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蛍光灯のスイッチをそっと付ければ、ベッドの上で動きを完全に止めている少女と、その傍らで項垂れるようにして眠っているサーナイトの姿があった。
サーナイトの方は、明かりが点いたことに気が付くと勢いよく顔を上げ、弾かれたようにフラダリの方を見た。
彼は小さく挨拶をしてから、布団の中で丸くなる一人の少女を見下ろし、ああもしかしたら「眠り姫」という言葉は、彼女のために在るのかもしれない、などと思いさえしたのだった。

「ただいま、シェリー

フラダリはミアレシティにあるカフェソレイユにて、チーズサンドとカフェオレを2人分、購入していた。
紙袋から仄かに香るその匂いに気が付いたのか、それともフラダリの声が届いたのかは分からないが、
とにかく彼女の意識を覚醒させることには成功していたらしく、毛布を被った少女の身体が僅かに、もく、と動いてくれた。
無造作に下ろされた髪は、あの頃よりも僅かに、ほんの少しばかり長くなっているように思われた。けれども少女は、自らのそうした変化にきっと気付いていない筈だ。

「おかえりなさい」

身体を起こし、鉛色の目を気怠そうに開き、蛍光灯の光を眩しそうにぼんやりと見上げてから、フラダリの方へ視線をゆっくり動かして、ふわ、と微笑んだ。
長く眠りすぎたこの少女は、どうやら自らがどういう人間で、どういうものを恐れなければいけないのか、といった、
彼女の身体を強張らせていた全てのことを、まだ思い出すことが叶っていないらしい。
だからこそ、あまりにも柔らかい、至福を極めた笑みがそこに在り、彼女の見ていた幸福な夢は、もしかしたら彼女の中では今も、続いているのかもしれなかった。

「何か食べたいものは?」

「いいえ、特に何も……」

「チーズサンドとカフェオレがある、と言ったら?」

「……じゃあ、食べます」

何も知らない彼女は大きく欠伸をしながら、全てを察してしまっているサーナイトの頭を撫でて、今日もいい子だね、と慈しむように、その人型をしたポケモンを抱き締めた。
サーナイトはその、花のように赤い目を閉じて、ただ主の腕の中でじっとしていた。蝋のように白い腕は、衣擦れの音を立てることなく、そっと少女の背中に回された。

フラダリはベッドの傍に、大きな段ボール箱を置いて簡易のテーブルとした。
購入していた紙皿に、まだ湯気の立っているチーズサンドを乗せれば、それなりの食事であるように見えた。
ベッドに腰掛けて、隣の少女にカフェオレを渡した。冷たくて気持ちいい、と零しつつ、少女はそのカップを自らの頬にぴたりと押し当てて笑ったのだった。

「いただきます」

そうしてチーズサンドを口にして、カフェオレを少しずつ喉に流している間に、少女はどうやらこれまでのことを、正確にはもう随分と前のことを、思い出してきたようであった。
チーズサンドを半分ほど食べ終えた頃、彼女はいつもの、フラダリにとっては最早懐かしささえ覚える、不安そうな、泣きそうな瞳になって、縋るように彼を見上げたのだ。

「……あの、誰にも見つからなかったんですか?だってこれ、カフェで売っているものですよね」

「ああ、そうだとも。勿論、人はいたが、もうわたしは人の目に触れてもいいようになっているから、隠れて食べ物を調達する必要はなかったんだ」

どういうことなのか解りかねる、といった風に、少女はコトンと首を傾げた。
美しいストロベリーブロンドには、幾つかの「ほつれ」が見受けられた。おそらく長すぎる眠りの中で、その髪が何度か絡まってしまったのだろう。
もしかしたら、ずっと傍らで少女の眠りを守っていたサーナイトが、そっと、彼女の髪のほつれを解いていたのかもしれなかった。
サーナイトがいなければ、彼女の髪はもっと酷いことになっていたに違いなかったのだ。

「君が眠っている間に、わたしは贖罪を済ませてきたよ」

端的にそう告げたつもりだったのだが、少女は益々「理解できない」といった風に眉を下げて、鉛色の視線を宙にふわふわと揺らした。
それは困り果てたときの少女の表情、縋る対象を探すときの彼女の、癖のようなものであった。
そうした「癖」を熟知してしまえる程に、フラダリはこの少女を見ていたのだ。彼が少女のもとへ戻ってくる理由など、きっとそれだけで十分だった。

「わたしのしたことは許されないことだった。世間はその罪を裁かれなければならなかった。わたしはその罪を、償わなければならなかった」

「……」

「だがもう終わった。これからはずっと、君と一緒に居られる」

その言葉で少女にもようやく合点がいったらしく、その小さな口から「警察に……」という言葉が零れ出た。
ああ、とフラダリが頷けば、「でも」と彼女はまだ釈然としない様子で、恐る恐るフラダリの方に視線を向けた。
この少女には「そういうところ」もあった。彼女は、人と目を合わせることに尋常ではない恐怖を覚えるようなのであった。

「でも、どうしてこんなにすぐ、警察は貴方を返してくれたんですか?」

「すぐ……そうだね、すぐだった。今のわたしと君にとって、5年は最早「一瞬」と呼んでも差し支えない時間だろう」

そう告げて、フラダリはカフェオレの中身を飲み干した。
まだ自らの変化に気が付いていない少女ならまだしも、フラダリが同じものを口にする必要など、本来ならまるでなかったのだ。
にもかかわらず、フラダリはこの5年間と同じように、人である振りを貫いた。
自らの身体がどうなってしまっても、それでもやはり、彼の魂は人のところにあった。故に彼の長年の習慣は、人が生きるための人の手段は、まだ手放されないままであったのだ。

「……」

彼女は、フラダリの言葉を尋ね返さなかった。けれども彼の言葉を「聞き逃した」という訳ではなかったようだ。
その証拠に、彼女のチーズサンドを食べる手は完全に止まっていた。緩慢な瞬きが、事態の咀嚼に追い付かず不安定なまま、繰り返されるばかりであった。

「君はずっと、この部屋で眠っていただけかもしれないが、地上では既に5年の月日が流れている」

「でも私、その間、何も食べて……」

「君の時間は止まっている」

「それって、」と零れた驚愕の音に「永遠の命だ」と付け足せば、彼女はいよいよ沈黙した。
鉛色の目は、見開かれることさえ忘れたように、そこに縫い付けられたかのように、凍り付いていた。

「君はわたしと共にこの地下に残り、あの兵器の光を浴びてしまった。AZと同じ呪いが、わたしと君と、君のサーナイトの中には宿っている」

少女は弾かれたようにサーナイトを見る。少女は相手が人でさえなければ、このように相手を真っ直ぐに見据えることができる。
サーナイトは赤い目で少女の視線に応えるように、一度だけ大きく深く頷いて、表情の一切を変えることなく静寂を貫き続けている。
サーナイト、とその相手を呼ぶ少女の声は掠れている。

「君が何も食べずに5年の時を生きたこと、君の髪が殆ど伸びていないことからして、
おそらくわたしや君やサーナイトには、時が止まっていなかった頃には必要であった筈の、何もかもが要らなくなってしまっているのだろう」

「……」

「我々は何もしなくても生きていかれる。だが逆に、何をしても死ぬことはできないだろう。
私はAZと多くの言葉を交わさなかったから、彼の「いつ終わるとも分からぬ苦しみ」を推測することしかできないのだが、……きっとそれは「これ」である筈だ」

……それでも、もしかしたら少女はあまり、驚いていなかったのかもしれない。
彼女の手に握られたチーズサンドは、取り落とされる訳でも強く握り過ぎて潰れてしまう訳でもなく、ただ優しい力加減で、少女の白く細長い手の中に収められていたから。

「理解できたかね、シェリー

「フラダリさん、」

「わたし達は、長すぎる時を生きなければいけない」

カチ、と、フラダリの腕に付けられた時計が音を立てた。それは「日付」が切り替わった音であった。
人が流すべき時の速度を思い出せなくなったフラダリと少女の代わりに、その無機質な電子時計が、これからずっと、彼等の時を刻んでいく。


2017.9.29
【5】

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