた表情を見せた。丸く見開かれた眼の、その奥に、とても優美な色が潜んでいた。
私は思わず彼の肩を掴み、その目をぐいと覗き込んだ。

「な、何をする!」

紅い、目をしていた。赤などという明快なものではなく、もっと深く底の知れない色がその中に在った。
彼は慌てたように私を突き飛ばし、その目に警戒の色を宿して私にまくし立てた。

「この町の奴は、出会ったばかりの人間にそんな挨拶の仕方をするのか?」

「あ、ご、ごめんなさい」

咄嗟に謝罪の言葉が口をついたが、私の目は彼の紅に釘付けになっていた。
もっと近くで見てみたい。湧き上がった欲に忠実であろうとして、私は再び口を開いた。

「綺麗な目をしていたから。……ねえ、もう一度見せて」

ぽかん、と。彼は私の言葉にはいともいいえとも言わず、ただそのように茫然と立ち尽くすだけだった。
少なくとも、嫌だとは言われていない。自分に都合のいいようにそう解釈した私は、そっと彼の方へと歩み寄った。
肩を掴むのは流石にまた拒まれそうだったので、そのままじっと顔を覗き込む。

「そんな、荒んだ目をしないで」

「急に何を言い出すんだ」

「だってこんなに綺麗なのに」

それは私が初めて抱いた、他の人の持っているものを羨ましいと思う感情だった。
花に宿る赤とも、炎に溶ける赤とも違っていた。夕日のような眩しさはなかったし、血のような毒々しさともまた違っていた。
きっと「月」だと思った。東の空に佇む月が時折、このような紅い様相を呈することを私は知っていた。
紅い月は静かな夜の中にぬっと這いずり出て、こんな風に冷たい眼差しを私達に向けるのだった。

いっそ「おそれ」を抱いてしまいそうな程の美しさ。それがこの男の子の中にはある。あまりにも美しい紅がある。
人の目とは、こんなにも美しい色を宿すことができるものなのだ。私はただそれだけのことに深く、深く感動してしまったのだった。

彼の、射るような荒んだ眼はとても冷たく、そこにある赤色も、低い温度で全てを拒絶していた。
私の温度を分けてあげたい。もし、その目が笑顔と共に優しく細められたなら、きっととても素敵だ。

しかし彼は肩を竦め、相変わらずの冷たい視線を私に向けるのみだった。

「……見ず知らずの人間に、そんな指図をされる覚えはないぞ」

「じゃあ、知り合いになろうよ。私はコトネ。君は?」

そう尋ねると、彼はさっと私と距離を取り、不敵な笑みを浮かべてポケットからモンスターボールを取り出した。
宙に投げられたボールから現れたヒノアラシは、私の傍にいるチコリータを見つけると、途端に背中の炎を燃やして臨戦態勢を取った。

「俺に勝てたら教えてやるよ!」

その言葉に先に反応したのは、私ではなくチコリータだった。私の足元からぴょんと飛び出し、炎を身に纏うヒノアラシに近付く。
昔、お姉ちゃんが持っていた旧型のポケモン図鑑で遊んでいた私は、草タイプのチコリータが炎タイプのヒノアラシに不利であることも、どんな技に警戒が必要なのかも知っていた。
あんなに憧れたポケモンを連れての旅。パートナーと協力して戦う初めてのバトル。
心臓が弾けそうな程に大きな音を鳴らしていた。私はチコリータに指示を出すために大きく息を吸い込んだ。

2014.10.20
「羨望」

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